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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

七 加茂川流域の過疎集落

 過疎の進行

 加茂川流域には昭和三〇年前後の町村合併以前には、加茂村・大保木村・石鎚村の三村があった。このうち加茂村と大保木村は昭和三一年西条市に合併され、石鎚村は同三〇年小松町に合併された。加茂村と大保木村は新居郡に属し、加茂村は西条と、大保木村は西条市の氷見と、それぞれ交流が深かったので、西条市に合併され、一方、石鎚村は周桑郡に属し、小松と交流が深かったので、小松町に合併されたのである。
 この三地区の昭和三五年の世帯数は一三七三、人口は六〇七一であったが、それが昭和六〇年には世帯三八二、人口八六〇に減少し、この間に世帯数では七二%、人口に至っては八六%右減少した。この減少率は、愛媛県下の山村のなかでも、最も高いものといえる(表3―25)。三地区ごとに、昭和三五年から六〇年の人口減少率をみると、加茂地区八二%、大保木地区八六%、石鎚地区九七%となり、石鎚地区のひときわ高い人口減少率が目をひく。
 集落別に世帯・人口の減少率をみると、地区の中心地に近い谷底の国道・県道沿線の集落に、人口・世帯の減少率が低く、反対に交通不便な縁辺部の小集落ほど、人口・世帯の減少率が高いのが注目される。これら縁辺部の集落のなかには、廃村になったり、廃村寸前にたち至っているものも多数ある(図3―34)。特に石鎚村の加茂川流域、奥通りは軒並みに廃村が並んでいるといった状況である。

 千足山地区の過疎の進行

 千足山村の明治年間から大正年間にかけての戸数は二〇〇程度、人口は一三○○~一四〇〇程度であった。昭和二五年に二一五戸、一一八九人であった戸数と人口は、わが国経済が高度成長期に入ると共に、急激に減少していく。昭和三六年には一六四戸七九三人、同五三年には三五戸七四人、同六二年にはついに四戸二七人の寂しい村になってしまう。恐らく旧村単位でみるならば、全国でも最も過疎の激しく進行した村であると思われる。この間廃村が続出し、奥通りの集落で住民の存在するものは、わずかに五集落にすぎない(表3―26)。
 住民の転出先をみると、小松町・丹原町方面に多い。特に小松町に多いのは、千足山村が藩政時代から小松藩領であったこと、藩政時代以来、山間部の物資の最大の搬出先が小松であったこと、昭和三〇年に町村合併が行われ、千足山村(合併当時は石鎚山村)が小松町に合併されたことなど、歴史的・社会的・経済的に小松町と密接に結合していたことによる。移転の形式は個々の住民が知人や親戚などの情報をもとに新たに移住先を見つけて個別に移住したものであるが、昭和四五~五〇年ころに転出した者のなかには、小松町北川に集団移住し、石鎚団地を形成している者もいる。移転後の住民の生業は、東予市・西条市などの工場に勤めたり、土木建築業に従事している者が多いが、昭和三〇年代に転出した者のなかには、平坦地で農地を求めて、農業に従事している者もある。
 離村に当たっては、その転出資金を得るために山林を処分した者もいるが、多くの者は山林をそのまま残して離村している。住民を失った家屋敷は次第に朽ちはてているが、なかには夏季山林の手入れなどに帰村したときに活用されているものもある。耕地はほとんど植林され、林野に帰している。山林は日曜日などに乗用車で帰村して保育作業を行ったりもしているが、周桑森林組合の労務班に作業を委託している者も多い。しかし、住民を失った林野は、その管理が次第におろそかになり、荒廃している。また住民の去った廃虚には代わって野性動物が出没し、猪や野兎などによる林地への被害も多くなってきている。

