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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

一 工都新居浜市の形成と発展

 口屋の設置

 新居浜市が近代工業都市として伸びてきた姿は、広く世間の注目を浴びてきたが、その基盤となったものは市内住友諸工業の拡大発展であり、その根本には「別子銅山は住友の財本」とうたわれた銅山経営があった。即ち銅山用諸機械修理製作工場が成長して住友機械工業となり、貧鉱を処理し硫酸を作り、化学肥料を製造することに端を発して住友化学工業に大成し、自家用動力源確保のため住友共同電力が誕生した。そのほか林業、汽船、銀行、建築、病院、百貨店に至るまで、銅山経営に関連しないものはない。そして、北流する三河川(国領・尻無・東)の沖積低湿地と、白砂青松の海岸および御代島に囲まれた一帯を別子の銅山と直接結びつけるきっかけになったのが「別子銅山口屋」の設置である。
 口屋の跡地は、新居浜小学校となり、町役場となり、市役所となり、また市立図書館などに利用されていたが、それらもすべて新築移転し、現在では口屋跡公民館が建てられ、当時の庭内松が残されている。

 登 道

 口屋から南へ、別子の山へ通じる道は、新居浜口屋から銅山に登って行くということから、登道と呼ばれるようになった。昭和二〇年ころまではまだまだ寂しい町であったが、現在では舗装、アーケードが完成し新居浜第一の繁華街となって、いまも登道商店街の名称として使われている。
 元禄一五年(一七〇二)の新道設置以来、明治二六年(一八九三)に鉄道が敷設されるまでの二〇〇年近く、登道は別子-新居浜間の重要幹線として機能してきた。
 別子と新居浜の間の大量の物資の輸送はすべて人力と牛馬に頼るものであった。特に立川村渡瀬から上部の山岳地域では、明治一三年(一八八〇)に広瀬宰平によって牛車道が完成されるまでは、専ら仲持と呼ばれる運搬人の力に依存した。口屋から牛馬輸送で六㎞のところにある立川村渡瀬は仲持による輸送との中継所で、立川中宿が設けられ、明治前半期には吹所も建設されて、銅山経営の一拠点として繁栄した。

 鉄道建設

 別子-新居浜間の輸送問題の解決に取り組み、新居浜浦の口屋から別子本鋪まで二八㎞の牛車道を五年余りの歳月をかけて完成した広瀬宰平は、欧米視察を通じて鉱山鉄道の必要性を痛感し、明治二三年(一八九〇)から鉄道建設の準備に取りかかった。
 上部鉄道(石ヶ山丈-角石原間)は、明治二五年五月に着工、翌年一二月に竣工し、下部鉄道(惣開-端出場間)は、明治二四年五月に着工、同二六年五月に竣工した。国鉄が新居浜に開通したのは大正一〇年(一九二一)であるから、住友がこの鉄道を開いたのは、およそ三〇年も前のことである。当時のわが国の鉄道は、官営・私設あわせて延ベ二二四五kmであったが、別子鉄道は上下合わせて一万五九九三mである。
 上部鉄道は、明治四四年(一九一一)の日浦通洞の完成によって廃止されたが、下部鉄道は、昭和五一年秋の一七号台風の被害にいたるまでの長期間、別子銅山の大動脈としての役割を果たしたほか、新居浜地方の交通の核ともなって、地方の発展に大きく貢献した。昭和四年から同二九年までは、地方鉄道として一般客も乗ることができ、日常の足となり、「豆汽車」と呼ばれて親しまれた。

