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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

一 新居浜祭りと一宮神社

 太鼓台の歴史

 東予地方東部の秋祭りは、新居浜祭りと西条祭りに代表される。このうち、西条の伊曽乃神社の祭礼は華麗な楽車で知られるが、新居浜祭りは太鼓台による太鼓祭りとして知られている。太鼓祭りの見物客は六一年は約三〇万人とみられ、新居浜市における最大の観光行事となっている(表4-41)。
 秋祭りに太鼓台が登場する地域は、新居浜市以東の宇摩郡十居町、伊予三島市から川之江市に及び、さらに香川県に至っている。また、西条市東部の飯積神社の秋祭りも太鼓台のかき比べで知られる。新居浜市西部の大生院地区は飯積神社の氏子で、その祭礼には二台の太鼓台が参加している。
 伊曽乃神社の祭礼に登場する「みこし」は御輿楽車で、太鼓台と似ているが天幕がなく、木製の巨大な車輪をそなえており、下段の装飾も太鼓台とは異なっている。同様の御輿楽車は東予市三津屋地区でも、昭和四〇年代のはじめころまではみられたが、その後老朽化して姿を消した。
 太鼓台の起源については、江戸時代初期あるいは寛永七年(一六三〇)とする説があり、新居浜観光協会発行のパンフレットにも次のように記されている。

寛永年間に京都祇園神社の鉾を真似て「台尻」を作り神社に奉納したことから、領内の祭りは次第に盛んになり、新居浜地方では「青竜・朱雀・白虎・玄武」の四神旗を四本柱として組合せ、中央に神楽太鼓を取りつけ、装飾を施して神輿渡御のお伴をし、これを神輿太鼓と呼んだ(後略)。

新居浜地方の秋祭りも、成立当初は「わら神輿」や「樽神輿」のような簡単な神輿をかついで氏神に奉納していたものであった。神輿のうしろには神職や氏子総代がお供をし、楽車や神輿太鼓、鉾・鳥毛・幟などの行列が供奉するようになった。この神輿太鼓が現在の太鼓台の元であるが、祭礼の出し物としては楽車などより遅かった。
 江戸時代中期の新居浜浦庄屋白石家文書には、正徳三年(一七一三)に台車と船が奉納され、これが新居浜地方の祭礼における最初の出し物であるとしている。台車は台尻、楽車とも書き、西条祭りの出し物として発展した。また船は船楽車のことで、船形の上に楽車のような楼閣を構えたものである。
 正徳三年は、別子銅山が開坑した元禄四年(一六九一)から二二年後で、また宝永年間(一七〇四~一一)には民間に石鎚講が普及しはじめた時代である。このように、江戸時代中期は庶民の祭礼や信仰への参加が盛んになった時期であるが、太鼓台の原型となった神輿太鼓が奉納されるようになったのは、江戸時代後期のことである。
 文政九年(一八二六)に、新居郡金子村(現新居浜市)の一宮明神(現一宮神社)から、西条の伊曽乃神社に対して出された文書がある。

御尋ニ付御答
此度北浜ニ於テ神輿太鼓出来ニ付(中略)、当方檀尻両共又ハ近年ニ至リ神輿太鼓卜申モノ出来ノ節ハ、神前ヘ初テ台参シ、清祓修行ヲ致呉候様頼ミ来リ、清祓相勤メ、夫ヨリ行幸之節賑ヒニ相用候事ニ御座候(後略)。

