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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

一 別子銅山の盛衰

 別子銅山と泉屋道

 別子銅山は、元禄時代初期に発見され、同四年(一六九一)泉屋(住友)によって開坑された。別子銅山初の坑道となった歓喜坑は、現在の宇摩郡別子山村の山中にあり、新居浜市との境界をなす銅山越(標高一二九一m)の北側には、寛永年間(一六二四~四四)に開かれた立川銅山が稼行していた(写真4-9)。
 立川銅山は西条藩領のため、天領の別子銅山の産銅は初期には天満浦(現宇摩郡土居町)から大阪に送られた。赤石山系の小箱越を通るこの第一次泉屋道は、浦山までの二三kmは仲持が輸送し、浦山から天満浦までの一二㎞は牛馬で輸送するもので、別子銅山の経営にとって極めて不便であった。
 そのため泉屋はたびたび西条藩に対し、嶺北の立川山村(現新居浜市)経由の輸送を願い出た。その結果、元禄一五年(一七〇二)に、別子-雲ケ原-石ケ山丈-立川山村渡瀬を経て新居浜浦に至るコースが許された。これを第二次泉屋道といい、別子から立川までの一二㎞を仲持で、立川から新居浜浦までの六㎞を牛馬で輸送した。
 これにより、天満浦に代わって新居浜浦が物資の集散地となり、泉屋の浜宿が設置された。これを口屋といい、明治二二年(一八八九)惣開に住友の新居浜分店が新設されるまで続いた。
 その後、寛延二年(一七四九)に立川銅山が別子銅山に併合されたため、泉屋道は銅山越-角石原-馬の背―東平を経て立川中宿に至るコースとなった。立川中宿は輸送の中継点として重要な位置を占め、中宿のおかれた渡瀬は明治一三年(一八八〇)の牛車道開通後も盛況をきわめた。

 藩政期の別子銅山

 別子銅山は開坑以来順調に産銅が増加し、わずか七年目の元禄一一年(一六九八)には一五二一トンを産出した。これは同年の日本全国の生産高の二八%を占め、また藩政時代における別子銅山の最高値でもあった。この間、元禄七年(一六九四)夏に、木方付近の焼窯から出火した火災により、全山が廃墟となる大打撃をうけた。この火災で支配人杉本助七以下一三二人が殉職し、焼窯四〇〇口をはじめ、下財(坑夫)小屋二二五軒などを消失した。しかし直ちに復旧作業が行われ、同年の産銅高は九二万三〇〇〇斤で、前年より一〇万斤以上も増加した。旧別八に残る蘭塔場はこの時の殉職者の墓所であったが、墓所は大正五年(一九一六)新居浜市山根の瑞応寺に移された。
 元禄一〇年(一六九七)幕府は当時の貿易相手国であるオランダと清国に対し、年間八九〇万二〇〇〇斤の銅輸出を決めたが、国内の産銅高が漸減し目標額の調達が困難になった。そのため元禄一四年(一七〇一)大坂に銅座を新設する一方、翌年には泉屋と大坂屋を招いて増産の意見を求めた。
 これに対し住友友芳が別子銅山について述べた意見書では、疏水坑道の短縮、輸送路の短縮、燃料の確保、永代請け負い、貧鉱の処理などを指摘し、あわせて立川銅山の併合を訴えている。その結果、別子の永代稼行が認められたほか、第二次泉屋道の開通が実現し、また銅山経営保護政策として、安値買請米制度が始められた。
 この制度は、幕府が別子銅山で消費する米を払い下げるというもので、年間六〇〇〇石、立川銅山合併後は八三〇〇石の買請米が支給された。この買請米は、当時の相場が一石当たり銀八八匁のものを五〇匁で支給するもので、当初は一〇か年の期限つきであったが、その後も幕末まで継続された。八三〇〇石のうち、六〇五〇石は伊予四郡(越智・桑村・新居・宇摩)でとれる伊予米で、残り二二五〇石は作州米であった。
 こうした政策にもかかわらず、別子銅山の産銅高は開坑当初に比べしだいに減少し、六〇万~八〇万斤で推移した(図4-9)。その主な原因は遠町深舗で、遠町とは薪炭坑木をとる山が遠くなること、深舗とは坑道が深くなることである。特に深舗は排水を困難にさせ、排水に要する労働力や経費の上昇が経営を圧迫した。
 このため幕府は正徳五年(一七一五)には輸出銅を四五〇万斤に制限し、翌享保元年には全国二〇か所の銅山に供出銅の割当高を定める輸出銅供出制度を定めた。別子銅山の割当高は一〇〇万斤で、秋田銅山の一七〇万斤に次いで多く、また立川銅山は七〇万斤であった。
 我が国の輸出銅はその後も減少を続け、延享三年(一七四六)には三一〇万斤、明和元年(一七六四)には二四五万斤、寛政四年(一七九二)には二〇五万斤、同六年には一八五万斤となった。その中で別子銅山は、寛延二年(一七四九)に併合した立川銅山も含めて七二万斤の輸出銅を担当し、この額は幕末まで続けられた。

