データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

二 西条市の水と関連工業

 用水型工業

 西条には古くから工業用水に立地した工業が多く発達していた。表3―13、及び表3―14は、製造業の部門別出荷額と主要企業一覧である。繊維、染色、製紙、酒造業等用水型業の多いことがわかるが、本項では関連工業について述べ、西条の水については次の項で述べる。

 繊維・染色・捺染工業

 本稿については『西条市誌』に詳しいが、本地域の繊維工業は、明治二七年(一八九四)新居郡大町村の山内絹織物工場の創業が古い。明治四三年(一九一〇)には真鍋織物工場も同地にできたが、養蚕の不振と共に衰退した。一方、高橋織物工場は神拝で手織機による縞木綿を製造「西条縞」として名をあげ、明治四五年には同じく神拝で湯山織造が織布機械五〇台で、日産三七・八〇反と生産を拡大していた。これらに続いて伊川合名会社、西条製布工場、高橋綿布工場等が創業し、第一次世界大戦後、西条産の広幅綿布は南方地方へ輸出されていた。しかし盛衰をくりかえし、昭和一五年には当初の勢いを失っていた。
 西条綿布の生産が盛んであった大正の初期、富田元資・高橋梅太郎らが関西捺染㈱を設立した。大正三年(一九一四)のことで、鍵谷カナの考案した伊予絣の需要が多いことに着目し、捺染によって絣を製造しようとしたものである。地下水の豊富な神拝に立地し、以後の西条市ではたした役割は、昭和一一年の倉敷絹織の立地まで特に大きい。当初は近接する西条製布工場や周桑郡小松町の小松製布会社などに原料の布を求めた。製品の改良と生産能率の向上に努力し「紅富士」の名は高まった。原料布は後に京都・大阪などからも入荷し、第二次世界大戦前までは紺絣、銘仙、浴衣などの小幅物を製造したが、戦後広幅物に力を入れた。当初はインドネシアなどへの輸出中心であったが、現在は化繊等綿布以外の染色を含め内需中心である。昭和三八年の第三工場新設以後、今治のタオル原糸のさらし、染色と巻き取り作業も行っており、縫製業などにも進出している。当工場の廃液問題は昭和のはじめころから地元、神拝の住民との間に紛争があった。
 流出汚水は旧陣屋跡の濠に流人して沈澱し、養魚や蓮の栽培が不可能になった。昭和一三年に会社側が排水路を工場から西条内港までの延長工事を施し、漁業補償を支払ったが、その後も紛争が起こっている。現在、臨海造成地への移転が話題になっているが実現していない。旧陣屋跡の濠の浄化を含めて、市街地整備を進めるうえで市全体の課題である。

 製紙業

 西条の製紙業の起源は明確ではないが、錦絵版書の用紙に珍重されて、西条奉書の名で江戸時代から生産が盛んで、製造から販売まですべて藩の直営であったが、明治四年の廃藩で紙方役所もなくなり、保護奨励の機関がなくなると衰え、現在は手漉き和紙はない。村上節太郎の研究によると、寛永・正保(一六二四~四七)時代から藩札を漉く手漉き和紙生産が神拝に立地し、飯岡・中萩でも小規模ながら漉いていた。天保一三年(一八四二)編の『西条誌』に神拝の紙についての記述があり、スケッチで紙方役所や施設などの存在が示されているが、明治になって衰え、明治四二年(一九〇九)には西条購買生産販売組合を設立したりしたが回復しなかった。水が良いこと、原料の楮が豊富であったことから、明治四〇年には西条製紙会社も設立された。新しい製紙機械が導入されコピー紙やナプキンが生産されたが続かなかった。大正五年(一九一六)に地元資本でこれを買収して設立したのが、現在の伊予製紙㈱である。機械製紙を発展させ、ちり紙、桜紙などを生産している。神拝にある同工場は、加茂川の伏流水の湧泉や打ち抜きが発達している所で、先述の関西捺染と共に観音水系に軒を並べて立地するため、同水系の汚濁の原因の一つとみられている。このため、西ひうちの東部臨海造成二号地への移転が課題であるが、現在地での工業用水の無料が移転により有料化するなど問題点が多く、実現に至っていない。