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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

一 太政官道と金毘羅街道・遍路道

 太政官道

 延喜式(九二七年)巻二八兵部省の伊予国駅伝馬の項をみると六駅で、大岡・山背・近井・新居・周敷・越智各五疋とある。これらの駅家を結び都に至る太政官道は、明確な地図や史跡がなく、未だ推定の所が多い。先学の研究をみると、大正一三年の景浦稚桃の『伊予史精義』、昭和一〇年の長山源雄の「王朝時代に於ける伊予官道」『伊予史談』八一号がある。戦後は昭和五三年の日野尚志の「南海道の駅路」『歴史地理学紀要』二〇(古今書院)、同年羽山久男の『古代日本の交通路』Ⅲ(藤岡謙二郎篇)第五節伊予国(大明堂)、昭和五九年の池内長良の『愛媛県史古代Ⅱ中世』の「駅路と交通」などがある。

 大岡駅

 大岡駅は現在の川之江市妻鳥町松木に比定されている。近くに松木公民館や住吉古墳がある。石川士郎の研究によれば、讃岐との古い官道は山田井を通っており、余木の海岸を通る道は新しい。松木の駅家の東に馬木(牧場)というホノギがあり、条里の道を東に進むと土佐阿波街道に直角に当たる所に大道の小字がある(図5-20)。

 近井駅

 大岡駅と近井駅の間は、地元の石川士郎・三木筆太郎などの研究者は、国道一一号やJR四国の線路よりも南方の山麓の高速道路に平行して通っていたと解している。近井駅は入野の長命寺付近か、井守神社の南の粟谷部落付近と推定している。JR伊予土居駅の南のホノギ松木は馬継とは考えていない。誓いの松(いざり松)の場所や旧道は太改官道ではなく、近世からの金比羅街道(讃岐道)と解している。

 新居駅

 近井駅と新居駅の間の太政官道は、国道一一号に平行して南の山麓を通っている。関川小学校の前では、旧道が南を、新道が北を、ほぼ東西に通っており、小学校の北を国道一一号が走っている。関川を渡る橋では国道一一号は熊谷大橋、金比羅街道は熊谷橋を通るに対して、昔の太政官道は大段川橋を通っていた。内ノ川集落から関川を渡り、井上から郡境の関ノ戸(今の道より南方約一〇〇m)を経て、舟木の池田の大池の南を通った。国領大橋、上泉の所で、国道一一号を趣え、喜光寺の北から中村の松木に至っている。
 新居駅の位置を地元の研究家合田正良は、中村の松木と比定している。松木橋の西に東松木西松木のホノギがあり、現在の中村一丁目3の藤田茂作邸であると、実地調査で案内された。
 新居駅と周敷駅の間は、国道一一号の南を平行して、山麓線を通り、式内社の伊曽乃神社を経て、小松の北川の法安寺(飛鳥時代の国指定)遺跡付近を経由し、中山川を渡って周敷駅に至ったと推定されている。

 山背駅

 山背駅は今の新宮村の馬立と一般に比定されている。馬立の地名は駅馬に通ずる。その位置を今の役場や熊野神社や公民館のある河岸段丘上と考える人と、石川政弘宅の本陣と推定する人とがある。延喜式の兵部省には伊予国駅馬として、山背を入れて六駅ある。『日本後記』の延暦一六年(七九七)一月の項に「廃<二>阿波国駅家□、伊予国十一、土佐国十二<一>、新置<二>土佐吾橋・丹治川二駅<一>」とある。これをみると山背駅の設置は、延暦一六年より前か後か同年でないことになる。この立川の街道を伊予では土佐街道と称し、土佐では北山越という。
 馬立本陣跡について案内板は次の如く書いてある。

「寛永十二年(一六三五)参勤交代の制度がしかれて以来、土佐の藩主山内侯は海路江戸ヘ往復していた。しかし天候異変が多く、危険もともなうところから、享保三年(一七一三)六代藩主豊隆公の時から、いわゆる北山越に改めたという。土佐の本山・立川を経た大名行列は、ここ馬立村の庄屋石川家の舘を本陣と定め、馬立本陣と呼んだ。以来文久二年(一八六二)まで利用された。明治維新後は広い屋敷の維持が困難となり、御殿の建物は土居町の山中邸に、正門は明治二三年(一八九〇)金田町円徳寺の山門として移築された。明治三〇年には火災のため全焼し、すべてを失った。今、昔を偲ばせるものは屋敷の石垣だけである。昭和五二年 石川政弘(明治三四年生-)記す。」とある。

 以上の如く案内板は太政官道には言及していない。五万分の一地形図の旧版には、昔を偲ばせる新立村時代の役場の記号が長瀬にある(図5-21)。大字馬立の堂成から総野-下附-鐘突-腹庖丁-笠取峠-茶屋跡-水無峠―杖立地蔵―笹ヶ峠(海抜一〇一五m)を経て、土佐の立川御殿に至る街道のホノギは急傾斜の道を示している。

笹ヶ峠は林道が昭和四二年三月に、西の遍地床の谷から燧道(長さ三八三m)が貫通した。車が通るので今では峠を歩く人は山林所有者か特志な探勝者に過ぎない。大正一三年に土讃線の鉄道が開通するまでは、土佐と瀬戸内を季節の漁師の集団がここを移動した。藤井重雄や坂東梅生は終戦間もない頃や燧道の開通前の街道を踏査し、撮影している。

 金毘羅街道と遍路道

 周桑以東の金毘羅街道は、表5-26の如く、今の国道一一号にほぼ平行した旧街道に残る「金毘羅大門より○里」の道標により確認できる。ほとんどが江戸後期から明治期に立てられている。四国遍路の道は、札所を回るので旧国道から枝分かれしており、分かれ道にはたいてい道標が立っている。周桑以東で札所は、小松町に60番横峰寺・61番香園寺・62番宝珠寺、西条市に63番吉祥寺・64番前神寺、川之江市に65番三角寺の六か寺がある。昭和五八年一〇月発行の「四国遍路の道標」愛媛の文化二二号(村上節太郎調査)によれば、周桑以東の東予に、遍路道の道標が二〇〇本もある。三角寺から奥の院仙竜寺の間六〇丁の参道には、一丁毎に丁石が並んでいた。いまは一部散逸している。



図5-20 大岡駅のあった松木

図5-20 大岡駅のあった松木


図5-21 山背駅の位置を示す馬立(土佐街道)

図5-21 山背駅の位置を示す馬立(土佐街道)


表5-26 伊予路の金毘羅大門よりの里程道標

表5-26 伊予路の金毘羅大門よりの里程道標