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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

四 扇状地の集落立地

 扇状地と集落立地
 
 伊予三島市の地形は、海岸ぞいに帯状に平地がひろがり、その背後に険しい法皇山脈がそばだっている。法皇山脈の北側斜面は切りたった急崖が連続しているが、ここは中央構造線に沿う断層崖の地形として有名である。断層崖を流れ下る河川は急流でもって平野に流入するので、谷口を頂点に多量の砂礫を堆積し、それらが互いに重なり合い、見事な複合扇状地の地形を展開している。西から数えると、西寒川・東寒川・具定・中之庄・中曽根の各集落は、いずれも扇状地上に立地している。
 扇状地は砂礫が厚く堆積しているので、地下水位が深く、飲料水の取得が困難である。したがって集落は谷川の水が伏流する前の扇頂か、伏流水の湧出する扇端に立地するのが通例である。しかし伊予三島市の扇状地上の集落立地をみると、このような図式はあてはまらず、集落は扇状地の全面に立地しているのである。しかしその集落立地点を詳細に観察してみると、それらは扇頂から流れ下る水路にそって列状に並んでいることが認められる。それはこれらの扇状地上では、地下水位が深いために、井戸の掘さくが困難であったので、古くから流水飲用の慣習があり、それが集落をして水路に沿って立地させた最大の要因である。

 中之庄の集落

 中之庄は大谷川の形成する扇状地上に立地する集落である。大谷川の谷口にあたる扇頂は標高一〇〇m、扇端は海に達し、その間の水平距離は一五〇〇mであるから、勾配一五分の一の急傾斜の扇状地である。大谷川はこの扇状地を多少侵食して流れるところから、地下水位は深く、扇央では三〇~四〇mにも達した。中之庄は水不足に悩む宇摩平野のなかでも特に水不足に悩まされた集落で「中之庄のような水に不便な村へは嫁にやれぬ、夏の畑田はお月さんでも焼ける」といわれたほどである。夏季に干魃のおこるたびに、大谷川の源に聳える翠波峰頂上に鎮座する翠波大権現に、翠波念仏踊を奉納しては雨乞いをくり返したという。
 中之庄の灌漑水は大谷川の谷水、荒神森の湧水、頭王池に求めたが、水掛りごとに灌漑領域が異なっており、水利慣行も異なっていた。大谷川の谷水の灌漑する水田面積は、昭和八年では二三町七反八畝一九歩であり、耕作者は大は一町一反歩から、小は一畝余に至る五五名であった。それぞれの水田には水のかかる歩合があり、基準を一合水とするならば、歩合の少ない水田は二勺(基準の一〇分の二)、多い水田は二合(基準の二倍)というように差異があった。これは水田の所有権とは別に水利権が売買されたからであり、おのずと水利権の強い水田と弱い水田ができたことによる。水田は配水順によっていくつかの組に分かれ、組によって配水時間が決まっていた。配水の時間は三日で一順回し、一日は九回に細分されていた(表5-36)。
 配水時間は明治年間には、日時計又は抹香時計によって計時された。日時計は花崗岩の台石に目盛を刻み、中央に建てた棒の影の長さによって時刻を計ったものである。当時の日時計は扇頂の山田薬師の境内に保存されている(写真5-17)。曇天や雨天時には日時計は役に立たなかったので、抹香時計が利用された。抹香時計は紐状にした木くずを燃焼させ、その燃焼部分の長さによって時間を計るものである。明治末年ころからは時計が計時用に使用されるようになる。各水田には配水時間と配水量が決まっていたので、各耕作者は時間帯ごとに灌漑の順番のきた水田に灌漑していったのである。耕作者に配水時間を知らせるのは、集落の中央の高台にある鐘楼でつく半鐘であり、鐘叩き人は集落で雇っていた。
 大谷川の谷水は伏流する前の谷口で水路に取り入れられ、それがいくつも分岐しながら水田を灌漑するようになっていた。水量は時々刻々と変化するが、谷口で取水される量を一升水(一〇〇)とし、それが分岐点で一〇等分されながら各水田に配水されるようになっていた。水田の入り口にも分岐があり、水路のなかの水の一定量を取水するようになっていた。各時間帯に灌漑する水田の配水量は合計すると一升水になるようになっていたが、水利権の継承ごとに多少の誤謬が生じ、昭和二九年には八合三勺から一升四合八勺までの差異が生じていた。
 荒神森の湧水、頭王池の溜池の水も、同じような複雑な水利慣行によって灌漑されていた。このような複雑きわまる水利慣行が生まれたということは、それだけ水不足が深刻であったことを物語るものである。夏の灌漑時斯になると、夜も満足にねむれず灌漑作業に追われていた中之庄の住民が、水不足から解放されたのは、昭和二九年銅山川疎水が開通して以降であった。以後このような複雑な水利慣行は消滅し、灌漑水は各自が水路から自由に引水できるようになった。水路の分岐点や水田の水口にあった分岐も現在は跡かたもなく消滅してしまった。
 中之庄の住民が水不足に悩んだのは、灌漑水においてのみでなく、飲料水においても同じであった。地下水位まで三〇~四〇mもある中之庄では、井戸を掘さくすることは困難であり、飲料水は大谷川の谷水と荒神森の湧水に求めた。両者の水は灌漑水であると同時に飲料水でもあったのである。飲料水の取得の方法は、水路に「くみじ」をうがち、そこで飲料水を得た(写真5-18)。「くみじ」は長さ一・五m、幅七〇~八〇m程度の長方形の水溜であり、水路の一角に造ったり、やや屋敷内に引き込んだりして構築した。「くみじ」で汲み上げられた水は炊事場にある水瓶の濾過装置で濾過されて飲用された。「くみじの水では飲料水を得る以外に風呂水や洗濯水を汲んだり、野菜や食器を洗うことは許されていた。中之庄の集落が水路に沿って列状に並ぶのは流水飲用をしていたことに起因するものである(図5-40)。大谷川の上流にある光明や、荒神森に近い地区の住民は清冽な流水が得られたが、水路の下流に位置する住民は流水が汚れていたので、夕方荒神森近くの水汲み場まで樋を担って水汲みに通わざるを得ず、水汲みは婦女子にとって苛酷な労働であった。荒神森から流れ出る福王水は特に神聖視され、その水路の水では汚物を洗濯したり、汚水を流すことは厳禁されていた。洗濯場は大谷川などに別に設けられていた。
 中之庄では、県下で最も早く昭和初期に簡易水道が敷設されたが、それは水不足に悩む住民の切実な声によって実現されたものである。まず最初の簡易水道は、荒神森から湧出する福王水を水源として昭和二年に敷設され、これを甲号線簡易水道という。次いで扇頂部の光明地区に大谷川の谷水を水源として同五年に敷設され、これを乙号線という。簡易水道の敷設後、「くみじ」の水は飲用水には利用されなくなったので、それは次第に減少していった。しかし現在でも「くみじ」で野菜や食器を洗う農家は多いので、旧来の名残をとどめている「くみじ」も多数残っている。

