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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

八 東予市の中心街壬生川

 周桑平野の集落

 周桑平野は石鎚山脈と高縄山地のなす狭隘部の湯谷口を頂点とし、燧灘に向かって扇形に傾斜する沖積平野で、山麓部には扇状地が発達し、沿岸部は広い遠浅海岸となっている。
 古来より米・麦の大供給地であり、昭和六〇年でも米産は県下の約一二%、麦産で二二%を占めている。
 行政上では藩政時代に桑村郡二六村と周布郡二四村が松山藩領で、別に周布郡一一村は西条藩領を経て小松藩領として独立していた。近代には松山市・西条市・今治市に囲まれる周桑郡として、それぞれの市と経済、交通など深い関係を持ちながらも独立した地方生活圏を形成してきた。そしてその中で近代交通、流通産業や近代工業立地と深くかかわった壬生川町が東予町となり、さらに昭和四七年東予市となって発展し、将来は広域周桑市への展開を想定される地域である。この周桑平野の集落は次の二態に大別される。

 一、集村形態をとる農業集落 

 西部の山麓一帯は大明神川・新川・中山川支流関屋川の形成する扉状地が発達しており、ほぼ五〇mの等高線をはさんで扇状地集落が並んでおり、北から旦之上・上市・安用・徳能・古田・長野・石経・来見などがそれにあたる。その中でも、石経や来見は扇央部に近い乏水地帯で、むしろ松山よりの金毘羅街道の宿場集落として立地したものである。
 これらに対し一五m等高線附近は地下水も豊富で国安・新市・安出などの大規模集落を成立させると共に、国安には全国的に知られる手漉和紙農村工業を立地させた。また、これらの平野の中央部へは山麓集落からの新田開拓による分村が多く行われ、安用―安出、徳能―徳能出作、古田―古田新田などがそれにあたる。中山川氾濫原にも玉之江・石田・吉田などの微高地性集落や、新出などの新田集落がみられる。低湿地の農村集落としては寛永―元禄期にかけての松山藩新田開発による大新田や北条新田などに列状の堤防集落が形成されている。

 二、商業集落

 古くは南海道官道に沿う周敷駅(東予市周布)や、松山よりの金毘羅街道に沿う大頭・小松、今治―西条街道に沿う三芳・国安・壬生川・三津屋、松山道に沿う丹原などがそれである。これらの集落は宿場機能や商業機能を備えた集落で街村形態をとるものが多い。その中で小松は小松藩陣屋町として、丹原・吉岡新町は新たに造られた松山藩在町として発達したものであり、三津屋や壬生川は松山藩の港市として栄えたものである。それぞれ商店街を持ち代官所(新町・丹原)や浦番所(壬生川)も置かれ、行政機能も備えていた。
 この周桑平野での中心都市は東予市で、JR壬生川駅や近代港湾として整備された壬生川港、又新産業都市に指定され近代工場群を持つという条件に恵まれたものである。他地域との家屋の連続性も東予市―丹原町を結ぶ県道南川壬生川線ぞいや、国道一一号ぞいの西条(氷見)―小松間に明瞭に現れており、将来の合併を含む都市的拡大が予見されるものである(図2―1参照)。

 壬生川浦と三津屋浦

 現在の東予市の市街地部分は旧桑村郡壬生川村と、周布郡三津屋村に属していた。両村はともに寛永一二年(一六三五)、松山藩領となり、周桑平野の大部分を占める藩領の港市として発展したものである。
 「壬生川」の初見は一四世紀ころで『伊予温故録』には文和元年(一三五三)に丹生川を壬生川と改めたとあり、中世には周桑平野の交通・港市の拠点としての歴史を持っていた。「三津屋」も大曲川下流の良好な船溜り(現在の厳島神社附近)を利用し、「浦」としての機能を果たしてきたものである。
 近世に入って、加藤嘉明や蒲生忠知の支配時代にも壬生川村の鷺森城跡に代官所があり、舟寄場として、また漁村として繁栄した。

 両浦の発展と争い

 松山藩支配以前の壬生川浦への運搬路は後背地である願連寺・徳能出作・明理川・円海寺村を通る通道から本町西口へ入り、今治街道と合して浜手船寄場に至るもので、本町筋から浜手にかけて商家が並び賑わっていた(図2―31)。
 松山藩領になると藩主松平定行は周桑平野の藩領(二万三二〇〇余石)の行政・流通・産業の再編成を次のごとくはかった。