 明治維新と別子銅山の近代化 

 藩政時代末期の別子銅山は、嶺南の足谷山側に歓喜・歓東・東山・自在・床屋・西山・大和・天満・中西・長永・大切などの各間符が開かれ、嶺北の立川山には大黒・都・太平・寛永・えびすなどの各間符が開かれた。しかし、別子銅山の経営は漸次悪化し、天保一三年(一八四二)や安政二年(一八五五)には、別子銅山の経営中止が検討された。
 さらに慶応元年(一八六五)には、御用銅七二万斤の長崎回送打切り、別子銅山の安値買請米八三〇〇石の廃止が相次いで申し渡された。その年別子銅山の支配人となった広瀬宰平は、京都所司代に請願して予州米六〇〇〇石の支給を確保した。しかし米価が市価で支給されたため、慶応三年(一八六七)には飯米廉売制復活を求める稼ぎ人らが直訴を企てて下山し、ついに七~九月を休山する事態となった。
 同年一二月、王政復古の大号令が下され、翌慶応四年には徳川慶喜追討の勅令により、川田小一郎指揮の土佐軍が伊予に入り、宇摩・新居・桑村・越智四郡の天領四九か村を支配下においた。そのため別子銅山も没収される危機に直面したが、広瀬宰平が隊長の川田(のち日本銀行総裁)と川之江で会談し、住友による稼行継続を訴えた。これは明治元年(一八六八)新政府によって正式に認可され、土佐藩によって行われていた別子銅山の封印が解除された。また、かつてのような低価格での幕府による産銅の一括買い上げはなくなったが、銅山の経営は困難をきわめた。この時にも別子からの撤退が検討されたが、住友は事業を別子銅山のみに絞って難局打開につとめた。
 まず、明治二年(一八六九)に粗銅から精銅をつくる吹所を大阪から立川山村に移し、輸送の無駄を省いた。続いて寛政年間(一七八九~一八〇一)以来の大水抜き工事である小足谷疏水道の開削を明治二年に再開し、同一一年から五年間の中断のあと一六年に再開して翌一七年(一八八四)に貫通した。この疏水道は、さらに運搬坑道としても利用できるよう整備して、一九年(一八八六)に完成した(表4-11)。
 また、同七年(一八七四)にはフランスのリヨンにあるリリエンタール鉱山会社技師のルイ・ラロックを別子銅山に迎え、銅山の近代化について意見を求めた。ラロックは別子銅山の地質や鉱物を詳細に調査し、将来の経営についての目論見書を作成した。その最も注目すべきものが、東延より鉱脈の傾斜に沿って大斜坑を開削するもので、一般に東延斜坑とよばれるものである。
 東延斜坑の開削は明治九年(一八七六)に着工し、同二八年(一八九五)に完成した。この斜坑は傾斜が四九度で、五二六m掘り下げ八番坑道に達し、富鉱を掘り出すことができるようになった。この富鉱は斜坑最底部の三角にあり、そこには安政時代(一八五四~六〇)以来の湧水が溜まっていたが、この排水が可能となって富鉱が採掘されるようになった。
 このほかラロックは、金子村惣開(現新居浜市)に大製錬所を建設し、別子山内及び立川の製錬所をここに移転させる案も提出した。また別子銅山では、政府の工部省に雇われて来日していたフランス人技師のフラソソワ・コワニーやフレッシュウィルを招いて近代化の意見を求め、コワニーからは湿式製錬法及び排煙からの硫酸製造法の進言をうけた。
 また、嶺北の角石原から嶺南の東延斜坑下の代々坑に抜ける燧道が、明治一五年(一八八二)に着工して同一九年(一八八六)に貫通した。これが長さ一〇一〇mの第一通洞で、この通洞の開通により銅山越を通らずに物資の輸送が可能になった。
 輸送の近代化は仲持輸送の改善にも向けられ、別子の目出度町と新居浜の口屋を結ぶ牛車道建設を明治八年(一八七五)に着工した。牛車道は全長二八㎞で同一三年(一八八〇)に完成し、広瀬宰平の故郷である近江の女牛を導入して輸送に当たらせた。牛車道沿線には立川中宿のほか石ヶ山丈・岩屋谷・角石原などに中宿がおかれ、牛車の宿泊所となった。
 こうして数十台の牛車が別子~口屋を往来したが、往復に四日間もかかり、また生魚・野菜・衣服等の商品はその後も背負って運ばれた。しかし、明治二六年(一八九三)に第一通洞北口の角石原と、牛車道の中宿である石ヶ山丈間(五五三〇m)に上部鉄道が開通し、石ヶ山丈から端出場までの約一六〇〇mには索道を架設して輸送するようになり、牛車道の役目は終了した。上部鉄道は牛車道の下側に並行してつけられ、ドイツのクラウス製造所から購人した蒸気機関車が鉱石を積んだ貨車を引いて走った。
 明治初期から続けられた近代化の促進、特に東延斜坑の開削によって別子銅山はみごとに立ち直り、産銅高も明治一〇年代の一〇〇〇トン前後から、同二〇年(一八八七)には一四四九トン、同三〇年(一八九七)には三〇六五トンと着実に増加し、大正五年(一九一六)には九一八〇トンに達した(図4-10)。

