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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

四 新居浜市の都市構造

 臨海工業地帯

 工都新居浜のあけぼのは御代島築港であり、惣開の開発である。
 明治六年(一八七三)に住友汽船白水丸・廻転丸が寄港するようになると、住友では明治八年に御代島を大型船接岸要地として修築した。以後、惣開地区における工業発展と並行して、金子川口で水浅く干潮時には枯渇する状態であった惣開港の防波堤築造、浚渫などを逐年施行していき、さらに昭和初期の新居浜大築港へと展開することになる。
 明治一七年(一八八四)惣開に新居浜製錬所が新設され、この地工業化の第一歩を踏み出したのに続いて、二二年(一八八九)には西町にあった住友分店(住友事業所口屋)を惣開に移転し、併せて工作所を設けた。さらに惣開付近一帯を工場地帯とする計画のもとに、二七年隣地塩浜跡及び海面埋め立て工事を起こし三二年(一八九九)までに広大な用地を確保した。三二年八月の別子水害を機として山中の諸施設をここに移転して事業場の中心としたため、惣開には工場が増築され、住友社宅、学校(明治二八年、惣開分教場)、住友銀行新居浜支店(三〇年、のち昭和通りへ移転)、病院(三二年、住友病院、現在の住友別子病院は三代目で昭和四一年二月完成)、郵便局(明治三六年、惣開郵便局)等軒をならべ、金子川以西に工場市街地が建設された。かくして大正・昭和に入り住友諸工場は益々拡張充実され、市内には独立資本による会社工場も興っていった(図4-21参照)。
 新居浜市北西部の臨海地域は、埋め立てによる用地造成と工業拡大の歴史であった。
 星越選鉱場(大正一五年完成)から排出される多量の尾鉱は、サンドポンプによって埋め立て地に流送されることになった。尾鉱で埋め立て、その上部に赤土を搬入して上地造成することに成功したもので、まず山田・前田・王子などを埋め立て、続いて昭和初年には磯浦その他の海面の埋め立てにも利用されるようになった。
 埋め立て地は年々拡張され、昭和七年までに磯浦・惣開・御代島へのびる砂州地域へと広がった。大築港計画の進捗に伴って、さらに東部の沿岸州の発達によって遠浅の海岸であった中須賀から新須賀にかけての地先、即ち東川の川口から国領河口にかけての一帯の埋め立てが進められ、戦前すでに現在の臨海工業地帯の輪郭ができあがっていたといえよう。
 北部海岸に突出している四つの埋め立て地の基部は、昭和五年から昭和二二年の間に造成されたものである。西の御代島との間の部分は昭和七年から同二二年、新居浜港奥の住友金属鉱山別子事業所が立地している埋め立て地は昭和五年から一三年、その東の大江の埋め立て地は昭和七年から一〇年、菊本の埋め立て地は昭和一二年から一五年の間の造成である。
 昭和二八年から三四年にかけての周辺町村との合併によって市域は大幅に拡大したが、その後も毎年のように海岸の埋め立て、工業用地の拡張が進められていった。
 新居浜市全体の三三年以後の埋め立て状況は、三九年までに一三万六二三六平方m、四〇年から四九年の間に一七五万七三三一平方m、五〇年から六一年三月までに一九九万二八七四平方mの計三八八万六四四二平方mである。そのうちには東部開発の土地造成、沢津漁民団地も含まれるが、八八%は臨海工業地帯拡張によるものである(図4-29・写真4-1)。
 この埋め立て地は住友系大企業の工場敷地であり、西から住友共同電力西火力発電所、住友重機械工業愛媛製造所、住友化学工業㈱愛媛工場(新居浜)、住友金属鉱山別子事業所、住友化学工業㈱愛媛工場(大江)、同(菊本)、住友ノーガタック愛媛工場、住友共同電力東火力発電所が林立し、単一コンビナートが形成され、海岸地帯はパイプとタンクで埋めつくされ、煙突が立ちならび、これらの工場で新居浜市における製造業従事者の約三分の二をかかえている。
 この地域の南には多くの関連、下請の中小工場が立地し、東西にのびる昭和通りを挾んで旧市内一帯は住宅、商店との混在地域になっている(図4-30)。
 したがって、新居浜市における工業機能の地域分化は早くから明瞭に現れてきたもので、昭和四一年の土地利用現況によると、当時、市域一五七平方kmのうち八・三%が市街地となっている。市街地のうち二五・四%が工業地域(三・三一平方㎞)で、そのうち準工業地域はわずか六・六%で、九三・四%までが工場だけからなる工業地域である。六〇年三月末現在の都市計画区域・用途地域計画等の決定状況では、市街化区域のうち二八・四%(六・五二九平方㎞)が工業専用地域となっている(ほかに、工業地域六・〇%、準工業地域一・九%)(図4-31)。

