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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

二 別子銅山の製錬所の移動

 藩政期の銅製錬
 
 別子銅山は元禄四年(一六九一)に泉屋(住友)によって開かれた銅山で、けじめは嶺南の別子山村で稼行していたが、寛延二年(一七四九)嶺北の立川銅山を併合し、銅山峰一帯及び山麓地域で、採鉱や銅製錬が行われてきた。銅山川上流の足谷川に沿う谷あいは、元は無住の地域であったが、銅山の開坑により突如としてにぎやかな生産活動の場が出現した。
 最初に開かれた坑道を歓喜坑といい、嶺北との境界をなす銅山越(標高一二九一m)から南へ少し下ったところ(同一二二〇m)である。選鉱場はこの歓喜坑前におかれ、歓喜坑付近が別子銅山の最初の本舗であった。また下財(鉱夫)小屋・砕女(鉱石を砕く女工)小屋・金場(選鉱場)・勘場(会計事務所)・御番所(山役人出張所)・銅蔵・米蔵・炭蔵などが建てられた。また製錬部門である窯場や床屋からは硫煙が立ちのぼり、険しい山道を越えて産銅を運ぶ仲持衆が往来した。
 藩政期の別子銅山では、別子の山元で粗銅をとりだし、それを大阪に送って鰻谷の住友本家にある吹所で真吹して精銅を得ていた。精銅はさらに小吹により貿易用棹銅に加工され、また地売銅も作った。住友の業祖とされる蘇我理右衛門は、慶長年間(一五九六~一六一五)に開発した南蛮絞りの技術により、それまで日本では不可能であった銅と金・銀との分離に成功したことで知られる。
 別子で行われた粗銅生産は三工程の作業からなり、それらは木方と吹方に大別された。木方は焼鉱を行う職種、吹方は製銅を行う職種で、いずれも後には製錬課とよばれた部門である(図4-12)。
 工程の概要は、まず鉱夫が掘った鉱石を負夫が坑道から運び出すと、金場で品位八%程度以上の富鉱を選出し、これを約三cm角に砕く。これを焼窯に入れ、薪と砕鉱石を交互に敷き並べて三〇日~六〇日間蒸し焼きにする。これが木方の作業で、鉱石一三三〇㎏と薪五三〇kgから焼鉱一〇〇〇㎏が得られた。
 こうして得た焼鉱を硅砂と混ぜて吹床(溶鉱炉)に入れ、木炭の火熱で溶解して銅分と不純物を分離する。溶鉱炉の中で不純物の鉄分は硅酸と化合して硅酸鉄となって浮き、炉の上部から流出する(鍰という)。また銅分の硫化銅は炉床のくぼみにたまり、水で冷却すると皮状に固まるので鈹とよばれた。鈹は銅分が三五~四○%で、吹大工が火箸で一枚ずつはぎとり、あとには床尻銅が残った。
 鈹は再度硅砂と混ぜて真吹炉に入れ、木炭の火熱で不純物の鉄分や硫黄分を除くと、銅分九七%の粗銅が得られる。あとの二工程が吹方の作業で、焼鉱四〇〇〇㎏と木炭一〇〇〇㎏から鈹一〇〇〇㎏がとれ、また鈹二八五○kgと木炭二〇〇〇㎏から粗銅が一〇〇〇㎏得られた。このような製錬法を和式製錬といい、明治時代に洋式製錬法が導入されるまで続いた。
 和式製錬では多量の薪炭を消費するため、それらの確保が銅山の経営上不可欠であった。このため幕府は、元禄一六年(一七〇三)に宇摩郡津根山村の一柳家五〇〇〇石を播州に転封して天領とし、別子銅山用薪炭材の給供地とした。しかし、製銅作業では粗銅一トンを得るのに約三トン(一五〇俵)もの木炭を消費したため、明治時代になると製炭の場は別子から二〇~三〇㎞も離れたところで行われた。西条市の笹ヶ峰登山道沿いにある宿は、こうした別子銅山用木炭の集散地であった。

