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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

二 道路交通の発達

 国道一一号の改修工事

 東予の幹線である一般国道一一号は、明治一八年(一八八五)の勅令により三一号国道と指定され、続いて大正九年(一九二〇)旧道路法に基づく政令により二四号国道として認定され、その後昭和二四年新道路法に基づく政令により一級国道一一号線となった。さらに四〇年の道路法改正により一般国道一一号となり現在に至っている。
 明治時代の三一号国道は川之江市内では東町・塩谷町・農人町を経て、新町上で西に折れ、金生川を橘橋で渡り南に折れ、鉄砲町から祇園山、井地山麓を通り、大峠を越えて地神鼻を経て井地に通じていた。この約二kmの区間には大峠があり、カーブが多く道幅も狭く、橋は古くなって腐朽し、危険な状態であったため交通に支障をきたしていた。そこで、明治三九年(一九〇六)に道路を改修し、橋を架け替えるという当時としては大工事を始め、同四一年に完成した(図5-35参照)。
 大正一四年(一九二五)には大江橋から丸住製紙(当時の丸井工場)の間を一期工事として、続いて丸住製紙の西側を辻ノ町(森実スレート工業所付近)までを改修した。この地区は道路も宅地も低く、また側溝も小さく水はけが悪くて、少しの大雨で通行できないくらいに浸水をみていたのである。
 三度目の大工事は、川之江の市街地の西側をほぼ南北に走る現国道一一号を流れていた金生川の改修工事である。伊予三島・川之江地方最大の河川である金生川(流路延長三万五八一四m、流域面積五八・六平方km)は、昔から、大雨が降れば必ず氾濫して川之江市街に水害をもたらしてきた。殊に、大正元年、昭和一二・一三年の水害はひどく、堤防の決壊、家屋浸水が続いた。この原因は上流より下流の方が川幅が狭いこと、中流部以下で多量の砂礫を堆積し河川は著しく狭められていること、急勾配であること、両岸の石積が古く壊れやすくなっていたことなどであった。この改修工事は、昭和一四年に県営事業として始められ、用地買収は町の世話で、翌一五年に完了し、工事は一五年七月に着手された。工事の中心は、橘ケ岡と瓢箪山の中間鞍部を掘り割り、その土を運搬して新しい堤防を築くことであった。着工後一年間は馬やトロッコで順調に工事は進んだが、第二次世界大戦の拡大とともに資材や人手不足で工事は非常に遅れ、ついには各種報国隊、勤労奉仕の応援にたよった。終戦時の工事進捗率は約九〇%であったので、県は完成に力を入れ二二年に完成させた。この金生川改修の主目的は水害防止であったが、旧河川敷を埋め立てて国道一一号線をつけ替え、国道開通によって港通り商店街ができ、河口港湾の浚渫修築がなされた。また、改修なった金生川には昭和二八年に新川之江橋が架橋され、井地山燧道が掘られた。
 その後、二九年にそれまでの国道一一号にかわる道路が井地から伊予三島市の八綱に向けて工事が開始され、三二年に三島地区が完成し、三七年には土居町まで開通し、現在におよんでいる。
 現在の国道一一号は新居浜市内と伊予三島・川之江両市間(一日交通量約二・五万台)が最も渋滞の著しい区間となっている。そこで、建設省は、交通渋滞を解消するほか、高速道路とのつながり、都市街路と一体となる結びつきなどをねらいとしてバイパスを計画した。川之江市塩谷から伊予三島市中之庄までの約一〇・一㎞であるが、六〇年三月の高速道路の開通に合わせて両市境の約一・五kmが暫定上下一車線で開通した(図5-22参照)。

 国道一九二号と境目トンネル

 現在の国道一九二号は、県道川之江池田線(明治三二年ほぼ完成、大正九年認定)と同じく県道徳島池田線が母体となり、昭和二八年、政令により二級国道西条徳島線(路線番号一九二号)となり、さらに四〇年、政令により一般国道一九二号となった。
 この国道は川之江市内の上分町から金田町・川之江町付近ではこれまでに四度の路線変更をみた。特に、上分は金生川の谷口に立地し、土佐街道と阿波街道の分岐する交通の要衝として栄えてきた集落であり、集落形成に道路の果たした役目は大きかった。昭和初期までは金沢橋西の四ッ辻を中心として上手の土手城下と下手の本町・中本町・祇園町・雷明と日用雑貨品店・旅館・飲食店などがたちならぶ街村を形成していた。その後、旧阿波街道の西側に城下から北へ中新町・新町・北新町・花園へと新しい道路沿いに街村の形成をみた。そして、現国道一九二号が、さらに西側にほぼ直線的に完成し、市役所西を通り、栄橋を経て川之江町で国道一一号と合流している。この国道も現代の陸上交通の大型化と交通量の増加に伴い、建設省では昭和四八年度からバイパス工事に着手し、川之江町井地の国道一一号から上分町城下に至る二九四〇mを五三年四月に開通させた。
 一方、金田町内および川滝町内においても四二年度から四八年度にかけての一次改築で幅員拡張、歩道の新設、路線の直線化による一部変更などの改良工事が施され、国道一九二号は面目を一新した。特に、この国道唯一の峠(標高三八〇m)の境目峠には、四七年一二月に境目トンネル(八五五m)が完成し、冬場の積雪、凍結による通行規制はほとんど解消した。この区間一六四五mは取付道やトンネルの建設により従来より路線の短縮が大幅になされ、川之江・池田間の所要時間の短縮に大きく貢献した。この境目峠は魚や葉タバコが徳島へ、薪炭や手すき和紙原料の楮が愛媛へと行き交った阿波街道の要衝で、明治時代には「御宿」も四軒あり、造り酒屋も存在していたという。

