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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

四 西条市の商店街

 商店街の変遷

 西条市の中心商店街は、藩政時代初期につくられた陣屋町に由来している。西条藩は寛永一三年(一六三六)に設置され、藩主一柳直重が入封して陣屋を築いた。さらに、武家屋敷に続いてその東隣に陣屋町をつくり、大町村から有力商人を移住させて陣屋町の発展をはかった。大町村では加茂川河畔の金毘羅街道沿線に宿場が発達し、西条陣屋が設置される前から商業が興っていた。この大町の宿場は明治以降も続いたが、交通路の変化により衰退した(図3―25)。
 藩政時代は藩の政策により、農村における商業活動が厳しく制限されたため、陣屋町や大町村以外では商業の発達はほとんどみられなかった。現在の西条市域では、金毘羅街道に面した氷見に谷口集落が発達し、小規模な商業機能がみられた程度である。こうした傾向は明治以降も続き、昭和一六年の市制施行時においても、市内の商店の約八割が旧西条地区に集中していた。
 成立当時の陣屋町は大手門前の武家屋敷(四軒町)に接する本町・中之町・魚屋町と、本町に並行する大師町、本町から東にのびる横町・東町、東町から南にのびる紺屋町の七町であった。その後、元禄一四年(一七〇一)に東町の東側に新地とよばれる新市街がつくられた。
 これらの陣屋町のうち、魚屋町・中之町・大師町は今日では商業機能が衰退し、都心部の住宅地域となっている。陣屋町から興った商店街の中心は、大正時代から昭和初期にかけては本町・東町であったが、昭和一〇年前後からしだいに東町・紺屋町に移った。本町の商業機能も今日では衰えて住宅地化か進んでいる。終戦直後は紺屋町筋を中心に露店が並び、西条市の監督下で鮮魚など生鮮食料品の市場を形成した時期もある。
 戦後の混乱期が過ぎた昭和二八年には、紺屋町南端にあった光明寺が大町字下町の現在地に移転し、紺屋町以南の栄町や登道の商店街が活況を呈するようになった。三〇年代半ば頃からは、栄町筋を中心として紺屋町・東町・登道・駅前西大通などが細長い商店街を形成するようになった。また登道から南の北ノ丁にかけても商店街がのびており、この道と大町小学校北側の道が交わるあたりが、旧大町の中心地区である。
 これらの中心商店街は西条市の商業機能の中枢であるが、都市化の進展にともない中心商店街以外の地域でも商業機能がしだいに発達してきた。その結果、中心商店街の約三〇〇店舗が占める比率は、五六年には二七%に低下している。

 大正時代の中心商店街

 久葉玄之が描いた『西条の濠端及び町屋配置図』は、大正五年(一九一六)前後の四軒町や旧陣屋町の姿を示している・同図に描かれている町屋は本町・上横町・東町・紺屋町及び新地で、一軒ごとに名前がつけられている(図3―26・27)。同図にある本町は現在の本町一丁目にあたり、本町と東町を結ぶ上横町は現在の東町一丁目、東町は東町二丁目で、新地が東町三丁目である。
 東町と上横町・紺屋町が接する丁字路の中心を札の辻といい、藩政時代の高札場で半鐘台もおかれていた。また、領内で軽い罪を犯しか者はこの札の辻で五〇叩き・百叩きの刑が行われ、前者の場合は宇摩郡蕪崎(現土居町)、後者の場合は川之江の金田以遠へ追放されたという。
 上横町の十亀文助回送店は、お台場から人力車で干潮の干潟を走り、伝馬船を経て阪神・九州方面行き乗船客を運んだり、切符を販売していた。本町南端の福亭(料亭兼旅館)と塩出菓子店の間が現在のアオイロードの入口である。また、紺屋町南端にある光明寺の跡地は、現在大屋デパートの一部になっている。上横町の南にある古御堂は藩政期から存続していたお堂で、墓地もあったが後に朝日館という映画館が建てられた。朝日館の閉館後は駐車場になっている。
 古い市街地は東町・上横町を結ぶ東西方向の道路が、南北方向にのびる本町と丁字路をなしていた。現在はアオイロードから直進して広島銀行西条支店、四軒町郵便局を経て堀端に至る道が通じている。この東西にのびる新道の開通によって、四軒町と本町の南部が切り離された。この地域は、古御堂から吉原町にかけて斜めに通じる古い道路と新道に囲まれた三角地帯となって残っており、東半分が本町、西半分が四軒町(明屋敷)に属している。その境界は四軒町郵便局と広島銀行西条支店長社宅(本町)の境界の延長上にあり、兵庫理容院(四軒町)と喜楽寿し(本町)の間が境界となっている。

