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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

三 新居浜港の発展

 新居浜港のおいたち

 新居浜港の港湾区域は、御代島の北端と黒島北端の虎崎とを結ぶ線と黒島南端の城の鼻と多喜浜の阿島樋門を結ぶ線で囲まれた区域で、その面積は一九六〇万平方mである。愛媛県内では最も広い港湾区域を有しており、この中に本港と東港の両工業港及び垣生海岸をはさんで沢津・垣生漁港が形成されている(写真4-20)。
 藩政時代、新居浜平野の中央部を北流する国領川の西岸から、西部を北流する東川の東岸にかけて広がる海岸平野に西条藩領の新居浜浦があった。『慶安元年伊予国知行高郷村数帳』(一六四八)によれば、新居浜村の村高は九二三石四斗余、家数二五六、人数一五二三人であった。しかし、二〇〇年後の天保一三年(一八四二)には村高一〇二八石九斗余、家数六〇五(うち漁家二四〇)、人数二九八六人となっている。村高はわずかに増加している程度であるのに対し、人口・戸数が倍増しているのは主として港津の発展によるところが大きい。前面に燧灘をひかえて漁場に恵まれたため、江戸時代初期以来西条藩内有数の漁村となった。なお、新居浜浦の人口増加に対処するため、同浦の漁師三二軒と漁船三九隻は多喜浜に集団移住したが、大保年問(一八三〇~四三)には漁家は八五軒に達した。
 新居浜浦の発展を決定的なものとしたのは住友家による別子銅山の開発である。寛永一三年(一六三六)に立川銅山(現新居浜市立川山)が開発され、その五五年後の元禄四年(一六九一)に別子銅山が開発された。当初産銅及び諸需要品は銅山川の渓谷に沿って宇摩の天満村から船運によって大阪へ輸送されていたが、元禄一五年(一七〇二)別子から新居浜への道路が開通されるにおよんで、新居浜浦は別子銅山の発展に伴って海上輸送の拠点港として盛えるようになった(表4-23)。一方、松山街道(金毘羅街道)と別子銅山道との交差点にある喜光地周辺には商業地域が形成され、近隣の村々から人々も多く集まるようになった。

