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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

一 西条陣屋町の形成と発展

 西条藩の成立

 西条藩は伊勢神戸五万石の大名一柳直盛が寛永一三年(一六三六)に西条六万八六〇〇石に転封となったのに始まる。初代藩主直盛は西条へ赴任の途中大阪で病没したため、その遺領は長男直重に西条三万石、二男直家に川之江二万八六〇〇石、三男直頼に小松一万石として分知された。
 一柳氏は河野氏の支流といわれる外様大名で、直重の所領は宇摩・新居・周布の三郡に及んだ。直重は入封すると西条平野北部に陣屋を築き、その東西に武家屋敷を配した。また東の武家屋敷の東隣りに町人町を興して陣屋町を開いた。西条藩の基礎を築いた直重のあとは長男直興が継いだが、弟直照が土居町八日市に五〇〇〇石で分家したため、直興が相続した家督は二万五〇〇〇石であった。しかし直興は寛文五年(一六六五)、幕府より参勤遅参・領内仕置の不都合などの理由で改易され、領地は一時幕府領となった。
 その後寛文一〇年(一六七〇)に紀伊和歌山藩主徳川頼宣の次男松平頼純が新たに西条三万石に封ぜられ、以後一○代頼英まで続いた。西条藩は連枝として特別待遇され、また和歌山藩との交流も密接であった。藩主は江戸定府で参勤交代はなかったが、頼純のほか二代頼致、三代頼渡、九代頼学、一〇代頼英が西条に入封している。

