データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

三 新居浜の重化学工業の立地

 1 新居浜の工業化と住友の役割

 住友の位置づけ

 別子銅山が開坑して約一八〇年、明治に入ると銅山の採掘事業拡大のため山林買収、他資本による農地の拡大といった形で住友の進出が活発になった。昭和に入ると、銅山の硫化鉱を利用した肥料製造(住友化学)と鉱山の機械部門を母体とする機械製造(住友重機械)とが新事業として発足した。瀬戸内海の好漁場を控えた漁村にすぎなかった新居浜は、住友に支えられた鉱山の町となり、昭和一二年合併により新店浜市が誕生した。このような発展を支える条件として港湾と道路が必要で、築港と用地買収や埋め立てが急速に進められ、同時に自治強化の必要性から新居浜市が生まれた。
 こうして銅山から生まれた住友四社(鉱山、化学、重機械、共電)を中心に、現在グループ企業は約五〇社にも達する。しかし、中心は化学、重機械、鉱山の三社であることは表4-12でも明らかである。また、表4-13によると住友三社の占める工業出荷額の割合は相対的に低下傾向にあるが、七〇%前後を占める。これに関連下請け企業を含めると七○%を超え、その存在が如何に大きいかわかる。市全体の工業出荷額は、表4-13をみれば大勢的には伸びているが、第一次石油危機(昭和四八年)の影響から同五〇年には対前年比四・八%減となり、第二次石油危機(五三年)にも六・四%減少した。その後五五年には上向きになったものの、石油危機に伴うエチレンセンターの全面停止とこれに関連した石油化学部門の縮小、アルミニウムの磯浦工場の閉鎖などが続き、五六年四・四%減、五七年八・〇%減となっている。
 次に図4-15により工業の構成を大別してみると、国及び県に比べ特に新居浜市は素材型産業部門七八%と極めて偏った工業の構造となっていることがわかる。この基本的構造の急激な変革に現在取り組んでいるが、その変化の様子が表4-13の第二次石油危機以後の従業員の急減ぶりに読みとれる。住友化学愛媛工場だけで四〇年代には七〇〇〇名いた従業員が、五二年三月現在二〇〇〇名に急減少し企業体質の転換とスリム化が進んでいるが、地域の側からみれば雇用の場としての存在が低下してきた(写真4-13・14)。この傾向は住友各社共に同じで、五〇年代末から住友重機械、住友アルミ(現住友化学)も同様な体質改善が行われた。これが新居浜市の人口減につながっている。新居浜の工業化に関する研究はすでに報告(『地誌I・総論』)されているので、本稿では重厚長大型素材産業中心の新居浜の工業構造の変化に重点をおいて、第二次石油危機以後の状況について述べる。

 工業の構造的変化への努力

 新居浜市は現在、住友化学を中心にハイテク工業地へと体質を変えつつある。表4-14は最近一〇年間の住友化学愛媛工場(新居浜・大江・菊本の三製造地区)のプラントのスクラップ・アンド・ビルドを示したものである。住友の町として発展した新居浜にとって四八年の別子銅山の閉山を第一の衝撃波とすると、五七、五八年と続いた住友アルミ磯浦工場の閉鎖、愛媛工場(大江)の日本で最初のエチレンセンター廃棄は第一の衝撃波とは比較にならない第二の衝撃であった。表4-14はこれを克服するため、ハイテク化、ファインケミカル(精密化学)の基地化が進んでいることを示す。肥料(アンモニア)、石油化学中心の従来の製品群から付加価値の高い製品群へ大きく変化した。百グラム単位で金額を比べると、硫安四円、ポリエチレン二〇~三〇円、アルミ三〇~四〇円に対し、発光ダイオードとして需要拡大が見込まれるガリウム一万三〇〇〇円、制ガン剤のインターフェロンは億円単位という。まさに軽薄短小型工業への転換である。最近の主な転換例をみると、五八年には菊本地区でのガリウムの製造設備が、大江地区で特殊エキシポ樹脂の製造設備が完成した。前者は次世代ICなどエレクトロニクス分野の化合物半導体素子として、後者もIC用として今後需要拡大が見込めるものである。五九年には、透明性や耐衝撃性に優れ、ビデオディスクなどの電気製品や、建材など広い範囲で需要が急増しているMMA樹脂(メチルメタアクリレート)の原料製造設備が、合弁事業で日本メタアクリルモノマー㈲によって完成した。また、新居浜地区の一角には住友化学から五九年に分離独立した住友製薬㈱の愛媛バイオ工場があり、抗ガン剤の「インターフェロン」の世界最大の製造基地になっている。この他、医薬品の中間体や、エキシポ樹脂、高純度アルミナ、高級染料の中間体の1・アミノアントラキノン、炭素繊維など付加価値の高い製品を生み出す工業地へ急速に変貌しつつある。以上のような傾向は住友重機械、住友金属鉱山でも同様な努力がみられる。鉱山とオランダのアクゾ・ケミー社の合弁の日本ケッチェン㈱は水素化処理の触媒生産などで従業員八〇名余の中堅企業に成長したものもあるが、住友重機械の体質改善は、産業機械中心という体質からみても今後の課題は多い。