 東之川の過疎の進行

 瓶ヶ森(一八九六m)の北麓に立地する東之川は標高六〇〇m、周囲を険しい山に囲まれたすり鉢の底のような谷底に立地する集落である(写真3―24)・天保一三年(一八四二)の『西条誌』によると、戸数は六七、住民は焼畑を営むかたわら杣稼をしていたことが誌されている。明治年間の住民の生活は、焼畑耕作で食料の自給をはかり、杣稼によって不足する食料や日用雑貨品を得ていた。集落周辺部の山林は大部分集落住民の所有で、他の集落のように、村外の地主に山林を買却するという風潮はなかった。焼畑で得たひえやあわも、凶作に備えてできるだけ備蓄するというように、住民の生活は万事質素を旨としていた。
 明治から大正初期の戸数は、明治九年(一八七六)七四戸、同三五年(一九〇二)六〇戸~大正元年(一九一二)六三戸と、六〇~七〇戸程度を上下した。当時は食糧の確保をはかるために、集落領域内の山のみでなく、五㎞も隔てる浦山方面の山や、遠くに予上境域の分水嶺を越えて、土佐の寺川まで焼畑耕作のために出作耕作していた。
 また農閑期には杣稼を行い、山中で板にしか用材を氷見までさかんに仲出し(運搬)した。前田峠を越え、千野々から大保木を経由して氷見に至る山道は片道六~七時問も要したので、朝早くたいまつをともして家路を後にしたという。男で一五~二〇貫、女で一〇貫程度も板材を運搬する仲出しは大変過酷な労働であった。また明治中期には土佐寺川の自猪谷銅山が開発され、その粗銅がシラザ峠(一四〇一m)経由で西条に運び出されたので、その運搬に従事したものもいた。
 東之川の戸数は大正年間から昭和の初期にかけて半減する。大正元年(一九一二)に六三戸を数えた戸数は、同九年(一九二〇)は五三戸に、さらに昭和一三年には三一戸にと減少する。この間に戸数が減少した要因は、以下の三点が指摘できる。まず第一に、官山の取り締まりの強化、小作料の値上がり、また人工造林の進展などによって、遠隔地での焼畑が困難になったことである。土佐寺川への出作りも大正初期には終焉している。第ニ点は、大正中期に千野々まで加茂川ぞいに馬車道が開通し、氷見までの仲出し稼業加減少したこと、さらに西条や氷見で製材業が盛んになると、山中での杣稼が減少したことなどである。第三点は、寺川の自猪谷銅山が大正末期に休山し、粗銅の運搬稼業がなくなったことである。元来高い人口圧にあった山村が、その人口圧を支える条件の消滅することによって、その人口圧に耐えきれなくなったとみることができる。
 大正年間から昭和の初期にかけて挙家離村しか者の転出先は、西条市・小松町・丹原町などの周桑・西条平野であるが、そのなかでも、小松町の妙口、丹原町の貝田・古田などに集中的に転出している。彼等は集落内では山林などを多く所有している資産家であり、集落内の有力者であったという。転出先ではそれぞれ農地を求めて、農業に従事している者が多い。山林は東之川に残しているものが多いので、自ら保育作業に通勤したり、残留住民に作業を委託したりしていた。
 東之川での第二の人口流出の時期は昭和三五年以降である。昭和三五年に二七戸あった戸数は、四五年には一六戸、五七年には五戸、六二年には四戸となり、老人のみの寂しい集落となった。残存戸のみでは集落の機能は維持できないので、氏神の祭礼などは転出した一三戸の家も含めて、やっととり行なわれている有様である。挙家離村先は西条市街地周辺が多い。挙家離村の理由は、加茂川流域の他の過疎集落と共通するものである。まず第一には、米食の普及から自給食料を得るための焼畑農業が存在意義を失い、衰退したこと。第二には、昭和三○年代の後半から木材の価格が低迷し、林業によって現金収入が得られなくなったこと。第三には、山間僻地にあることから住民が社会生活上の不便を感じるようになったことなどである。