 選鉱所・製錬所

 別子銅山開坑以来、鉱山集落はまず旧別子に形成された。旧別子は東延・角石原を含み、その全盛期には二〇〇〇人の就業者を含む一万人以上の人口をもつ鉱山集落となった。大溶鉱炉を中心に、会社の建物・施設のほか、病院・学校・商店が並ぶ繁華街を形成していた。
 坑道が深くなるにつれて採鉱の中心は漸次下部へ移り、明治三五年(一九〇二)に海抜七四四m、延長三八三八mの第三日浦通洞が完成すると、東平に選鉱場が設置された。さらに、大正五年(一九一六)五月には旧別子銅山(上部坑)が廃止されて、採鉱本部が東平に移された。
 その前年、海抜一五六m、延長四六〇〇mに及ぶ第四通洞が完成し、また昭和二年に端出場選鉱場が完成したため、同五年には採鉱の中心は端出場へと移動した。さらに、大正一四年(一九二五)に竣工した星越選鉱場が日本最大の選鉱場に成長していくことになる(竣工当時処理能力日産六〇〇トン、昭和四〇年二〇〇〇トン)。住友専用鉄道で別子銅山から星越選鉱場に運ばれてくる鉱石は、銅の含有率一・一%の粗鉱であった。この粗鉱を浮遊選鉱法によって銅精鉱(銅含有率二一%から二二%)と硫化鉄精鉱と尾鉱とに分け、銅精鉱は、ここから北方の海上約二○㎞のところにある四阪島製錬所に運ばれた。また、磁鉄鉱を抽出した尾鉱の残渣は海岸の埋め立てに使われた。
 製錬工場については、明治一二年(一八七九)四月に別子山中の高橋に本格的な洋式製錬工場が建設されたが、同三二年(一八九九)の大水害によりそのほとんどが崩壊した。また、かつて江戸時代に粗銅を大阪に運んで精錬していたのを取り止め、明治二年(一八六九)、大阪の鰻谷にあった南蛮絞り吹きの精錬所を立川中宿に移したが(明治九年完了)、同二三年(一八九〇)には廃止され(渡瀬にある保育園がその跡地)、さらに同二六年惣開に設備を移した。
 惣開の新居浜製錬所は、明治一六年(一八八三)に設立され、同二六年立川村中宿の製錬所を、さらに三二年高橋および角石原の溶鉱作業をここに移転して、本格的な洋式製錬所とした。しかし、明治二六年に発生した煙害への対策が成功せず、同三八年(一九〇五)製錬作業の四阪島への移転によって、ついに廃止された。高さ四二mに及ぶ大煙突は、大正中期まで残っており惣開の名物となっていた。現在この跡は住友化学工業㈱愛媛工場新居浜地区構内になっている。
 明治二一年(一八八八)夏に完成(着工は明治一九年)した山根湿式製錬所もまた煙害と不能率とから同二八年五月に廃止されたが、生子山(通称煙突山)の大煙突は今も山上に立ち、工都新居浜の名物になっている。

 工業化の道

 昭和二年、住友合資会社は組織を変更し、別子鉱業所は独立して住友別子鉱山㈱となった。その披露の席上、事業地新居浜の最高責任者鷲尾勘解治は、「別子銅山も年とともに老境に入り、鉱業的生命は十数年の後には尽きんとしている。」との調査結果を発表した。この鷲尾の意見に従って、住友は鉱山にかわる新しい事業を模索しはじめ、新しい事業地に新居浜を選んだのである。
 鷲尾は二〇〇年来の地方の恩に報いるために、新居浜地方に、別子銅山なき後に備えて一大工業基地の建設を計画した。(一)築港により新居浜港を改修して大型船舶の出入りを可能にする (二)沿岸埋め立てにより工場敷地を獲得する (三)化学工業の拡張をはかる (四)機械工業を起こす (五)大都市計画を樹立する (六)市民に企業者と共存共栄の思想を涵養する等である。(表4-27)
 当時の新居浜町長白石誉二郎(明治四四年八月町長就任、市制実施後も昭和一九年五月まで市長職)は、これに対して強力に取り組み、都市計画に取り入れるなど、「地方発展の先決問題は新居浜港を改修して事業を誘致するにあり」として着々と建設を進めた(図4-22)。
 住友別子鉱山㈱の投資による新居浜大港湾修築計画は、昭和四年二月に決定され、同六月二四日出願された。第一次築港計画の内容は次のとおり。