 2 工業化の基礎的条件

 国領川と工業用水

 工業統計によると昭和六〇年の従業員三〇名以上(工業用水の調査対象企業)の企業が新居浜市には七〇社あり、一日に使う工業用水は八八万五四四四立方mとなっている。新居浜市の特色として、淡水以外に海水使用量が多いが、これは省略する。淡水の使用量を用途別にみると、約八七%が化学工業の冷却用で洗じょう用六%などが多い。図4-16から水源別用水量をみると、回収水と海水を不足する冷却用に使っているという点が県内の他の工業地域と異なる点で、工業都市新居浜の一つのネックとなっている。回収水がきわめて多く、ダムからの水(工業用水道)はきわめて少なく井戸水以下で、他に地表水、伏流水も少量これを補っている。こうした現状から県や市の自治体と住友資本はダム建設を進める一方、伏流水や地表水まで汲み上げ、地域住民の生活や農業などの生産活動にも影響してきた。以下、新居浜地域の工業用水の基盤である水利環境の概要からみてゆく。
 新居浜は古来、灌漑用水・飲料水は河川、溜池、井戸に求めたが、主たる給水源は国領川で他に渦井川などの河川である。中心の国領川は市域を北流する二級河川で、笹ケ峰(一八六〇m)を源流に流路延長約四四kmで流域面積は市域の半分弱を占める七三平方㎞にも達するが、支流の小女郎川などの石鎚断層崖を侵食して別子ラインを形成しその間、谷底平野は皆無に近い。支流も含めて運搬してきた土砂で扇状地性低地の新居浜平野を形成し、平野部では伏流することが多く、表流水が少ない。このため別子ラインの上流部と下流部の新居浜平野とは対称的で、中流的性格の欠けるのが国領川である。このため流域では高柳泉のように湧水で補う所が多かった。
 明治以後の膨脹時の新居浜は灌漑用水・飲料水の他に工業用水の急増でこれをまかなうため地下水の汲み上げが始まった。海岸部では大正初期まで打ち抜きによる自噴水を飲料水に用いたが、工業用水の急増で止まってしまった為、地下深部の開発に努めた。大正六年(一九一七)角野に開発された吉岡泉は水質・水量共にすぐれていたので、昭和七年住友鉱山が新居浜町より譲り受け、後に住友化学が引き継いだ。五、六年ころから諸泉の湧水利用、或いは伏流水を利用する深井戸が開発され、工業用井戸の開発による農業用水・飲料水との対立が表面化し、水量の減少はもちろん、地盤沈下や塩分混入など質的問題も発生してきた。その背景には工業化の進行による工業用水の需要増を主に工場内に深井戸を多数開発することで国領川の伏流水をとり入れてまかなったのである。表4-15は住友関係のみの工業用井戸の分布であるが、これ以外に他の企業にも若干はみられる。工場外は国領川系と金子川系に属するものがある。
 国領川流域における工業用水の水利史は近藤晴清の研究に詳しいが、工場内井戸とも関連しながら次第に地下水開発の限界に達する。これが三〇年代初期である。これを打開するため県、市、住友(共電)三者が一体となって国領川総合開発計画が作成された。目的は銅山川から分水強化、新居浜地域の工業用水の確保、水力発電の増強等による水資源の有効利用で、別子ダム・鹿森ダムの建設、東平・山根の両水力発電所、工業用水道の新設である。この総合開発事業は四一年に完成した。完成した二つのダムの概要は表4-16の通りである。
 別子ダムは吉野川水系銅山川の最上流部に位置する。従来は別子山村七番地点のダム(堤高二〇m)で堰止め、新居浜市端出場発電所(住友共電)まで分水し、(最大出力四八〇〇kw)発電後国領川に放流していた。それを七番ダム下流約四〇〇mの地点に別子ダムを築造して無効放流を貯留し、銅山越(一二九四m)の西方部をトンネルで抜け、新居浜側の支谷の水を集めながら小女郎川南岸の東平発電所へ落とす。最大二万kwの発電後鹿森ダムの上流に放流し、鹿森ダムと合わせて年間一八七三万トンの工業用水を供給可能とした。これにより日量五二〇八〇立方mの工業用水が新居浜市へ供給されることになった。鹿森ダムの水は新居浜市立川山で取水した工業用水道で住友三社へ五万m3が給水されている(写真4-15)。