 吉居の過疎の進行

 吉居は加茂川の支流谷川に下津池で合流する吉居川ぞいの谷底に立地する小集落である。南に予上国境に聳える笹ヶ峰(一八六〇m)をあおぎ見るこの集落は、下津池から昭和三九年に林道が伸びた来たとはいえ、西条~高知を結ぶ国道一九四号から四㎞も隔てられ、加茂川流域では最も交通不便な集落である(写真3―25)。
 背後を広大な国有林にとり囲まれたこの集落は、製炭業を最大の生業としていた。製炭の対象となったのは、国有林と外部の大山林地主の私有林であった。特に国有林は払い下げ面積が広かったので、集落内の仲間で釜割りをして、二~三年ごとに次々と移動しながら製炭をしていった。山中での生活は小屋住入で、小屋は炭釜のかたわらにしつらえられていた。なかには夫婦で泊りかけて炭焼き稼業に専念するものもいた。明治・大正年間の木炭の移出先は別子銅山であり、同じく製炭集落として知られていた川来須などの木炭と共に、笹ケ峰の下の中宿をへて別子山村の中七番にと駄馬で送られた。大正中期以降は木炭は千町を経由して駄馬で西条へと搬出された。集落内には三人ほど馬引きがいたが、西条方面から通って来る馬引きもいた。
 製炭以外では、明治年間に寸太(薪材)流しが盛んに行われた。急流の吉居川は用材の流送は不可能であったが薪材の流送には充分に耐えられたので、寸太流しも重要な現金収入源であった。用材は昭和の初期に千町に通じる木馬道が開通してから盛んになるが、それまでは山中で杣にされたものが、負子によって千町経由でわずかに西条に搬出される程度であった。
 水田皆無のこの集落では、食糧はもっぱら焼畑耕作によって得た。焼畑は自己所有の山林を対象としたものもあったが、この集落では明治年間以降、山林を外部の大山林所有者に順次売却していったので、多くは外部の山林地主の山が焼畑の対象地となっていった。焼畑での主な作物は、春焼きの山でひえ・あずさ・とうもろこしであり、夏焼きの山はそばが主作物であった。明治中期焼畑に導入された三椏は、昭和三〇年ころまで盛んに栽培され、住民の重要な現金収人の源であった。焼畑小作は小作料はとられず、地主の提供する杉苗を植林することが、その代償であった。
 吉居は藩政時代藤之石村の枝在所であった。天保一三年(一八四二)の『西条誌』には、「この在所家数拾七軒あり、本郷より五拾余町……。水田一区も無ければ、米の貴き事、西之川山、東之川山と同じ、山葵名物なり」と誌されている。明治・大正年間は二〇戸程度の戸数であったというから、藩政時代以降、その程度が吉居の戸数であった。その後、戸数は次第に減少し、昭和二五年の戸数は一五、同三五年には一三となる。さみだれ式に戸数の減少していた古居の戸数が激減したのは、昭和四一年に加茂中学校が西条市街地の南中学に統合され、ついで昭和四七年下津池小学校吉居分校が加茂小学校に統合されることになったことを契機とする。吉居から統合された南中学校までは一六㎞、加茂小学校までは九・五㎞の道のりであり、吉居の学童にとっては通学は困難となる。ここに学童をもつ家族は挙家離村を決意するのである。小学校の統合が契機となって一気に六戸の家族が挙家離村した吉居は、昭和五〇年以降は戸数五戸の寂しい集落となってしまった。
 この集落の挙家離村先は大部分西条市であるが、学童のあるものは西条市立南中学のある西条市大町付近に移転している者が多い。離村後の住民の生業は町工場に勤めたり、土木建築業に従事する者が多い。山林を吉居に残している者は、時々その保育作業に帰村するが、その足も遠ざかり勝ちとなっている。昭和六〇年の五戸六人の住民は、うち四戸までが七〇歳以上の独居老人であり、山林労務に耐えるものは大正一一年(一九二二)生まれの夫婦一世帯のみである。吉居がやがて無人の集落廃村になるのはもはや時間の問題となっている。

表3-25 加茂川流域の地区別の世帯数・人口の推移

表3-25 加茂川流域の地区別の世帯数・人口の推移


図3-34 加茂川流域の集落規模と人口減少率

図3-34 加茂川流域の集落規模と人口減少率


表3-26 千足山村の世帯・人口の推移

表3-26 千足山村の世帯・人口の推移