データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

三 谷口集落上分

 谷口集落の成立

 上分は川之江市を潤す金生川の谷口に立地し、川之江市域では川之江に次ぐ商業集落である。この地点は土佐街道と阿波街道の分岐する交通の要衝であり、近世以降背後の山間部の物資の集散地として栄えてきた集落であり、典型的な谷口集落といえる。
 天保一三年の『西条誌』には、当時の上分の状況が次のように記載されている。

「……川あり上分川と言う。此の川に土佐と阿波とへの道二筋あり。南へ向き金川村の方へ入れば土佐路也。川を渡り東へ行けば阿波路也。阿波境まで二里余、上佐境まで五里余あり。阿波の三好郡の内十ヶ村余、土佐の本山郷の内十ヶ村程の者、楮皮、櫨実を始め色々の物産を出すには、必ず当所を経、三島・川之江等の町にひさぐ。近来当所に商家多く出来、かの物産を買取る内に、土地自然と繁昌し屋を並べて街衢の如し。留まるもの少なからず見ゆ。土佐侯江戸往来の路すじあり………」

 当時の上分は、土佐本山郷と阿波三好郡を後背地に控えた物資の集散地として大いに賑い、街村が形成されていたことがよくわかる。

 明治から昭和初期の上分
 
 明治年間の上分の商工業については、昭和二九年出版された『上分町史』に詳しい。明治八年(一八七五)の戸数は三六八戸、うち農業一九一戸、商業五九戸、工業一二戸、雑業一〇二戸、医者一戸、僧侶三戸となっている。明治四四年に(一九一一)には、商業六〇戸の内訳が、雑貨商五戸、呉服商四戸、穀物商一〇戸、履物商三戸、荒物乾物商二戸、小売商三四戸と区分されている。工業は、明治中期には阿波葉を原料とする刻み煙草の製造が盛んであり、動力は水車が利用された。また製紙業は明治初期より見られたが、明治四四年(一九一一)には五二戸も数えた。製紙業のなかには工場制手工業に移行していたものもあるが、多くは問屋に支配された農家が副業として紙漉する問屋制家内工業の形態をとっていた。明治年間の商工業は、土佐・阿波・嶺南地区などの山間部の物資-葉たばこ、楮皮などの集積地としての利点を生かしたものであったといえる。
 大正元年(一九一二)町制を実施した上分町は、交通路の整備と共に、山間部の物資の集散地としての機能が衰退していくが、昭和の初期には、まだ往時の繁栄の名残がみられた。昭和初期の上分の市街地の範囲と、街道ぞいの商店街を復元してみると、街村の中心地は四つ辻であり、街はこれより上手の土手城下と、下手の本町に分かれていた。土手城下の上手は片側町であり、金生川ぞいには馬のつなぎ場があった。そこには近在の農家が副業として営む馬方が、嶺南地区から馬の背によって、楮皮・葉たばこ・木炭・材木などを運搬してきた。一方、上分からは、日用雑貨品、食料、肥料などが運搬されていった。街道ぞいには日用雑貨品店が多いが、その顧客には山間部の住民が多かった。また旅館、飲食店が多いのも物資の集散地である街村の特色をよく反映している(図5-38)。本町の紙問屋は薦田篤平宅であり、幕末以来の紙問屋であり、問屋制家内工業の親方であった。年末の一二月一五日より大晦日までは、四つ辻から土手城下にかけて上分市が立った。市の期間は各地から露天商人が集まってきて、金物、袋物、陶器、乾物、正月用品などを商った。顧客は近在の住民や嶺南の人々であったが、嶺南の住民は往路には山間部の物資を運搬してきて、その販売代金で日用雑貨品を買って帰ったという。また四つ辻には魚市が立ち、七~八人の魚商人が近在・近郷や遠くは嶺南・阿波の人々を相手に魚を商った。魚市は堀切峠の開通する前年の昭和一〇年に消滅し、年末に開かれた上分市も第二次大戦後は開かれなくなった。

 上分の現況

 明治年間には、川之江・三島をもしのいだといわれる上分も、交通の発達と共に山間部の物資の集散地としての機能を低下させ、次第に衰退してくる。明治一七年(一八八四)の最盛期には商業を営むものは一二〇戸もあり、旧街道沿いの本町・土手城下には商家が軒を連ねていたというが、現在旧街道沿いで商業を営打ものは、わずかに二二戸にすぎず、町並の大部分は住宅地にと変貌している。
 現在の上分の商業の中心地は新町筋であるが、この道路が開通したのは大正一五年(一九二六)である。道路開通当初は商店はほとんど見られなかったが、第二次大戦後、交通の便にひかれて次第に市街地の形成を見る。その中心地新町には日用雑貨品や食料品店などを中心に商店が連続し、商店街の形態をととのえている(図5-39)。さらに西方には旧国道一九二号が通じているが、この道路は昭和四五年ころに、上分町で屈曲していた道路を直線化するものとして建設されたものである。最も西方の現在の国道一九二号は、昭和五三年川之江市の井地から国道バイパスとして開通したものである。これら新旧の国道沿いにも、ドライブイン、ガソリンスタンド、運送店などが立地し、次第に市街化が進んでいる。上分は新しい道路が西方に通じるにつれて集落の重心は西方に移動し、それに伴って商店街も西方へと移動しているのである。





図5-38 昭和初期の上分町の構成

図5-38 昭和初期の上分町の構成


図5-39 川之江市上分の店舗構成

図5-39 川之江市上分の店舗構成