 明治期~昭和期(戦前)の新居浜港

 江戸末期から明治初期にかけては、別子銅山口屋の荷物船は中須賀の入江に停泊していた。しかし、その後住友家の海運進出によって明治六年(一八七三)に蒸気船「白水先」が新居浜-阪神航路に就航したのをはじめ、同航路の増加に伴い「廻天丸」・「康安丸」・「安寧丸」等が相次いで入港するようになり、貨物ばかりでなく乗客輸送も次第に本格化していった。こうした状況の中で、蒸気船が安全に接岸できる施設が必要となった。明治八年(一八七五)から一三年(一八八〇)にかけて、住友家の手によって御代島の南を埋め立てして船の発着場を設けるとともに波止場等の築造も施工された。阪神航路の開設と御代島の築港が近代新居浜港の起源とされているが、これとともに新居浜港の発展に重要な意義をもったものが明治二一年(一八八八)から始まった惣開における洋式製錬所の建設であった。
 我が国における臨海工業のさきがけともなった同製錬所の竣工以後、住友企業が相次いで新増設されるとともに、社宅、学校、病院、銀行等の公共施設も建設され、明治末までにはやくも臨海工業地域と市街地の大部分が形成されていった。惣開製錬所が操業を始めてからは、港の重要性は著しく増大したが、明治三六年(一九〇三)以後銅製錬による煙害を軽減するため銅の製錬を四阪島で行うようになると、港湾の果たす役割は一層大きなものになっていった(写真4-21)。さらに、大正四年(一九一五)住友肥料製造所(現住友化学工業)が惣開地先埋め立て地に設立され、同年八月から燐酸肥料が製造されるようになると、燐鉱石等の原料及び製品はほとんどが海上輸送されるようになり、入港船舶数は激増した。別子銅山を根幹とする諸工業が発展するに伴って貿易量も増加していったが、新居浜港(現本港地域)が近代的な港湾として機能するようになったのは、昭和期になって住友金属鉱山の千による一大築港工事が完成してからである。
 昭和期になると、明治以来順調な発展をみせてきた別子銅山も開坑以来二四〇年を過ぎ、鉱石の埋蔵旱が懸念されるようになった。そこで鉱業に代わる新事業の開発が企業と地元で計画された。それは、銅製錬に伴う副産物を利用した硫安製造など化学肥料工業への道、銅山の付属施設である機械修理部門を母体とする機械工業への道、それに豊富な地下水を利用した繊維工業への道であった。このような新しい工業化計画を推進し、新居浜地域の将来の発展を図るためには、広大な工業用地を造成することと安全で機能的な港湾を建設することが不可欠の条件であった。そこで住友企業は昭和五年地元の協力を得て新居浜港の一大築港計画をたてた。これが第一次築港汗画といわれるもので、港となる部分の海底土砂など六〇一万立方mを浚渫するとともに、この浚渫土砂と長年にわたって堆積された砂州を利用して、港の周辺を埋め立てて工業用地を造成し、さらに御代島までの海面を埋め立てて外部施設として延長九一〇m(御代島から北東へ二〇一m、菊本側から北西へ七〇九mで港口は三〇〇m)の防波堤を築造しようとするものであった。同工事は八年に起工され、浚渫と併行して埋め立て工事も施工された。一一年には旅客船用浮桟橋が完成したのに伴い、阪神-別府線をはじめ内海旅客船が多く寄港するようになった。この結果、船舶乗降人員も次第に増加し、一五年には一〇万人を超えた(表4-24)。
 着工以来五年を経た一三年三月にこの大工事は竣工したが、築港と併行して、埋め立て地に各種の工場群が相次いで設立されたことにより、新居浜港は名実ともに我が国を代表する工業港の一つとして数えられるまでになった。工場の設立は九年から始まったが、同年には㈱住友アルミニウム製錬が設立されたほか、住友肥料製造所が㈱住友化学工業と改称し、新分野での活動を強化し、また、住友別子鉱山新居浜製作所が㈱住友機械製作所(現住友重機械工業)として発足した。さらに、県下では初めての化学繊維工場である倉敷絹織新居浜工場が大江地先の埋め立て地に誘致された。一一年には菊本地先埋め立て地にアルミニウム製錬工場が建設され、操業を開始するとともに電力供給用の火力発電所も建設された。
 「大日本帝国港湾統計」によれば、一六年の新居浜港の入港船舶総トン数は二三八万トン(一万七〇四九隻)で全国の港の中では二五番目に多くなっており、県内では三津浜港(総トン数七七二万トン)、東伯方港(同三六一万トン)に次いで三番目に多くなっている。移出入貨物トン数は二〇二万トン(移出九四万トン、移入一〇八万トン)で全国順位は二〇位で、県内では一位となっているが、移出入貨物価額は三億九四九七万円で全国順位は一〇位とその他位は高くなっており、これも県内では一位となっている。しかし、乗降人員は一一万九七四七人で県内で最も乗降人員の多い宇和島(一六九万九五〇〇人)はもとより、今治(一一一万七一二一人)、八幡浜(八三万八八六一人)、三津浜(五七万七一二人)よりもはるかに少なく、新居浜港が工業港として強く機能していたことを示している。
 八年から一三年にかけて施工された第一次築港工事が終了した後も、臨海部に立地する諸企業は順調な発展を続けた。このため、さらに港湾の拡張・整備を行う必要に迫られ、第二次築港計画が住友金属鉱山の手によって策定され、一七年に起工の運びとなった(図4-21)。同工事は、住友アルミニウム製錬工場に続く地先海面の埋め立て、御代島以南の地先海面の埋め立て及び防波堤築造を施工しようとするものであったが、着工の後戦局が激化したため、一部埋め立てが行われたのみで他は中止された。