 現在の中心商店街

 東町から紺屋町・栄町・登道を経て駅前西大通りに至る中心商店街は、昭和三〇年代後半から商店街の環境整備が進められるようになった。まず三七~三八年度に、登道商店街から紺屋町商店街にかけてのアーケードなどの環境美化事業が行われた。続いて四三年には栄町上組商店街がアーケード整備工事を行い、四六年には駅前西大通り商店街が水銀灯を設置する商店街美化施設整備事業を実施した。
 四六年にはまた、紺屋町と栄町の一部からなる中央商店街振興組合により、アーケード整備とカラー舗装の環境整備事業も行われた。さらに栄町中商店街が四八年に、東町商店街が五〇年に同様の環境整備事業を行い、中心商店街の整備はほぼ完了した。
 こうした中心商店街の環境整備は、昭和二〇年代後半から進んできた大型店舗の進出や、道路整備などの都市機能の充実に対応するものであった。さらに、自家用自動車の普及平生活水準の向上による市民の買物志向の変化などに伴い、新しい時代にふさわしい商店街の環境づくりを進めたものである。
 西条市における大型店舗の進出は、昭和二六年三月に開店した大屋(サンパーク大屋デパート)が最初である。同店は五二年に拡張して売場面積が五〇三四平方mとなった。次に三四年九月に南海(ディスカウントストア・T・ナンカイ)が開店し、売場面積は五二年に拡張して二〇五三平方mである。この両店は紺屋町と栄町に立地しているが、五三年六月に開店したフジ(売場面積二五七一平方m)は、アーケード街から少し離れて駅前西大通りに面して立地した。そのため中心商店街の立地条件が徐々に変化し、商店街の重心が南部方向に移動しつつある。
 現在の中心商店街の店舗は、東町一、二丁目から紺屋町・栄町にかけては密度が高いが、登道ではやや低くなる(図3―28・29)。また、紺屋町から栄町下、栄町中にかけては衣服・衣料品店が多い。中心商店街の店舗は移り変わりが激しく、アーケード街の店舗の中の約六五店が、五七年から六二年の五年間に変わっている。これらの中には異なった業種の店に変わったものが一五店あり、空屋や住宅であった所が店舗になっているものも五店あるが、残りの四五店は閉店したり空屋や貸店舗などになっている。特に登道商店街には空屋等が目立ち、その他の商店街にもシャッターを下ろしたままの店が点在している。
 中心商店街の盛衰は地域の経済活動を敏感に反映することが多く、時代の好・不況の影響もうけやすい。また、商店街の機能が新しい時代に十分対応できない場合も、商店街の活力が失われる。西条市の中心商店街が直面している課題の一つは駐車場の確保で、今日のモータリゼーションの進展に対応した商店街づくりが迫られている。
 中心商店街の駐車場は、大型店ではフジが一五〇台収容の駐車場をもっているほか、大屋は駐車能力一〇〇台、南海は三〇台である。また商店街の周辺にも小規模な民営駐車場が設置されるようになり、商店街ではこれらの駐車場と提携して無料駐車券の発行などを行ってきた。
 さらに、商店街が独自に駐車場を設置する例もみられ、銀座街商店街(栄町下)では四七年に七〇台収容の駐車場を設けた。また銀栄街商店街(栄町中)でも同年に三〇台、栄町上組商店街は四九年に二〇台収容の駐車場を設置した(後者は設置後約三年で廃止された)。
 また、中心商店街は長さが一二六五mにも達するため、街区によって通行客数に差がある。歩行者と自転車を合わせた通行量が最も大きい街区は紺屋町(大屋前)で、アーケード街では東町二丁目が最も少ない。六〇年と六一年の交通量を比較すると、最も増加率が大きいのが新町(加藤病院前)の東西方向で二三・四%増である。そのほか、紺屋町(東邦相互銀行前、大屋前)や栄町(あまげん前)、登道(藤田電機前)が二・八%~五・一%の微増である。これに対し、登道(トクマル的)のニ五・四%減を始め、栄町(ラブハウス前)が二五・一%減、栄町(トヨシマ前)が一四・八%減などがあり、全体の通行量(歩行者・自転車)も六万七〇四九人から六万ニ七四八人へと、六・四%減少している。
 西条市の中心商店街は集積密度は高いが、自然発生的で土地利用上の制限があるため機能拡充の整備が困難である。また街路が長く中心性の形成にムラがあるなど、商店街の近代化が立ち遅れている。しかし、東町二丁目で東町公園のような緑地が形成されるなど、特色のある町づくりの努力が行われており、伝統的な商店街のもつ落ち着いた雰囲気が感じられる。






図3-25 西条市大町の旧宿場

図3-25 西条市大町の旧宿場


図3-26 大正時代の西条中心商店街-1(上横町・東町・紺屋町)

図3-26 大正時代の西条中心商店街-1(上横町・東町・紺屋町)


図3-27 大正時代の西条中心商店街-2(本町)

図3-27 大正時代の西条中心商店街-2(本町)


図3-28 西条市中心商店街の業種構成-1(昭和62年)

図3-28 西条市中心商店街の業種構成-1(昭和62年)


図3-29 西条市中心商店街の業種構成-2(昭和62年)

図3-29 西条市中心商店街の業種構成-2(昭和62年)