一、桑村郡の内陸部に新しい在町として寛永一八年(一六四二)新町を造成し、平野部・山村部の商業や行政(代官所)の中心とした。同じく周布郡にも新しい在町として正保二年(一六四五)丹原町を造り、同様の機能を持たせた。
一、周布郡後背地と壬生川浦を結ぶ願連寺―三津屋新道を直線状に造り、三津屋浦から浜手へ往来できるようにした。
一、壬生川浦については壬生川村沿岸の干潟干拓と壬生川浦の堀川新港の造成を計画し、現在の本河原町筋から鷺森城趾の前を通って大新田に直流していた小島川(本川・古子川とも呼ぶ)を五、六町北へ掘り替えし、今の新川へ流し、その下流両岸に大新田・北新田六三町を開拓した。
一、小島川の鷺森前の廃川部分を浚せつして堀川港を造り(明歴三年(一六五七)―万治二年(一六五九)河口を大曲川につなぎ、その土砂で旧川筋を埋め立てて本河原町と新地を造り、三津屋浦へも新道で結んだ。

 これらの変化により本町西筋は寂れ、貞享年間(一六八四~八八)には減税が実施され、旧小島川河口左岸の船着場も廃止された。それに代わって堀川新港岸や本河原町筋が栄え、港頭には壬生川浦番所が建てられ、鷺森城跡には松山藩各村の年貢米蔵所や会所が設けられ、また船問屋や、商人蔵、市場等が立ち並んだ。これは三津屋への新道による流通路の変化や、壬生川浦堀川新港の造成による商業、流通活動の中心の南への移動を示すものである。
 三津屋浦は大曲川下流の現在の厳島神社付近にあり、そのあたりの川幅は東西一五間、南北二三間と広まっていて、良い船着場となり、町筋は壬生川村町分と接する「新地」が中心であった。三津屋村が周布郡に属していたことや、新在町である丹原方面からの三津屋新道の直通などにより、同郡の産米や山方産物が三津屋浦に集まり、他藩船も出入りして、問屋や船宿も賑わった(図2―32)。
 これに対し壬生川浦は平野部の在町である新町、丹原町との商業上の対抗や、三津屋浦との競合関係から旧河川法をたてに三津屋の新川法と争い享保年間(一七一六~三五)にしばしば口上書を提出して争っている。
 そもそも両村の境界は現在の本河原町筋附近であり、それが郡境でもあった。そして町方部分もほとんど接する状況であった。このような隣接性の中で、同じ港市機能を持っていたところに争いの原因があり、宝暦四年(一七五四)の藩裁定でも所属郡別に切半のおもむきがあった。
 明治二二年(一八八九)三津屋村は北条村と合併して多賀村となり、JR壬生川駅の設置で新に駅前商店街として発展し、また同年壬生川村は大新田・円海寺・明理川・喜多台村を合併し、明治三四年(一九〇一)町制をしき、壬生川港の近代化と工業地帯の造成で発展した。昭和一五年多賀村と壬生川町が合併し、同四七年の東予市誕生に及んで旧両村の町方部分は市街地として完全に一体化した。

 東予市市街地の発展

 享保一七年(一七三二)の『桑村郡大手鑑』には壬生川村戸数三七〇戸、船三〇とあり、問屋三軒として次の名が記されている。

   諸商売入津出船問屋        五倉屋 藤 次
   右同断              堀川屋喜左衛門
   塩問屋              かと屋 弥八郎

 これらは藩公認の荷扱、船宿問屋である。
 また幕末ころに建立されたとされる堀川港常夜灯には地元商人三二人の名が次のように記されている。

   真寿屋 浅 次(組頭越智氏)   大頭屋 此之助(小糸氏)
   綿 屋 庄五郎          森田屋 作次郎
   工 屋 岩 平(高橋氏)     江戸屋 常 次
   千歳屋忠左衛門          大頭屋 宗十郎(小糸氏)
   松山屋 十 蔵(組頭矢野氏)   加納屋 幸五郎(増田氏)
   桜 屋 勇 蔵          鱶 屋 九 造(森川氏)
   柴 屋 庄 蔵(柴氏)      工 屋 宇 平(高橋氏)
   新 屋 金 市(萩野氏)     升 屋 卯 作(越智氏)
   加賀屋 元 助(川又氏)     来島屋 辰 蔵(野島氏)
   桜 屋 政 蔵          岡田屋 金 蔵
   和泉屋 伊 七(森山氏)     平地屋 宇 平
   大頭屋 岩 平(小糸氏)     堀川屋 只 助(秋山氏)
   一 色    (庄屋)      堀川屋 安 助( 〃 )
   工 屋 与 作(高橋氏)     古 屋 藤 平(山内氏)
   工 屋 米 助( 〃 )     加賀屋 唯 治(川又氏)
   平地屋 徳五郎          平地屋 岩 平