 拡散する商業機能

 新居浜市における商業は、別子銅山の発展に伴い、上部地区に商業圏が生まれた。その後、別子銅山の製錬部門が海岸部に移り、臨海地域を中心に住友企業の発展及び関連の産業が発達するにつれて、海岸通りにも商業圏が生まれることとなり、やがて昭和通りを中心に本町商店街、昭和通り商店街が形成されるようになった。昭和三一年には商業の近代化を図るため、新居浜小学校跡地にモデル商店街を建設、同三七年に当市最初のアーケードが銀泉街に建設されるなど、ここに商業の核がつくられるに至った。また、同五一年夏から大型スーパーの進出が相次ぎ、従来からの大型店舗と地元小売店舗とにより、住・工・商の混然とした一大商業圏が形成された。
 一方、市域形成の過程の中で、自然発生的に形成された各地の商店街が、そのまま包含される形で分散的に存続し、発展してきた。さらに近年の人口、購買力の川西地区からの流出、上部・川東両地区での伸長によって、従来の小売商業の立地パターンに大きな変化が起こってきた。中心商店街の力の相対的弱体化、モータリゼーションの進展や市内道路交通の未整備等によって不振に陥りつつある商店街、他方では、新しい状況の進行とともに、人口増加地区に新しい小売機能が自然発生的に出現し、また大型店が状況変化に即応する形で立地している。中規模店や生協店舗の市街地郊外への立地が目立ち、旧市内においても大型店の立地が分散し、拡散化の傾向を示してきた。
 現在、市内商業地は二六商店街に細分され、大別すると旧市内・上部・川東の三地区に分かれている。中心商店街としての昭和通り商店街、登道・銀泉街商店街、駅前性商業機能を担う新居浜駅前商店街、地区センター機能が望まれる喜光地商店街のほか、近隣性機能に重点がおかれる周辺街区として病院前・大生院・中萩・山根・多喜浜駅前・沢津西などの商店街がある。

 中心商店街

 新居浜市の中心商店街は、臨海部の工業ゾーンと居住地を結ぶ通勤路上に位置しており、昭和通りを軸とした東西二・二kmの延長と登道を軸とした南北一・四kmの延長、そしてこの二本の主軸を斜めにクロスする銀泉街からなるほぼT字型に近い状態で展開している。
 昭和通りは昭和一二年(一九三七)から形成され、(写真4-23)、新居浜大丸のある一丁目から六丁目の元塚まで幅一一mの通りに面して一〇商店街、約三〇〇店舗(昭和五九年六月現在)が軒を並べている。昭和通りは、段差歩道が設けられているが、東西の主要な交通軸であって、バス路線にもなっており、日・祭日で五〇〇〇から七〇〇〇台、平日で六〇〇〇から九〇〇〇台にものぼる車両交通量があり、町並みを南北に裂いてしまっている。昭和通り四丁目では買い回り品の商店が多く全商店の四分の三を占め、三丁目と六丁目ではその割合は五〇%から六〇%となり、一丁目になるととくに目立った業種はなく飲食店が四分の一を占める(写真4-17参照)。
 大正から昭和初期にかけて栄えた北部の本町商店街は、昭和通りが新設されてからは商店が順次昭和通りに移り、昭和三〇年頃から静かな裏通りの町に変わった。
 昭和通りとT字型に交差する登道は、藩政期には別子銅山―新居浜の口星(浜宿)を結ぶ路線に当たり、銅鉱石の搬出や銅山労働者らの生活物資の輸送用道路であったが(写真4-24)、現在では新居浜市を代表する繁華街である。南北三二〇m、幅八mの全蓋アーケードを設け、カラー舗装による歩行者専用の明るい商店街で、サンロードのニックネームで親しまれている。アーケード街のほぼ中央部の東側に第一種大規模小売店ニチイが立地しておるほか、商店の約半数は買い回り品店である(写真4-18参照)。
 昭和通りと登道が交差する西側に位置する銀泉街は、新居浜小学校跡地に、昭和三〇年以来、計画的に建設されたものである。市民の娯楽設備を完備したモデル商店街の建設が目指され、公園、映画館の設置とともに放射同心円状の街路(延長約一七〇m、幅六m)をもつ商店街となった。緩くカーブした全蓋アーケードとカラー舗装に特色がある。ここも買い回り品店が多い。
 昭和通り、登道は道路に沿って自然発生的に形成されたため、著しく長大な距離範囲にわたっており、拠点商業地らしい高密な店舗の集積に欠ける。主な交通手段はバスとマイカーであるが、駐車場の不足、バス・ターミナルが存在しないなどの問題点を抱えている。さらに、新居浜市における第一種大規模小売店舗四店舗のうち、フジ新居浜店は中心商店街の東方を南北に走る県道・新居浜駅東須賀線に面して立地している。他の三店はいずれも中心商店街の仕組みの中に立地しているが、T字型街区の西端部に新居浜大丸、東部に南海百貨店、南部にニチイ新居浜店という配置構成で、かなり分散した立地形態である。