 武家屋敷の変遷

 一柳直重の築いた西条陣屋は神拝村の中央部に位置し、その規模は東西二町四間、南北二町一五問であった。陣屋の周囲は四〇余町の濠で囲み、喜多川の水路をつけかえて城濠に引きいれた。また陣屋から北へ新たに水路を掘って濠の水を燧灘に流した。この水路が本陣川で、のち河口に西条港が開かれた。陣屋をめぐる堤は濠や本陣川を掘った土砂を盛り上げて築いたものと考えられ、その一部は陣屋跡北西部に残りお矢来とよばれる。
 陣屋は明治四年(一八七一)の廃藩置県の折に壊されたが、大手門やお矢来に往時の面影を残している。また大手門前の濠に築かれた鎹積みの石垣は当時のもので市指定史跡に指定されている。陣屋跡は県立西条高等学校や市立郷土博物館となり、大手門は同校の通用門として使われている(写真3―19)。
 この西条陣屋が神拝村の中央に形成されたため、同村は南北のニ地区に分断された。今日の神拝甲(南部)と神拝乙(北部)がそれで、その間に明屋敷がある(図3―17)。明屋敷は陣屋と武家屋敷からなる地域で、寛文五年に一柳直興が改易されたとき、神拝村内にあった陣屋や武家屋敷は一時幕府領として公収された。そのため居住していた藩士らが退去して武家屋敷が空家になったことから「あきやしき」という呼称が生じたという。昭和一六年五月二日付愛媛県告示第三三四号にも明屋敷には「アキヤシキ」とルビがふってあるが、現在では「あけやしき」と公称されている。
 天保六年(一八三五)現在の陣屋周辺を描いた「西條旧藩士族屋敷図」によると、武家屋敷は陣屋を取り囲むように分布している(図3―18)。これに現在の町名を重ねてみると、大手門の東では濠と本町(現本町一丁日)との間か四軒町上、中之町(現本町二丁目)との間か四軒町下で、その北には松の巷や竹梅巷がある。濠の北の会所のあたりは堀端で、会所の北側は池であった。会所はその後の古図では詰役所又は文武館となっている。
 本陣川の西は滋巷と常盤巷で、滋巷は裏ノ町(浦ノ町)、常盤巷は弓ノ町とよばれた。弓ノ町には弓術場があり、北門の右手には馬場や籾蔵がおかれた。濠の西側は百軒巷と八千代巷が南北に並び、濠の南側の神拝分(現神拝甲)にも武家屋敷がみられる。
 この古図には一軒ごとに藩士の名前が記入されており、また五十軒長屋・御殿前長屋・ヤリバ長屋・北長屋・北川長屋など武家長屋の藩士名も一覧になっている。図中の登道長屋は大町分で、他に神拝新町(旧鉄砲町)にも和霊神社横に新町長屋が建てられた。
 この古図にはないが、中之町と魚屋町の東にある北町はかつて歩町とよばれ、徒士(下級武士)が居住した地域である。この北町は現在も明屋敷の飛地で、元は上歩町、下歩町とよばれた。天保一三年(一八四二)に著された『西条誌』には御城下町の項に「上歩町 今の北町四つ角より南、下歩町 おなじき(ママ)北」とあり、既に北町とよばれていたことがうかがわれる。
 鉄砲町や歩町は城下町特有の地名で、古図からは丁字型道路や鍵型道路もみられ、小規模ながら陣屋を中心とする整然とした城下町が形成されていた。武家屋敷地の支配は幕府領として公収後一時町方支配となったが、亨保一三年(一七二八)以降は町方支配をやめ、庄屋をおいて村方支配となった。しかし明屋敷は村ではなく明屋敷分とよばれた。
 幕末~明治維新期の古図をみると、北川(喜多川)村庄屋の北の百軒長屋や神拝新町の御長屋が描かれ、また四軒町の町口長屋の向いにも御長屋ができている。幕末に武家長屋が増えたのは江戸定府で江戸詰めだった藩士が多く帰国したからで、その背景には国もとの西条で尊皇攘夷論が強まり、江戸詰め藩士の帰国を画策したためといわれる。
 これらの武家屋敷はほとんど姿を消したが、竹之巷には幕末の武家長屋が当時の面影を残している(写真3―20)。この武家長屋は元治年間(一八六四~六五)から慶応年間(一八六五~六八)にかけて建てられたものといわれ、一軒の間口は三間、奥行は五間で、部屋数は三~四室であったという。また滋巷や常盤巷・百軒巷などは現在も閑静な住宅地域となっている。
 旧武家屋敷のうち、明治以降に最も大きく変化したのは四軒町である。同町は四軒の大きな武家屋敷に由来する町名で、久葉玄之の描いた大正五年(一九一六)前後の地図によると、濠に面した御殿前通りには裁判所や西条高等小学校・西条町役場がある。その東側の四軒町筋には新居郡役所・西条警察署・税務署・西条営林署などの役所が並んでいる(図3―19)。
 西条高等小学校は、大正一五年(一九二六)に堀端(現四国電力堀端社宅あたり)にあった西条小学校に移り、西条尋常高等小学校となった(跡地は西条公民学校となる)。その東側は松之巷で、明治四一年(一九〇八)新居郡立実業高等女学校が設置された。同校は大正一一年(一九二二)に県立西条高等女学校となり、昭和一一年に大町鷹丸に移転するまで存続した。女学校が移転したあとは四国電力の社宅街となり、町名も四電社宅とよばれるようになった。現在も四国電力西条寮などがあるが、北半の西条市役所駐車場の一部に創作館・プラネタリウム・展示館なとがらなる西条市子供の国が作られた。
 四軒町の武家屋敷が官公庁地区に変貌したのは、この地域が西条の中心商店街に隣接し、また西条陣屋の大手門前という重要な位置にあったためで、現在の西条市役所もかつての新居郡役所の跡にある。また大手門前には裁判所のほか検察庁・法務局などがあり、隣接する三本松(神拝甲)には税務署がある。