 明治期の旧別子

 嶺南の足谷川一帯は別子銅山の発祥地で、鉱山集落はまず歓喜坑のある前山付近に成立した。明治時代中期には、山方・木方・風呂屋谷・永久橋・目出度町・見花谷・両見谷・裏門(炭方)・東延・高橋・小足谷などの部落があり、小足谷一帯は最も後にできた部落である。この地域を今は旧別子とよび、各部落は山腹の斜面を削り石垣を組んで、軒を接するように建っていた(図4-13)。
 目出度町は旧別子の中心街で本舗ともよばれ、別子銅山支配人・役頭・舗方などが勤める重任局が、明治二五年(一八九二)までおかれた。旧別子地区の人口は、享保一〇年(一七二五)に三五一四人、明治二一年(一八八八)には四三八九人であったが、その後全盛期には一万三四〇〇人に達し、県内有数の大きな町であった。目出度町には別子山村役場・郵便局・接待館・駐在所・住友病院などがおかれ、養老亭や一心楼などの料理屋や料亭、小泉商店(伊予屋)・奥定商店(えびす屋)・雑貨屋・うどん屋などの商店が建ち並んで盛況をきわめた。
 目出度町の対岸が木方で、尾根筋に焼鉱場、谷側の上手に木方部落、下手に溶鉱炉があった。焼鉱場の上の丘には元禄四年の開坑時に勧請した大山積神社が鎮座していたが、明治二五年(一八九二)目出度町に遷った。神社のあった丘を縁起(延喜)の端とよび、ここから旧別子の遺跡が見わたせるところから、現在はパノラマ展望台とよばれている。
 木方製錬所から少し谷沿いに下ったところが高橋で、明治一二年(一八七九)に鈹をとる荒吹炉二基と、粗銅をとる真吹炉一基を建設した。この製錬所は、従来の吹子に代わって送風機を備えており、別子山中で初の本格的な洋式製錬所であった。また、吹床を洋式製錬では溶鉱炉というところから、高橋部落はヨーコロ部落とよばれた。なお、新居浜の惣開では訛ってヨーコロとなり、惣開に通う人をヨーコロ行きさんとよんだという。高橋の洋式製錬所は、明治三二年(一八九九)八月の大水害で溶鉱炉が倒壊し、事務所・作業所・倉庫なども流失して操業不能となったため閉鎖された。
 旧別千から銅山越の鞍部をこえて北に少し下ると角石原で、ここには明治一九年(一八八六)に貫通した第一通洞がある。第一通洞は角石原と旧別子の代々坑を結ぶ長さ一〇一〇mの隧道で、明治一三年(一八八〇)に開通した銅山越経由の牛車道も、以後ここを通るようになった。
 角石原は同一三年から二六年(一八九三)までは牛車道の中宿がおかれたが、二六年に角石原~石ケ山丈間の上部鉄道が開通すると、その停車場がおかれた(図4-14)。また、明治一九年にはストール式焼鉱炉や選鉱場が設置されたが、焼鉱場はその後明治三二年(一八九九)に廃止されて惣開に移った。明治三五年(一九〇二)に第三通洞が開通すると、鉱石は角石原より下の東平に集められるようになり、明治四四年(一九一一)の上部鉄道廃止と共に選鉱場も廃止された。現在は角石原の施設跡に銅山峰ヒュッテ(伊藤玉男経営)があり、別子銅山遺跡や赤石山系を訪れる人々の宿泊施設として利用されている。

 新居浜の製錬所

 明治維新前後は日本全体が激動の時代であり、別子銅山も存亡の危機に直面した。その時、住友家及び別子銅山の難局をのりこえた指導者が広瀬宰平であった。広瀬は、幕末以来低迷している別子銅山の生産を増やすために、数々の近代化を促進した。大坂鰻谷の精銅所(吹所)を国領川流域の新居郡立川山村(現新居浜市)の渡瀬に移したのもその一つである。これは、徳川幕府が滅亡したため専売機関である銅座がなくなり、自由に企業活動ができるようになったからである。立川の精銅工場は明治二年(一八六九)に移転を開始し、同九年(一八七六)に操業を開始した。
 立川渡瀬はまた、元禄一五年(一七〇二)に別子銅山から立川を経由して新居浜浦の口屋(泉屋の浜宿)に至る輸送路が開けて以来、立川中宿としてにぎわったところである。この中宿は明治時代に立川分店ともよばれ、鰻谷から移された精銅所は立川分店と並んで操業していた。
 立川吹所は、その後惣開に製錬所ができたため、明治二三年(一八九〇)に操業をやめ、同二六年(一八九三)には設備を惣開に移転した。これらの跡地は、その後一時立川保育園として利用されていた。立川吹所前の国領川には、明治九年ころ架けられた長崎様式の石橋があり、立川のめがね橋とよばれて名物となっていたが、同三二年八月の大水害で惜しくも流失した。
 別子山村の弟地でも、明治一一年(一八七八)に弟地沈澱銅工場の建設が始められ、同一三年(一八八〇)に試験工場が完成した。この工場は、工部省鉱山局のイギリス人技師ゴットフレーから技術を学んで作られ、品位七%以下の貧鉱を用いて製錬するものであったが、わずか六年で廃止された。
 弟地沈澱銅工場では、まず鉱石を硫化焙焼して硫酸銅とし、鉄くずと共に浸出槽の温水にひたして、イオン化傾向の差を利用して銅を析出させた。イオン化傾向の大きい鉄は溶けて硫酸鉄(緑ばん)となり、イオン化傾向の小さい銅が析出沈澱した。この沈澱銅は品位が五○%で、これを真吹炉にかけて粗銅を得た。
 弟地は足谷川流域の別千山中から、銅山川沿いに下ったところで、明治一一年(一八七八)に開坑した弟地坑は、筏津鉱として昭和四八年の別子閉山まで続いた。筏津坑の全盛期には床鍋や瀬場などの部落にも多くの社宅があり、鉱山関係の事務所などの施設もおかれていた。
 弟地沈澱銅工場での製錬法を湿式製錬といい、その実績をもとにして、明治一九年(一八八六)山根湿式製錬所の建設に着工した。同製錬所は二一年(一八八八)山根の生子山麓に完成し、沈澱銅(浸出銅)のほか、硫酸製造と合わせて製鉄法の研究も行った。この硫酸工場はわが国で二番目のもので、年間四〇〇トンの硫酸を生産したが、当時は硫酸の用途が少ないため最初は海に捨てていたともいわれる。
 山根で行われた湿式製錬は、貧鉱の利用を促進し、亜硫酸ガスからは硫酸を得てこれを浸出液に利用した。しかし、排煙により周辺の農作物に被害が出はじめ、また製鉄法の研究も成果が上がらないため、明治二八年(一八九五)に廃止された。生子山頂に残っている煙突は、製錬所の排煙を煙道で導いて放出していたもので、生子山は煙突山の名で市民に親しまれている。

