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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

一 新居浜市の商業と商店街

 新居浜市商業の特色

 新居浜市の発展は元禄四年(一六九一)この別子銅山開坑に始まり、住友の企業城下町として発展し、昭和一二年に新居浜町と金子村、髙津村の合併により市制が施かれた。さらに二八年には東部の垣生・神郷・多喜浜・大島の四か村を編入し、三〇年には船木・泉川・中萩・大生院の四か町村を合併して今日の市制となった(図4-18)。以上のような市の発展史の中で、市街地の分布は旧市内・上部・川東の三地区に分散し、主力商店街の構造的問題などもあって、新居浜市における商業の地位は工業に対し相対的に低い。
 図4-19によると、第三次産業就業者数は、県内で松山市に次いで八・六%で第二位を占めているが、卸売業では商店数で八・〇%、従業者数では七・二%で松山・今治・宇和島各市両市に次いで第四位である。また、年間販売額では六・四%を占め、松山・今治・宇和島各市に次いで第四位となっている。小売業では県全体の商店数の八・三%、従業者数では九・五%、年間販売額では九・三%といずれも松山・今治両市に次いで第三位となっている。従業員一人当たりの販売額では小売業は県平均より若干新居浜市の額が上まわり、県平均の一二七四万円に対し一三六一万円となっている。これは松山市に次いで第二位である。これに対し卸売業は一人当たり県平均五五三○万円に対し、新居浜市は四三三三万円で県内市部では川之江市に次いで第七位である。以上のように新居浜市の商業は松山・今治・宇和島各市など拠点性をもつ都市に比べて都市規模に応じた商業活動の実績があがっていない。
 新店浜の商業は元来、工業の実績による居住地域に対して生活関連物資を供給するという小売業的傾向から出発しており、先述の一人当たり卸売業の年間商品販売額でもわかるように、広域的、卸売業的商業機能に劣る面がみられる。その理由について考えてみると、第一に中心商店街がその形成の歴史的過程から、駅や主要道路から離れて交通の条件が悪く市周辺の消費者への吸引力に乏しいこと。第二に購買力の中心は住友とその関連企業自体や労働者であるが、これらは住友資本と強力な生協組織があるため、地元の購買力に結びつかない。新居浜市を代表する大型小売店の新居浜大丸がその例で、元住友別子銅山の物資配給所から発展したもので、住友金属鉱山別子事業所の正門前に立地する。第三の理由は、モータリゼーションの進展で東の伊予三島・高松、西の今治・松山などの都市との競合は吸引力の乏しい地元商店街からの離脱をすすめる結果となっている。

 中心商店街

 新居浜市は旧市に周辺九町村が合併してできた都市であるため、旧町村の中心的商店街であったものが現在も残り、散在する形で整備が遅れている。これらの中から発展し、中心的商店街になったのは昭和通りと登道を結ぶT字型の商店街である。商店街の形成範囲は、昭和通りを軸とした東西二㎞の延長と登道を軸とした南北三五〇mの延長、そしてこの間を斜めにつなぐ銀泉街からなる、ほぼT字型に近い形状で展開している。その中で最も賑いをみせているのは登道アーヶード街である(写真4-17・18)。元禄一五年(一七〇二)、新居浜に別子銅山の口屋(浜宿)が生まれ、ここから銅山に登っていくということから登道と呼ばれるようになった。戦前は寂しい町であったが、現在同市の繁華街になっている。又、昭和通りは、これより先に海岸側の本町通りに銅山の口屋が開かれ雑貨屋、呉服屋、料理屋、旅館などができて東新地方第一の繁華街として栄えた。しかし昭和五年に昭和通りが新設されて以来商店が順次昭和通りに移り、本町通りは昭和三〇年ころから静かな裏通りになった。新居浜の場合は、他の都市に比較して特異な発展の過程を踏んできたことに起因して通常みられる都市中心機能の集積状態をみることができない。このため新居浜の中心商店街は道路及び交通の条件を唯一の支えとして発展を図る必要があった。この街区では新居浜大丸百貨店が立地して核店舗の機能を備えているが、同店と昭和通り西街区との間に五叉路の交差点が集客能力のネックになっている。これ以外に昭和通りは東端部に南海百貨店(四三年開店)、登道アーケード街にニチイ(五一年開店)、そして中心商店街の東縁部にフジ(五一年開店)がみられるが、これら三大型店の集客力の当該西街区への波及はほとんどみられない。すなわち、昭和通りの西街区は、来客歩行者の多ト登道アーケード街から距離が隔たりすぎていると共に、当該街区そのものが五〇〇m以上と長すぎる問題がある。また、この中心商店街区はJR新居浜駅から約三kmの距離がある。そのため周辺地域からの交通の便は、主要地方道の壬生川~新居浜・野田線(昭和通り)を主とするバス路線と乗用車の利用とに依存している。しかも道路環境が一〇m内外の幅員でバスや一般車輛の二単線となっており、しかも、わずか二m幅程度の歩道を両側に設けるなどきわめて狭く歩行者の回遊行動を大きく制約している。