これにより、文化・文政の頃から神輿太鼓が奉納されるようになったことがわかる。こうした風潮に対して西条藩は、「神輿太鼓ハ大造リナル織物等相用ヒ有之趣、甚ダ以テ心得違」として神輿太鼓の新造を戒めた。しかし各部落は壮大華麗な神輿太鼓の作製を競い合ったという。例えば、金子村江口の片上治良衛門が、神輿太鼓の太鼓幕に日光東照宮の下絵を描いたことから、幕に縫金糸で四門獅子縫を施すようになり、今日の太鼓台の装飾に発展した。
 神輿太鼓は、緋羅紗の飾蒲団、金糸刺繍の蒲団じめ、黒ビロードのくくり、緋縮緬の天幕などで飾られ、中で大太鼓を打ち鳴らした。嘉永二年(一八四九)に新居浜浦組頭善右衛門ら三人が記した文書には、東町家躰・東町神輿太鼓・西町家躰・西原家躰・東須賀神輿太鼓(二台)、中須賀御船・中須賀神輿太鼓の、それぞれの装飾のようすが詳細に記録されている。家躰は屋台楽車、御船は御船楽車のことである。御船はかつては西条祭りでも奉納されていたが、明治中期にすたれて姿を消した。現在も御船がみられるのは、伊予三島市の船太鼓や川之江市の関船で、新居浜市では大島の八幡神社の祭礼で用いられている。
 新居浜地方では天保年間(一八三〇~一八四四)になると、祭礼の出し物として御輿太鼓と楽車が勢揃いするようになった。また、天保一三年(一八四二)西条藩において公刊された『西条誌』には、一宮神社の船御幸のようすが描かれている。同書によると、当時の楽車・神輿太鼓の数は新居浜浦と金子村を合わせて一七台であった。新居浜地方ではその後楽車が衰退して姿を消し、神輿太鼓が明治以降に太鼓台として祭礼の中心となっていった。
 一宮神社における神輿は、元は祭礼の初日に地元の金子村、翌日に北の新居浜浦に行幸するならわしであった。しかし、享保一七年(一七三二)の飢饉の際、新居浜浦の氏子から、毎年新居浜浦を後行幸としているのは神慮に違う、という発議が出され、この年より両村で行幸の先後を隔年とすることにした。そして、新居浜浦が先行幸の年に、大江海岸から御輿・楽車・御輿太鼓を船で中須賀海岸に渡すという慣例が生じた。これが現在の船御幸のはじめである。船御幸は大正二年(一九一三)県の特殊神事に認定され、大江海岸に数万人の見物客が訪れる行事となっている(写4-32)。

 喧嘩まつり

 神輿太鼓が登場すると、祭礼の行列が混乱し喧嘩口論が祭りのつきものとなってきた。天保一〇年(一八三九)には、東町と東須賀の神輿太鼓が激しく喧嘩し、一〇余人が藩吏に捕えられ、二人が入牢している。西条藩は両部落の出し物を翌天保一一年から永代禁止にしたが、三年後に特赦されて運行が再開した。
 また、大江と東須賀は共に漁村で、祭りの喧嘩が漁場にまで持ち込まれたため、両部落の幹部が協議して太鼓台を合同した。大江太鼓台は明治初年の祭礼で久保田河原に十数台の太鼓台が集結した折、江口太鼓台と喧嘩して壊され、翌年作り直している。
 当時の太鼓台の喧嘩は、太鼓台の横で鉢合わせするもので、飾り物をつけたままぶつけ合った。しかし、太平洋戦争中にかき夫が不足したため、太鼓台に車を取り付けて運行するようになると、太鼓台の正面から突っ込むようになった。
 太鼓台の喧嘩は戦後も続いておこり、喧嘩による死傷者が続出した。昭和二八年には一宮神社の祭礼で一人死亡、負傷者数十名に及び、翌二九年には登道で東町・大江の両太鼓台が、西町・西原の両太鼓台に突っ込んだため解体を命ぜられた。それにより警官隊が元塚の全日機工機具店付近で解体しようとしたところ、東町太鼓台のかき夫と乱闘になり十数名が負傷した。
 川東地区でも、二九年に垣生町恵比須座横広場で、本郷と町の太鼓台が喧嘩し、一人が死亡した。翌三〇年にも神郷町松神子と田ノ上の太鼓台の喧嘩により、重軽傷一四名、家屋の破壊五戸の被害がでた。
 太鼓台の喧嘩はその後も毎年のように繰り返され、新居浜の太鼓祭りは喧嘩祭りともいわれたが、平和運行への努力もねばり強く進められてきた。しかし、最近でも五九年には三年ぶりで八台の太鼓台の統一行動が行われた一宮神社で、江口と久保田の太鼓台が衝突するなどして、八名の重軽傷者が出た。そのため六〇年には川西地区で三台の太鼓台が運行を自粛し、五台で行われた。