 これらは有力商人であり、堀川新港岸や今治―西条街道にそう本町・本河原町筋に店舗をかまえたものであるが宝暦一〇年(一七六〇)の『大手鏡』にある商人八〇、生魚行商九三や、明治三六年(一九〇三)の『壬生川町町是調査』」(表2―36)にある二六九戸の商人の多くはこれら大店の後背部に密集していたものである。明治初年の古地図では今治―西条街道ぞいに三津屋新地に至る範囲、特に本町・本河原町筋に囲まれたえびす町、横町を含む地域が密集度が高い。特色としては前述の『大手鑑』や「壬生川町町是調査」にある四十物(半乾魚)や生魚の行商人の多いことで、壬生川港が漁港としての機能を大きく持ち、その漁獲物の後背地への販売を行商という手段で行っていたもので「さす(にない棒)千本」の俚語が今も残っている。これらの商業活動は店舗を持つものではなく、一般民家としてあり、問屋より荷を受けて行商に出向いたものである(図2―33)。
 東予市の市街地に大きな変化をもたらしたのは大正一二年(一九二三)の壬生川駅の開設である。その開設位置は三津屋村・北条村が合併してできた多賀村である。競合関係にあった多賀村と壬生川町で多賀村に駅がおかれた理由は、駅付近は微高地で当時の蒸気汽関車の発着に便利であったためともいわれるが、壬生川村分は天井川化した新川右岸の湿地帯であり、現位置への設置が自然条件にあったものであった。
 間もなく駅と壬生川港を結ぶ駅前通りや、鉄道の東側にそって本町入口と結ぶ大正通りができ、またこの大正通りと結ぶため本通りや本河原通りが延長され、本通と港を結ぶ旭町などもでき市街地化、商店街化が進行していった。今治とを結ぶバス路線も大正通りを通行したものであり、市街地は大曲川を越えて次第に南部に拡大していった(写真2―1参照)。

 三津屋地区区画整理

 このような市域の拡大をふまえて昭和四二年から五二年(一九七七)にかけて三津屋地区を中心とする区画整理事業が行われた。面積は約三〇・六haでほぼ大曲川と県道南川壬生川停車場線道路、JR予讃本線、国道一九六号で囲まれた場所である。東西―南北の道路で整然と区画され、旧市街地と対象的な景観をきわだたせている。なお同五九年からは六五年完工を目標に新たに隣接する国道一九六号より海側の区画整理が実施されつつある。この区画整理の結果生まれた最も新しい市街地の課題は、その南辺の県道南川壬生川停車場線道路を抱き込む市街地化の問題で、それは丹原町市街地への連続性を期待するものであり、広域都市への展望を予見することができるものである(写真2―1参照)。

 各商店街の実態

 本町通り―最も古い商店街で藩政時代の中心街であったが現在は交通路変化や市勢の南部移動により寂れている。民家率約六二%、商店率約二三%、空屋利用で駐車場や倉庫が多い。食品店などはほとんどなく、古い料理屋や小学校に名残がある。
 本河原通り―本町に次いで歴史が古く、旧河道を埋め立てて造成された、民家率約二七%、商店率約五六%、食品店が多く、スーパー店が客を集めている。
 本通り―三津屋本通りと呼ばれ旧三津屋村に属し、三津屋新地商店街で本河原通りと結ばれている。かつては富士紡工場への通勤客で賑わった。道路幅も広く現在の中心商店街である。民家率約二五%、商店率五五%、スーパー店やパチンコ店、スナック店が客を集めている。
 駅前中央通り―区画整理により道幅も二〇mに拡大され、近代的商店街として面目を一新した。スーパー・デパート支店・マンション・ホテルがあり、ブティック、飲食・喫茶店が多く新地的景観を持つ、区画整理後は新しく流入した居住者が多い。民家率約一二%、商店率約七二%。
 県道南川壬生川駅停車場線(空地率約五四%)、民家率約一八%、商店率約六一%、市庁舎、農協施設、交通関係店舗(八)、建設業(七)、運送店、スーパーマーケット等新設大型道路線沿の機能特色を持っている。空地は農地が多いが丹原町中心街と結合する日もさして遠くない(図2―34・35)。