 昭和期(戦後)の新居浜港

 臨海部の各工場とも終戦時には生産をほとんど停止していたが、幸い新居浜は戦災にあわなかったため、港勢も比較的早く戦前の水準まで回復することができた。そして、貿易が再開されて間もない二三年に国際貿易港として「開港」に指定され、名実ともに我が国を代表する港湾となった。その後、二六年に「重要港湾」及び、「出入国港」となり、海上出入貨物量、船舶乗降人員とも次第に増加していった。二八年には「検疫港」に指定されるとともに、それまでは住友企業による私港的な管理運営がなされていたのに代わって、新しい港湾管理者として新居浜港務局が設立された。これを契機として、新居浜港は従来の私港的な港湾から公共的な港へと衣替えするとともに、港湾改修工事も新居浜港務局によって施工されることになった。
 三〇年代に入ると、高度経済成長と貿易の自由化などにより、臨海工業地帯に立地する各企業の事業はさらに拡大していき、これに伴って入港船舶数も増加していった。船舶の大型化とも相まって総トン数は急増し、三五年には三〇〇万トンに達した(表4-25)。このため公共事業とは別途に、住友企業による港湾施設の改修・拡充工事が継続的に行われ、専用岸壁も築造されていった。工事のうち主なものは西浜運河本護岸工事(三二年)、菊本第二岸壁(現在の第四岸壁)築造(同)、大江工場本船接岸岸壁築造(三五年)などであった。
 三五年に「木材指定港」に指定されたが、これを契機として三六年には多喜浜地区の廃止塩田を利用して水面貯木場、陸上貯木場、木材企業団地等を設ける一大木材センターの建設が計画された。同センターは三九年に完成し、ソ連産の北洋材、アメリカ・カナダ産の北米材、フィリピン・インドネシア産の南洋材などが輸入されるようになった。輸入材はパルプ材と用材であるが、パルプ材は主として三島・川之江港向けの製紙用で、磯浦で艀取りのうえ回漕されていた。また、三九年一月には新居浜市を含む東予地方の六市七町三村が東予新産業都市に指定され、新居浜港はこの中核港として総合的に整備されることとなった。港湾管理者である港務局では、主として多喜浜地区を中心とした港湾整備計画を策定したが、これは喜多浜地区に公共埠頭の築造や臨海工業団地のための用地造成を施工しようとするものであった。なお、四一年に新居浜港の港湾区域が変更され、従来国領川尻までであったものから大島までに拡張されたため、以後多喜浜地区は新居浜港(東港地区)と称されることになった。その後、四四年にさらに港湾区域が変更され、従来西港地区と称していた御代島以西の区域が東予港に編入されることになったが、関税法による開港港域は変更されず、従来どおり旧西港地区も新居浜港域に包含されている。
 新居浜港の本港地区は、もともと住友資本によって開発されたという歴史的経過から、私港的性格が強く、岸壁も大部分は私設であった。こうしたことから商業的機能に著しく欠けており、フェリーの発着する公共埠頭すら整備されていない状況であった。新居浜市では、このようなアンバランスな状況を根本的に解決するため、五五年に港湾整備一〇か年計画を発表した。これは第六次港湾整備五か年計画(五五~六〇年)と第七次港湾整備五か年計画(六一~六五年)から成っており、東港地区を中心に公共埠頭を築造し、東部工業団地を核とした物流基地を建設しようとするものである。第六次港湾整備五か年計画は終了したが、これによって東港南側に貨物専用埠頭として水深五・五mの岸壁二バースが完成したほか、これに隣接して水深五・五m、同三・五mの岸壁も完成し、六二年には大型フェリーも接岸できるフェリーバースも完成した。新居浜港には五〇年以来、新居浜-川之江-神戸を結ぶフェリーが一日二便四国開発フェリーボートによって運行されているが、発着場所が住友金属鉱山の工場敷地内であるうえ、車の昇降もできないため多くの市民が公共のフェリー接壁施設を待ち望んでいたものである。港務局ではフェリー埠頭に延びる市道(臨海道路垣生線)五八〇mを二車線として整備するほか、街路灯や旅客上屋等も順次整備していくことにしている。第七次港湾整備五か年計画では、これらフェリー就航に伴う環境整備のほか、モーターボートやヨットのけい留施設を建設するマリーナ計画なども具体化し、新居浜港が工業港としてばかりでなく商業、レジャー機能も備えた総合港として発展することを目指している。







表4-23 新居浜港関係年表

表4-23 新居浜港関係年表


表4-24 新居浜港の船舶乗降人員の推移

表4-24 新居浜港の船舶乗降人員の推移


図4-21 新居浜港第二次築港計画

図4-21 新居浜港第二次築港計画


表4-25 新居浜港における入港船舶数の推移

表4-25 新居浜港における入港船舶数の推移