 現代の太鼓祭りと一宮神社

 新居浜市の秋祭りは、川西・川東・上部の三地区にわかれて行われている(図4-40)。川西地区は、国領川以西の旧新居浜町と旧金子村(新須賀・庄内・金子)の地域である。川東地区は国領川以東で、旧高津村・旧垣生村・旧神郷村・旧多喜浜村・旧大島村の地域、上部地区は旧船木村・旧泉川町・旧角野町・旧中萩町・旧大生院村の地域である。
 三地区の祭礼日は、かつては川西地区の一〇月一七・一八・一九日をはさんで、その前に川東地区、後に上部地区が三日間ずつ行っていた。この間、新生活運動の高揚などにより、昭和四一年から現行の一六・一七・一八日に統一された。
 市内の太鼓台は三二台(昭和六一年秋現在)であるが、上部地区のうち大生院の岸影と本郷の太鼓台は、西条市の飯積神社の祭礼に参加するため、新居浜祭りの太鼓台は三〇台である。そのうち、川西地区は八台で、川東地区は一三台、上部地区は九台である。
 六一年の太鼓祭りは、四六年の合同寄せ以来一五年ぶりの合同寄せが新居浜駅前で行われた。合同寄せは、三地区のうち二地区以上が合同して行動するもので、この年は上部・川西両地区の太鼓台一七台がかき比べを演じた。この合同寄せは市制五〇周年前年記念として行われたもので、六二年には国領川河川敷広場で五〇周年記念の統一寄せが行われた。
 三日間の太鼓台の運行は地区に応じて特色があるが、中でも二年に一度行われる川西地区の船御幸は圧巻である。また、上部地区の内宮神社では、一六日午前五時からの宮出しに三台の太鼓台が参加し、神社の石段をかき上げて観衆の拍手を浴びる。川東地区最東端の阿島・東浜・白浜では、三台の太鼓台が豆電球や照明などで装飾し、午後九時ころまで町内を練り歩く夜太鼓が人気を集めている。山根グランドでも、子供太鼓一台を含む四台が参加して夜太鼓が行われる(表4-42)。
 川西地区の宮入りが行われる一宮神社は、創建以来大山積神を祭神とし、他に和銅二年(七〇九)大三島より奉遷した雷神と高寵神を祀っている。新居郡の一ノ宮として崇敬され、嵯峨天皇の勅願所として正一位一宮大明神の額を賜った (写真4-33)。
 また一宮神社は古くより伊予の豪族越智氏・河野氏の崇敬を受け、社殿等が寄進されたが、天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の四国征伐の兵火で焼失した。豊臣側の主力であった毛利家は、その後、元和六年(一六二〇)に松山の加藤嘉明と共同で社殿を建立し、長州萩にも分霊を迎えて奉斎したという。
 現在の本殿は、宝永元年(一七〇四)西条藩主松平頼純が寄進し、翌年完成したものである。また、一五四〇坪に及ぶ境内には樟樹の老木が群生し、最大のものは目通り九・四m、根周り一四・九mもあり、小女郎狸の伝説を伝えている。また、目通り一m以上のものが五三本あり、市街地の中に大きな緑地を形成している。この樟樹の群落は、昭和二三年県指定、二六年には国指定の天然記念物となった。この樟樹群の中の一番樟には、ぶんぶく茶釜で知られる小女郎狸の伝説がある。






表4-41 新居浜市の観光地別入り込み客

表4-41 新居浜市の観光地別入り込み客


図4-40 新居浜市の太鼓台の分布

図4-40 新居浜市の太鼓台の分布


表4-42 新居浜太鼓祭りの太鼓台運行日程

表4-42 新居浜太鼓祭りの太鼓台運行日程