 近代工業立地の影響

 東予市の製造業は最盛期の昭和五七年には一〇六〇億円を生産し、西日本での人口三万人台都市四二市の中では、一〇位にあったように都市活動に大きな影響を与えるものである。
 その最初は昭和一一年立地の明正レーヨン(現フジボウ愛媛壬生川工場)であり、大曲川河口左岸の大新田地先に造成された。最盛期の同三〇年ころは従業員約一二○○名を数え、郡内労働力を吸収すると共に、本河原・本通り商店街の活況や壬生川港、駅前より結ぶ道路整備等に大きな影響を与えた。
 ついで、昭和三九年の東予新産業都市指定と共に県営工業団地造成事業が進行し、三号地(今在家地先)に同四八年住友重機、住友イートンノバが、四号地(北条地先)には同五〇年に住友東予アルミニウム製錬所、住友共同電力が進出した。それぞれ最盛期の同五六年ころは住友重機約六〇〇名、住友東予アルミ約四三〇名、住友共同電力約一〇〇名の従業員が就業しており、三津屋地区の区画整理もこれら東南部の工場群とかかわっての造成でもあった。しかし現在は住友東予アルミの同五九年来の操業停止や関連する住友共同電力も従業員九名に、住友重機も約二八〇名に縮小され、フジボウ愛媛壬生川工場も約三〇〇名と減員されることとなった。
 これらの不況産業の影響は例えば遊興飲食業のバー・キャバレーの数が昭和五一年に僅か四軒であったものが同五二年に五二軒に急増し、それが又現在は約二〇軒に減少しているのでもわかる。
 東予市の商店総数は昭和六〇年で六五一店、壬生川、三津屋市街地への集中度は約五三%である。西日本の人口三万台の四二市中、年間販売額は昭和五七年で二八位であり東予市の商業活動及び市街地商店街の活性化は一に製造業の再生振興にかかるものである。

 東予市の都市計画

 昭和六〇年の東予市のDID(人口集中地区)は壬生川・三津屋市街区域に加えて、JR予讃本線を越えて新川岸にのびる通称柳新地一帯及び県道南川壬生川停車場線を東に越える北条地区で面積一・三平方㎞、人口五四三八人、人口密度四一八三人である。これをふまえて昭和四八年に決定された都市計画区域は次のようなものである。

一、商業地域―旭町、本通り、大正通り、駅前中央通りで方形をつくる部分で、中央部に密集住宅地を囲んでいる。近隣商業地はその北側に隣接する既成商店街である本河原通りを含む地域と、南側に隣接する県道南川壬生川停車場線までの区画整理部分である。
 それと旧三芳町三芳の県道孫兵衛作壬生川線にそう既成商店街及び、その北端でJR予讃本線の三芳駅に直角に折れる地域が指定され昭和六〇年約 五〇戸の商店が分布している(表2―37)。
一、住宅地域―商業地域に囲まれた大曲川両岸一帯と、商店街の外側でJR四国線を越えて西にのびる地域で本河原通の延長の一帯と南川壬生川停車場線の一帯である。別に従来から在部人口集中地であった旧国安村国安が指定されており、これは三芳町近隣商業地区をとりまく第一種、第二種住宅専用地域と接するもので、副都市化地区としての発展が期待されている。なおこれらは、三芳、下見田線の新道で壬生川地区に結ばれるようになっている。
一、工業地域―工業専用地域は既成の埋立工業団地造成地帯であるが、準工業地帯として国道一九六号以東の大曲川・崩口川下流沿岸一帯が中小企業用地として指定されており、すでに化学、捺染、製材、建設、運輸関係の企業が進出している。
一、公園―河原津の埋立て地に東予市運動公園が計画されており、埋め立て地活用の一つの形態である(図2―36・37)。

図2-31 東予市中心街の道路(新・旧道路)

図2-31 東予市中心街の道路(新・旧道路)


図2-32 鷺森城跡の壬生川御藏所

図2-32 鷺森城跡の壬生川御藏所


表2-36 壬生川町の業種別世帯数

表2-36 壬生川町の業種別世帯数


図2-33 明治初年の本町・本河原通と堀川港付近

図2-33 明治初年の本町・本河原通と堀川港付近


図2-34 東予市の主要商店街の商店分布

図2-34 東予市の主要商店街の商店分布


図2-35 東予市 県道南川―壬生川停車場線道路沿いの商店分布

図2-35 東予市 県道南川―壬生川停車場線道路沿いの商店分布


図2-36 東予市都市計画図

図2-36 東予市都市計画図


図2-37 東予市のDID(人口集中地区)

図2-37 東予市のDID(人口集中地区)


表2-37 東予市主要商店街の商店分布比較

表2-37 東予市主要商店街の商店分布比較