 住友共電と電力

 別子銅山を基盤として新居浜地区の住友が、大正から昭和にかけて財閥の形成過程で別子鉱業所の関連企業としていわゆる住友三社(化学、機械、共電)が分立していく。いずれも必要性と関連性の中から生まれたものである。住友共電の場合、大正八(一九一九)年に土佐吉野川水力電気として創立された。すでに住友は九〇kwの発電所があったが、さらに明治四五(一九一二)年に端出場に当時として驚異的な三〇〇〇kwの大出力の水力発電所をつくっていたが、製錬事業に必要な電力と関連事業の電気施設の拡大していく中で安定供給のため設置された。これが化学への電力供給ともなり、或いは四阪島への海底電線の敷設は住友電線の技術によって行われるというように、住友各社の密接な連携を生んだ。
 発電所の建設は四阪島発電所から端出場火力発電所及び同水力発電所を経て新居浜火力発電所へと発展した。昭和一八年に現在の社名になったが、現在水力発電所は県内の国領川・加茂川、高知県の吉野川・物部川などに九か所(合計出力七万八六〇〇kw)、火力発電所三か所(合計六一万八五〇〇kw-内、壬生川火力休止)の発電設備を有する(写真4-16、表4-17)。またこの発電力供給以外に蒸気供給も行っており、「卸電気事業者」として四国電力との間に電力の相互融通も行っている。

 工業用地

 水と電力同様、工業用地も住友との関連で当然同じ歴史をもつ。例えば、大正元年(一九一一)当時の新居浜地方(旧加茂・大生院・角野・金子・新居浜各村)では、住友は水田の一四%、畑の五%、山林の一一%、全体でこの地方の一〇%の土地を支配していた。その後埋め立てが進み、特に昭和三年に計画した築港は浜の表情を一変させた。当時の金で一〇〇〇万円をかけて約一〇〇万平方mを埋め立てるもの。結局、八年に計画の一部を変更して着工、一三年に完成したが、これが全国でもまれな私設港湾から出発した新居浜港の背景である。埋め立てはその後も続き、現在では五〇〇力平方mにも達し、市街地の約三分の一に当たる面積が住友関係の工場及び社宅などで占められる状況である。産業構造の変化の中で、新居浜の経済的地盤沈下が目立ってきたが、その活性化のために同市がとり組んでいるのも、東部地区の埋め立てである。
 東部の中心、多喜浜地区はかつて塩田が盛んだったが三六年に廃止された。同車が塩田跡地の再開発を計画し用地買収をしながら造成をしたものである(図4-17)。総面積一〇八万平方mの塩田跡地の再開発には三つのねらいがある。第一は新居浜本港の狭さと住友の私港的性格の強い現状から、同市の海の新玄関・東港をつくること。第二は鉄工業など地場産業の工住混住型を解消し、工業団地化を図る。第三に港と工業団地の整備により地場産業全体の底上げを図ることである。四九年から順次分譲し五八年までに完了し、黒島地区を含めて鉄工、機械、運輸、建設を中心に約一二○社に分譲した。しかしこの内、一六社の立地、操業のめどがたっておらず、また、中心の住友化学のエチレンプラント予定地約三〇万平方mは立地を断念し、再分譲しており七社の進出は決まったが未決定の部分が多い。
 多喜浜に続く工業団地は塩田跡地に続く地先の黒島地区三六万平方mで、五六年に造成完了後、化学、電子部品関係企業などに分譲した。また、黒島地区の対岸にある垣生地区をふ頭用地、流通工業団地として五七年から造成を進めており、六三年中には完成予定で約九万六〇〇〇平方mの工業団地が誕生する予定である。
 現在、東部地区全体の九五%が分譲ずみであるが、不況という一般的原因だけでなく、産業構造の偏りから誘致業種に制限があるうえ、工業用水の未確保など今後に残された課題は多い。

表4-12 新居浜市の工業構成の推移

表4-12 新居浜市の工業構成の推移


図4-15 新居浜市の工業構成の比較

図4-15 新居浜市の工業構成の比較


表4-13 新居浜市の工業出荷額年次別推移

表4-13 新居浜市の工業出荷額年次別推移


表4-14 住友化学のプラント休止・新増設一覧

表4-14 住友化学のプラント休止・新増設一覧


図4-16 新居浜市の1日当たり水源別用水量の割合

図4-16 新居浜市の1日当たり水源別用水量の割合


表4-15 住友企業の工業用深井戸の分布

表4-15 住友企業の工業用深井戸の分布


表4-16 別子ダム・鹿森ダムの概要

表4-16 別子ダム・鹿森ダムの概要


表4-17 住友共電発電設備一覧

表4-17 住友共電発電設備一覧


図4-17 新居浜東部工業用地概要図

図4-17 新居浜東部工業用地概要図