 周辺商店街

 新居浜市の南部一帯を構成する上部地区の中で喜光地商店街はほぼ地区の中央に位置し、市の中心商業街区から四・五kmの距離にあるが、この中間をJR予讃本線が走っているため、上部地区商業の独自性を生んでいる。また、市域が接する商業拠点としての西条市へは、喜光地商店街からは約一二・五㎞、上部の西端部の大生院地区へは七kmの隔たりをもっている。このような地理的位置から喜光地は上部地区全体が中心商業地の影響下に置かれつつも、固有の商圏を形成している(写真4-19)。
 喜光地は明治維新後、別子銅山の好景気により工員の遊楽地として発展した街村で、銅山の景気に左右されつつも新居浜中心部よりも早く商店街を形成し、国領川東の上部地区の買い物の町であった。同商店街は銅山の衰退と臨海部への工場建設に伴う人口移動などにより、五〇年ころから一時的に地盤沈下が指摘された。しかし近年、上部地区の住宅化が進み、同市人口の四〇%以上が居住する人口急増地域になった。現在の喜光地商店街はJR新居浜駅ヘ一・五km、国道一一号の南側に入り組んだ場所にあり、国道と交差して市の南北幹線としての役割をもつ県道高本山根線及び県道駅裏角野線を軸に、その内側に囲まれる形で街区を構成している。これら幹線道路から街区内への動線となる街路と駐車場がきわめて未整備で狭溢さのため商店街への回遊にとって、物理的、心理的に大きな障害となっている。もう一つ集客のための構造上の問題点として、地域の代表的商店街は、社会的・文化的施設が近接集積し、核店舗と共に集客の役割を果たすのが一般に多いが、その両方が存在しない。その解決のため、喜光地の課題であるモータリゼーションの進展を踏まえた再開発事業が始まっており、五本の道路の新設または拡張が行われ、四か所の駐車場を設置するなどしている。特に再開発の中心になる核店舗は子供の遊び広場をもつスーパー「サンプラザ喜光地」が六一年に完成した。
 当商店街を構成する店舗は、アーケード街とその延長部分がT字型に形成され、一〇五店舗を数える。業種別内訳は食料品店が二二、衣料品、身回品店三一、文化品二一店など合わせて八二の小売店と昼間型飲食店が一三、生活、サービス関係九店、娯楽サービス業一店となっている。構成比からみて食料品店が僅か二六・八%にとどまっており、新居浜市全体や隣接する西条市と比較しても著しく少ない。このため地区住民の買物行動は、日常的には近郊に立地する食料品スーパーや生協ストアを利用し、買い回り性を要する買い物については市の中心街の主として大型店を利用する。当商店街はこの両者の谷間で中途半端な状態になっている。

 生協の発達と大型店の進出

 昭和二六年、戦後の混乱の中で、インフレと物資不足、生活不安から住友化学に働く勤労者が中心となって、生活の擁護と福祉を協同の力でつくろうと、七〇〇〇余名が資金を出し合い労働組合販売部を設立したのが現在の住友化学生活協同組合の第一歩である。
 最初に開店したのが、二六年に住友化学厚生課の米倉庫を借用して始めた新居浜販売所(後に惣開店となるが五六年閉鎖)と菊本販売所(後の菊本店-五六年閉鎖)の二店である。この二店は当時の住友化学新居浜製造所、同菊本製造所の近くに設置され、帰宅する従業員に買い物をしてもらう事を主目的としていた。勿論、惣開店の近くには前田・山田両社宅があり、菊本店の近くには菊本社宅があり、ここに住む組合員家族の利用も期待していた。三〇年には住友化学の他の社宅の組合員を対象に次々と店舗を設立していく。白井社宅に神郷販売所(五九年に新立地の店舗に拡充)が、松の木社宅に松の木販売所ができた。三一年には経営安定のため出資金を一口二〇〇〇円に増額すると共に労働組合販売部から、共済局として独立した事業体になった。出資金はさらに三七年に一口三〇〇〇円に増額されている。三三年にはアパートの金子寮の階下に売店(現在の金子店)ができ、社宅立地型が五店舗となった。以後四八年の中萩店開店まで、一五年間店舗の新設はなかった。三九年には外販車による上部・川東地区など生協店の立地しない地区への移動販売を始めるが、利用者の少ないことや新規スーパーの立地などもあって四三年に中止した。四四年に住友重機械生協と業務提携し、惣開共同販売所をつくった。四六年には現在の共同購入制度が始まった。四七年にはそれまでの共済局組織では労働組合員しか生協に加入できなかったので、法人に移行し住友化学新居浜生活協同組合となって一般の人も加入できる体制になった。そして郊外への店舗拡大を始め、四八年には上部地区の一号店として中萩店、五一年に同二号店として松原店、五六年には束雲店、さらに六〇年に最も新しい宇高店が開店した。
 六一年末現在、組合員数は店舗組合員、共同購入組合員合計で約二万八〇〇名、店舗数七店、年間供給高(販売高)は七〇億円強(生協資料)となっており、県下最大の生協組織である。しかし、生協はスーパーと異なり厚生省の管轄で税金も一般法人より安い非営利法人として軽減税率が適用され、大規模小売店舗法の対象外のため出店規制がない。しかし地域商店街との協調から事実上規制を受ける中でスーパー等大規模小売店との競合もあり、その経営環境は厳しくなっている。
 生協と共に、大型小売店の発達も著しいが、各店についてはすでに各商店街で述べたが、市全体をみると第一種大型店(一五〇〇平方m以上)六店で市全体の小売業約一〇〇〇億円の内、二〇〇億を占めている。県内主要都市の大型店の一平方m当たりの人口をみると、六一年の「サンプラザ喜光地」開店以前で今治に次いで四・三人で第二位と厳しい状況である。第二種大型店(五〇〇~一五〇〇平方m)も一六店あり、小売業の現状は県下有数の厳しさである。






図4-18 新居浜市の行政区域図

図4-18 新居浜市の行政区域図


図4-19 新居浜市の商業的地位

図4-19 新居浜市の商業的地位