 惣開から四阪島へ

 別子銅山では、開坑以来旧別子の山元に設けられた焼鉱窯や吹床で製錬していたが、明治時代になると、しだいに他の地域での製錬が増加した。明治二〇年代は、まだ別子山元での製錬が存続していたが、明治一六年(一八八三)燧灘に面した惣開に洋式製錬所が建設され、同一八年から二〇年(一八八五~八七)の試験操業を経て本格的な生産が始まった。
 この製錬所は新居浜製錬所とよばれ、大・中・小の各高炉を有し、鈹・粗銅・精銅の一貫製錬を行った。このうち焼鉱炉(鈹炉)は五基、粗銅と精銅を得る反射炉は六基で、しだいに新居浜製錬所が製錬部門の中心地となった。明治二二年(一八八九)には惣開に住友の新居浜分店がおかれ、元禄一五年(一七〇二)以来口屋で行われていた別子銅山関係の業務を継承した。
 こうして新居浜製錬所の操業が軌道にのると、同二三年(一八九〇)立川吹所での銅精錬を廃止した。また同三二年の水害で大きな被害を受けた高橋の洋式製錬所の再建を断念し、角石原の焼鉱炉も惣開に移転した。
 明治二六年(一八九三)に上部鉄道(角石原~石ケ山丈間)と下部鉄道(端出場~惣開間)が開通すると、別子銅山からの鉱石輸送力が増大し、別子山中における採鉱・選鉱業務と、惣開における製錬業務という体制が確立した。このような明治一〇年代後半から二〇年代にかけての設備の近代化は、明治一四年(一八八一)にフランス留学から帰国し、別子銅山技師長となった塩野門之助のプランに基づいて進められた。
 惣開周辺の農地では、明治二〇年春から麦の立枯れなど硫煙(亜硫酸ガス)による影響があらわれていたが、操業の拡大とともに被害地域が拡大し、激しい煙害闘争がおこった。煙害問題の解決をめざして新居浜に着任した支配人伊庭貞剛は、塩野門之助の提言を容れて、製錬設備の四阪島への移転を決め、同二八年にその準備にとりかかった(『愛媛県史地誌Ⅱ東予西部』編「四阪島製錬所の変遷」の項参照)。
 大正一四年(一九二五)には、四阪工場にグリナワルト式焼結工場が完成し、銅精鉱の焼結吹が開始された。これは、別子の銅鉱石を星越工場(王子町)で浮遊選鉱により濃縮し、品位二〇~三〇%の精鉱にして製錬するもので、銅鉱石は住友専用鉄道によって端出場から星越工場に運ばれた(写真4-11)。
 四阪工場での銅製錬は、初期には粗銅・精銅の一貫製錬であったが、大正一〇年(一九二一)に新居浜の西原町に精銅炉が移転したため、以後は粗銅生産のみとなった。四阪工場の粗銅生産は昭和三〇年代に急増し、四四年には六万三八五七トンに達した。しかし、四六年には磯浦の埋め立て地に東予製錬所が完成したため、四阪工場での銅製錬はしだいに縮小された。その後、五一年一二月をもって銅精鉱による製錬が廃止され、七一年間にわたる銅製錬の火が消された。
 この間、昭和四八年三月に別子銅山が二八二年間の歴史を閉じ、閉山後も利用されていた端出場~星越間の住友専用鉄道が五一年に廃止された。しかし、住友金属鉱山㈱による銅製錬はその後も輸入鉱石(精鉱)を利用して行われ、月産約一万五〇〇〇トンの電気銅を生産している。銅鉱石の輸入先はアメリカ合衆国をはじめ、チリ・フィリピン・カナダ・オーストラリアなどで、東予製錬所で生産された粗銅はトラックで精銅工場へ運ばれている(写真4-12)。星越工場は現在は東予工場の製錬課に属し、星越作業所として鍰の再選鉱を行っている。










図4-12 別子銅山の製錬所(門田原図)

図4-12 別子銅山の製錬所(門田原図)


図4-13 明治時代中期の別子銅山(旧別子地区)

図4-13 明治時代中期の別子銅山(旧別子地区)


図4-14 明治時代中期の角石原

図4-14 明治時代中期の角石原