 東平から端出場へ

 明治三二年(一八九九)八月、台風による豪雨で山津波が生じ、別子の銅山町は倒壊家屋一二二戸、大破三七戸、死者五一三人という未曽有の大被害を被った。これを機に別子での製錬をやめ、製錬設備を惣開に集中した。また同三五年(一九〇二)に第三通洞、同四四年(一九一一)に日浦通洞が開通すると、東平と嶺南の日浦間の三八八〇mが坑内電車で結ばれた。これにより、宇摩郡別子山村にある余慶・積善・筏津坑などの鉱石が日浦から東平に運ばれ、東平からは、同三八年(一九〇五)に架設された索道で下部鉄道の黒石駅に搬出されるようになった。
 こうして東平の重要性が高まり、大正五年(一九一六)には採鉱本部が別子東延から東平に移された。東平には採鉱課・土木課・運搬課などの事業所のほか、学校・郵便局・病院・接待館・劇場なども移された。また、東平・呉木・喜三谷・柳谷・辷坂・三本松・尾花・第三など八部落が成立し、全盛期には人口が二七〇〇人に達した。その後、東平坑より下部にある鉱石が、大正四年(一九一五)に完成した五八〇mの大竪坑と第四通洞によって、通洞口の端出場に搬出されるようになり、昭和五年には採鉱本部が東平から端出場に移転した(写真4-10)。
 端出場からは、明治二六年(一八九三)に開通した下部鉄道が惣開に通じており、別子銅山の鉱石の大部分が第四通洞から運び出された。また端出場には昭和四四年に大斜坑が完成して、海面下九六〇mの三二番坑道の鉱石を、長さ四四五五mのコンベヤーで運び出せるようになった。
 採鉱本部の端出場移転にともない、東平の施設はしだいに縮小された。また、東平に代わって新たな従業員住宅として、鹿森(二七六戸)・打除(三三戸)・梅林(七〇戸)・川口新田(五六三戸)・山根(一一九戸)などが建てられた。
 昭和期の産銅高は、昭和三年に一万四九八五トンの最高値に達したが、戦時中は労働力が不足し、戦後の同二二年には一〇七九トンにまで低下した(図4-11)。その後しだいに回復し、三七年には七五八二トンを産出したが、鉱石の品位は一・〇~一・三%ときわめて低く、また採鉱の中心部も筏津坑が海面下五〇〇m、本山坑が同九〇〇m付近に達した。そのため、盤圧・地熱・通気などの面で採掘条件が悪化し、保安の面でも安全確保が困難になった。また鉱脈の枯渇は昭和初期から既に問題視され、新鉱床発見の可能性がないことや、国際的な銅価格の下落により赤字採掘が続いたことなどから、住友金属鉱山㈱は、別子銅山を四八年三月末で閉山した。
 元禄四年の開坑以来二八二年間にわたって採掘された別子銅山からは、約三〇〇〇万トンの鉱石が掘り出され、七二万トンの銅を産出した。昭和二~六年まで在任した別子鉱業所専務取締役の鷲尾勘解治は、別子銅山閉山後の新居浜の発展を思い、機械工業や化学工業の育成発展、築港と海岸の埋め立てなどを考えた。別子銅山によって発展した新居浜は、こうして住友五社を中心とする工業都市へと変貌し、旧別子や東平などの跡地は植林が進められ、元の静かな自然に還った。
 なお、山根製錬所や惣開製錬所から排出する亜硫酸ガスにより、新居浜平野で農作物に煙害が生じ、激しい煙害闘争がおこった(『愛媛県史』社会経済編「別子銅山の発展と社会問題の発生」参照)。このため住友は製錬所を四阪島へ移転し、別子銅山の鉱石を船で四阪島へ送って製錬していた。





図4-9 江戸時代の別子銅山産銅高の推移

図4-9 江戸時代の別子銅山産銅高の推移


表4-11 明治時代の別子銅山関係年表

表4-11 明治時代の別子銅山関係年表


図4-10 明治時代の別子銅山産銅高と鉱石品位の推移

図4-10 明治時代の別子銅山産銅高と鉱石品位の推移


図4-11 昭和期の別子銅山産銅高と鉱石品位の推移

図4-11 昭和期の別子銅山産銅高と鉱石品位の推移