 陣屋町の変遷

 一柳直重は四軒町や梅之巷の東に町人屋敷を配して陣屋町の育成をはかった。それは本町・中之町・魚屋町・大師町・横町・紺屋町・東町の七町で、これらが御城下町とよばれた西条の陣屋町を形成した。開町当初の陣屋町は喜多浜町とよばれ往時は町の惣名であったが、延宝八年(一六八〇)以降はその呼称が廃止され各町名でよばれることとなった。
 陣屋町の配置は、武家屋敷に隣接して北から魚屋町・中之町・本町の通りがあり、本町の東に大師町をおいた。南北にのびる本町と大師町の端を東西に結んだ町が横町で、南が上横町、北が下横町とよばれた。上横町から東が東町、上横町と東町の間から南にのびる町が紺屋町である。紺屋町は町内に紺屋が七軒あったところからその名がつけられた。
 藩は陣屋町の発展をはかるため、そのころ既に町場が形成されていた隣村の大町村から有力商人を招いて住まわせた。それは近江屋・広島屋・大和屋・備前屋などで、これらの有力商人は西条町開基八人とよばれる。例えば本町は弥治右衛門、中之町は広島屋平右衛門、大師町は近江屋重蔵、紺屋町は大和屋庄助や備前屋庄三郎及び太郎右衛門、横町は近江屋留右衛門などが町の基礎を築いた。また魚屋町は玉蔵院の先祖の宝学院が大町村から移って町を開き、現在も町の北端に玉蔵院がある。その他にも多くの商人・職人が来住して陣屋町が形成された。
 大師町の北側はかつては歩町とよばれた北町で明屋敷分に属し、北町の北東にある風伯神社は朔口市村に属する。この神社は陣屋町の鬼門除けとして当地に移されたもので、これに隣接する万福寺は一柳氏に従って伊勢国神戸から移された寺である。また東町の妙昌寺は一柳直重が伊勢国神戸で没した母の菩提を弔って建立したもので、寺号はその法名にちなんで名づけられた。
 陣屋町の規模は寛文七年(一六六七)の『西海巡検志』に西条新町として高二〇〇石、家数二六五軒とあり、天保一三年(一八四ニ)の『西条誌』には総町の家数三一〇、人数一三四七とある。また明治初年の『地理図誌稿』によると戸数五四九(うち士族五六、卒族一二〇)、人数二〇〇四となっている。これらの陣屋町を支配する町奉行は元禄一六年(一七〇三)に置かれ、町政は一一人の大年寄、六人の年寄が担当した。、七町のうち横町は年寄がおらず、本町の年寄が兼務していたため、一町とはみなされなかったともいう。町会所は享保~天保一一年(一七一六~一八四〇)の間は本町東側におかれ、それ以降は中之町に移った。
 陣屋町では伊曽乃神社の祭礼のある旧暦九月一四・一五両日に盛大な伊曽乃市が立ち、領内外から多くの商人が入り込んでにぎわった。また旧暦九月一六~二三日には馬市が立ち、馬市の立つ東町は馬之町ともよばれた。馬市はのち市日を変えて中之町・紺屋町に移った。中之町では旧暦八月二〇日から前後七日にわたって馬市が立っていたが、天保ごろに廃止された。
 これらの陣屋町は明治九年(一八七六)に西条町と称し、本町・東町・大師町・栄町の四町となった。その際、魚屋町と中之町は本町に合併し、上横町は東町(現東町一丁目)に、下横町は本町に編入された。新しくてきた本町は南北四町一一間、東西三間で二条の支街があった。元禄一四年(一七〇一)東町の東側に六九軒の新市街が形成されて新地とよばれたが、明治九年東町に併合された(現東町三丁目)。新しくできた東町は東西四町一八間、南北二間余で、開町当時の東町は現在の東町ニ丁目にあたる。また紺屋町はその南に発展した栄町に含まれて、その北端を占めることとなり、新しくできた栄町は南北五二間、東西三間の町並となった。
 栄町は大町村の一部と紺屋町が合併して新しく成立した町で、明治一八~二二年(一八八五~八九)には西条栄町と称した。大正~昭和初期に栄町上・中・下の三組に分かれ、現在は栄町一・二・三丁目になっている。栄町を分立させた大町は西条藩陣屋町成立前からの町場で、一柳直重入封のころには北ノ丁・西町・中町・川原町・下町・新町などの町場が形成されていた。こうした町場は在郷町(在町)とよばれ、大町村の村名もこれに由来する。現在の大町は大正一〇年(一九二一)に開通した国鉄伊予西条駅を含み市街地の中心地域となっている。
 明治二二年(一八八九)の町村制施行に際し、御城下町の西条町と明屋敷が合併して西条町となった。さらに大正一四年(一九二五)には隣接する玉津村・大町村・神拝村を合併し、昭和一六年には氷見町・神戸村・橘村・飯岡村を合併して西条市となった。この間、西条は新居郡の中核都市として位置づけられ、明治中期に新居郡役所や愛媛県尋常中や校東予分校(現西条高等学校)などが設置された。また北部の燧灘沿岸の工業化を進め、昭和一一年に操業を開始した倉敷絹織㈱西条工場は西条の工業化に大きく貢献した。

図3-17 現在の西条陣屋周辺

図3-17 現在の西条陣屋周辺


図3-18 西条藩における武家屋敷の分布

図3-18 西条藩における武家屋敷の分布


図3-19 大正時代の四軒町周辺

図3-19 大正時代の四軒町周辺