 現在埋立中(肥料製造所北側八万坪)の続きを御代島まで延ばし、約二万四千坪埋め立てて港の西側を塞ぐ。

金子川口の電気分銅所西北部と揚地の各々一部切り取り新居橋(現在撤去)の処まで浚渫。
西原、中須賀地先で約七万四千坪とその東の入川口筋に六五間残して向新田高須地先で一一万二千坪埋立。尻無川口堀割西側より七〇間向側を御代島に向って防波堤八〇〇間突出す。
防波堤東側菊本海岸地先において約一〇万坪埋立。御代島白石鼻より一〇〇間の防波堤突出し港口を一六五間とする。御代島前で約一万坪埋立。
港内浚渫は図の如く、浚渫深千潮水面下三〇-三四尺、公有水面使用は護岸を去る五〇-二○間。
港外西側で約五万坪、その西一〇〇間幅の入川を残し西谷まで約一一万坪埋立。
 以上埋立七区合計四八万坪、なお右は大体の計画で全部一度に施行するのでなく、防波堤は迅速に着手、その他は事業の必要に応じて着工、港外西端二区は銅山尾鉱の捨場として自然に埋める。
 右設計によって竣成した暁には、新居浜が四国第一の港となり、高松、今治港湾の如きはこの港の規模に比べてきわめて小さいものとなると - しかしてもし会社だけ必要の港湾であれば、現在の防波堤を少し補足すれば十分であるが、末期に及んだ銅山経営が終末を告げた後の対策として、新居浜町全体を包括した地方全般が  利用できる港とするのである(鷲尾常務口演 - 『新居浜市史』)

 現在新居浜市の商店街の中心「昭和通り」も鳶尾構想の一つとして建設されたものである。
 この昭和通りは元来西条―新居浜の県道であった。新居浜港の築港に関し産業道路として八間幅に拡張するとの原案が削られ、六間幅になったが、増幅の工費は住友、土地代は町費によるもので、「昭和」「申考」「共存」「共栄」の橋名は鷲尾氏による。

 行政区画の変遷

 旧幕時代からの新居浜地方の村々が、明治二一年(一八八八)の市町村制に基づいて翌年次々に合併され、新居浜・金子・高津・垣生・大島・神郷・多喜浜・船木・泉川・角野・中萩・大生院の一二村になった(図4-23)。当時の戸数は、最も多い金子村でも九〇〇戸そこそこであり、新居浜村はこれより一〇〇戸余りも少なかった。それが、新居浜町(明治四一年町制実施)の場合は、昭和元年(一九二六)に、戸数一七三八戸、人口八五八七人に膨張したのは、まぎれもなく住友別子銅山事業の隆昌に起因するものであった。
 その後、新居浜大築港の工事が急速に進み、それとともに住友各社の用地買収や埋め立てが現実に進捗すると、これに対応する自治体強化の声が高まり、昭和一二年(一九三七)一一月三日、新居浜町・金子村・高津村の合併による新居浜市が誕生した。人口三万二二五四、世帯数六七四〇であった。
 昭和二七年(一九五二)、国の方針として、市町村の規模を合理化して充実した行財政能力を持つ強力な市町村を造って、住民の福祉をはかろうとする機運が盛り上がり、県は市町村に対し強力に合併を勧奨してその斡旋指導にのりだした。新居郡東部九か町村では、新居浜市に合併編入することを前提として会合を重ね強力に合併を推進した。町村によって前後はあったが、昭和三四年四月一日角野町編入によって現在の市域が完成した(表4-28)。






図4-22 新居浜の築港事業の変遷

図4-22 新居浜の築港事業の変遷


図4-23 新居浜市の昭和初期の行政区画

図4-23 新居浜市の昭和初期の行政区画


表4-28 新居浜市域の変遷

表4-28 新居浜市域の変遷