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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

八 新居浜市の鉱山集落の盛衰

 嶺北の社宅街

 昭和三四年における鉱山集落は総戸数七四四戸であった(表4-40・図4-39)。このうち東平地区の四三〇戸は昭和四三年に(別子銅山閉山四三年三月)、端出場地区の打除、鹿森は四五年にすべて撤去され、跡地には住友林業によってヒノキの植林が施されている。
 明治三五年(一九〇二)に第三通洞が完成し、東平に選鉱場が設置され、さらに大正五年(一九一六)に旧別子銅山が廃止されて、採鉱本部が東平に移されると(昭和五年まで、後端出場へ移転)、銅山峰嶺北斜面に多くの鉱山集落が形成されるようになった。それらの中には、第三坑道入口付近に建設された一本松一八五戸、柳谷六七戸、唐谷一五戸(元別子銅山記念館加重館長)のように、昭和四年ころに撤去されたものもあり、表4-40の鉱山集落の戸数にも建設当時とはかなりの変動があるが、いずれも明治三八年から四四年ころに多くの社宅が建設されていった。それらは、山の斜面に石垣を積んで階段状に建てられた長屋形式の社宅群であり、各戸の平均建坪は五坪から一四坪、ほとんどが二間から三間、タタミ数六枚から一三・五枚程度の住居であった(写真4-31)。

 繁華な山の町

 これらの鉱山集落には、飯場・職員貸屋・クラブ・浴場・派出所・人事係詰所などの附帯住宅が伴っている所が多く、一八五戸の大世帯であった一本松には、飯場一・職員貸屋三・人事係詰所一・クラブ一・浴場二・派出所一があった。中呉木には飯場一・人事係詰所一・クラブ一・浴場一・派出所一のほか散髪屋二があった。
 東平地区は、昭和四〇年頃の全盛期には四八八戸、二七〇〇人の人口をもち、採鉱事務所、病院、学校(小・中・保育所)、接待館、索道、電車駅、選鉱場、神社、寺、販売所、娯楽所などがあり、山の町といわれる程賑やかであった。




表4-40 新居浜市東平・端出場地区の鉱山集落

表4-40 新居浜市東平・端出場地区の鉱山集落


図4-39 別子銅山の集落と交通路

図4-39 別子銅山の集落と交通路