 国鉄バス川池線と新宮線

 国鉄の自動車経営は、昭和四年鉄道大臣の諮問機関として設けられた自動車交通網調査委員会の答申にもとづいて、鉄道輸送の先行、代行、短絡、培養という四原則の使命をもって出発したもので、同五年岡多線(岡崎・多治見間)において創業されている。四国では、昭和九年三月に予土線松山・久万間を営業したのが最初である。これに遅れること一週間の三月三一日に川池線(川之江・池田間)、が開業し、翌一〇年には大栃線(土佐山田・大栃間)、予土線(久万・佐川間)、一一年には西讃線(観音寺・琴平間)、南予線(近水・魚成橋間)、西讃線(豊浜・財田大野間)、川池線(伊予三島・上分間)が路線を開いている。川池線を中心とする宇摩地方の国鉄バスの歩みは表5-27に示した。

 四国初の高速道路
 
 四国縦貫・横断自動車道は「国土開発幹線自動車道建設法」並びに「高速自動車国道法」に基づき、四国山脈によって分断されている四国四県の結びつきを強める幹線道路として計画されたもので、本州四国連絡橋と一体となって四国地方を開発する原動力となる高速道路である。この高速道路の建設計画は、徳島市から大洲市に至る延長二二四㎞の四国縦貫自動車道と、高松市から須崎市に至る延長約一五四㎞の四国横断自動車道とからなり、川之江市において互いに交差連結する「夢のXライン」である。この基本計画は、昭和四八年秋までに全区間が決定されており、高松-川之江間五八km、川之江-南国間五一㎞、徳島-脇町間四一・五㎞、および川之江―川内間六七・九㎞については、すでに整備計画が決定され、現在日本道路公団が調査並びに建設を進めている。
 昭和六〇年三月二七日に四国で初めての高速道路として供用開始をみた四国縦貫自動車道の三島川之江-土居間一一㎞は、四五年に基本計画が発表され、五五年の起工式後、順調に工事を進め、六〇年三月に完成をみた。この区間は中央構造線に沿って、法皇山脈のすそ野をほぼ東西に走る。途中、一七本の小河川に一五の橋をかけ、特に中曽根町の的之尾トンネル(二一三・五m)は、断層線の中を下り線が、近接部分を上り線が走るためカッターローダー(掘削機)で慎重に掘り進む難工事となり三年がかりで貫通させた(表5-28・写真5-10)。開通後の利用状況は、わずか一一kmとはいえ、一年間で一〇一万九三五三台に達した。内訳は上り四九万二二〇〇台、下り五二万七一五三台で一日平均約二八〇〇台となり、公団側の見込み約三〇〇〇台をやや下回った程度であった。風雨による速度制限は五八回なされたが、日本三大地方風の一つ「やまじ風」による通行止めは一度もなかった。
 なお、六三年春の本四架橋、瀬戸大橋(児島・坂出ルート)の完成に合わせて三島川之江IC-善通寺間三八・六㎞の開通をみた。川之江市内では、川之江西JCTを中心に早苗出トンネル(四一〇m)や金生川橋(三六二m)、表橋(三四一・五m)、通谷橋(一六九・二m)、新池橋(一〇九m)、鴻鶴池橋(七五・三m)および上分パーキングエリアの建設がなされた(六二年一二月開通)。また、大豊-南国間二一kmも六二年一〇月に開通した。県内では、縦貫道の土居-西条間二二kmと横断道の川之江-大豊間二九㎞で新たに用地買収に取りかかりこのうち土居-新居浜間一四・三kmでは買収も終わり、六三年度早々に着工の予定である。
 路線は南部の赤石山系の山麓沿いの中央構造線に沿って計画されており、途中、入野PA、新居浜IC、西条ICと一四の橋、四つのトンネルが予定されている。さらに、西条-川内間三七・一㎞の路線発表も六〇年三月になされ、七〇年代初めの開通をめざしている。








図5-35 明治39年測図の川之江付近の5万分1地形図

図5-35 明治39年測図の川之江付近の5万分1地形図


図5-22 伊予三島・川之江地方の主要道路(国道・県道)

図5-22 伊予三島・川之江地方の主要道路(国道・県道)


表5-27 宇摩地方の国鉄バスの歩み

表5-27 宇摩地方の国鉄バスの歩み


表5-28 四国縦貫自動車道 三島・川之江―土居間の橋梁

表5-28 四国縦貫自動車道 三島・川之江―土居間の橋梁