 喜光地商店街

 喜光地は古来交通の要所で、国道をはさんで開けた別子銅山人口、角野・泉川・中萩にまたがる地域で従来一商業圏をなしていたが、別子水禍後しばらくの間この地が東新の商圏を握っていた。喜光地商店街は、国道一一号に並行する旧国道(金毘羅街道)と別子銅山道(現新居浜-山城線)との交差地点に、T字型に、典型的な街村集落として発展し、上部地区の中心的機能を発揮してきた。別子銅山の全盛期には労働者の買い物客でにぎわっていた古い街並みの面影を残している(写真4-19参照)。
 現在も繁華街としての機能をもち、東西四五〇m、南北二五〇mの長さで、主婦の店を核として約一三〇の商店が集まり、全蓋アーケードの街区が形成されている。圏域は人口増加地区であり、交通の利便性も有するため商業機能が発揮されやすい立地にあるが、古い伝統に培われながら生成されてきた商店街だけに業種構成が偏っており、結果として消費者の日常的な生活利用との間にギャップを生じさせている。一㎞圏内(自転車圏内)に松原(生協)・ママイ(第二種)や中萩商店街・山根商店街などがあり、毎日性買い物において、最も商圏の重なりがみられる地域であるなどの問題を抱えている。
 こうした状況からみると、喜光地商店街の利用のされ方は極めて限定的であり、その買い物圏の範囲も商店街近隣の角野・泉川地区と一部船木地区に絞られているようである。ここでは、買い物客の動向は、周辺に立地してきている食料品スーパーや生協ストアで日常の買い物の用を足し、選択性の伴う買い物については市の中心地区に立地している主として大型店を利用している。

 業務地区

 東西に走る市道前田-多喜浜線を挾んで、一宮町から繁本町にかけての一帯には、新居浜市の中枢機関が集中しており、典型的な公官庁街を形成している。また、文化施設も多く建設されている。
 昭和一二年一一月の新居浜市制実施により、将来東新地方を一丸とした大新居浜市とするため、市の主要建物を順次将来の都心となるべき位置に造るべきだとして、神明町(現一宮町)繁本町付近を中心として官庁街とする方針を決定した。当時広々とした田園地帯であったこの地域に、以後次々と官公庁が建設されていった(図4-32)。
 ただショッピング機能とともにシティ・センターを形づくるはずの都市的・社会的諸施設が、中心商店街のT字型区域の南端地点から南東の方向へ約一㎞の距離を隔てて集積してしまった。このことは「都市中心商業地」と「公共業務地」とが位置的に分離し非効率的な構造となっているとの指摘がある(写真4-25・26)。




図4-29 新居浜市の公有水面埋め立て地

図4-29 新居浜市の公有水面埋め立て地


図4-30 新居浜市の主要工場の分布

図4-30 新居浜市の主要工場の分布


図4-31 新居浜市の都市機能

図4-31 新居浜市の都市機能


図4-32 新居浜市の業務機能の集中地区

図4-32 新居浜市の業務機能の集中地区