 中曽根の集落

 藩政時代の中曽根は、西から石床・中曽根・六塚・三谷・秋則・野々首・中田井の七集落から構成されていた。それぞれの集落は、西寒川・中之庄と同じく、中央構造線の形成する断層崖下の扇状地上に立地していた。これらの七集落は断層崖をなす法皇山脈から流れ下る小河川ぞいに立地していたので、それぞれが独立した農業水利の単位となっていた。
 大字中曽根を構成する一集落である中曽根は不老谷川の形成する扇状地上に立地する。この集落もまた西寒川や中之庄回様、灌漑水・飲料水の取得に不便な集落であった。この集落の灌漑水は不老谷川と、隣接する石床の古池に求めた。不老谷川の水は伏流する前の谷口で取水し、その水はしばらく下ったところにある大分岐で中曽根と石床に分けられた。大分岐には現在五つに刻まれた石の分水目盛があり、中曽根に六〇%、石床に四〇%の水が分水されるようになっている。古池は石床にある溜池であるが、この池の水もその下の分岐で、石床六〇%、中曽根四〇%に分水されるようになっている。
 中曽根の水田も水田ごとに灌漑水を得る権利が決まっていた。各水田耕作者は自分の水田にかかる水を集計して灌水するようになっていた。耕作面積の広い自作農は自分で配水してまわったが、耕作面積の狭い小作人は共同で「水おとし」を選定し、それに配水の仕事を一任した場合もある。配水時間は朝番(日の出から一二時まで)、昼番(一二時から日没まで)、夜番(日没から日の出まで)の三時間帯に分かれていたが、配水順は、朝番→昼番→夜番→休み→朝番とまわり、四日間で一順回するようになっていた。
 不老谷川・古池から水路に取り入れられた灌漑水は、水路の分岐点ごとにはま木(分岐ともいう)があり、それによって水を分けながら灌漑していった(図5-41)。はま木とは、水路のなかに埋め込まれた下駄のはま状の分水目盛であり、これで一定比率になるように分水したのである。はま木の目盛は四つから一一程度もあり、四はま木とか一一はま木といわれた。このようなはま木の存在や、複雑な水利慣行は、水不足の中曽根を象徴するものであった(写真5-19)。
 水不足に悩む中曽根も、昭和二九年銅山川疏水の水が灌漑水に加えられてから、水不足は解消されたのであるが、この集落は同五五年ころまで旧来の水利慣行を守っていた。水路の分岐点には、まだはま木が残存している。はま木の残存している集落は、宇摩平野でもこの集落のみである。
 この集落は飲料水の取得でも不便を感じる集落であった。中曽根の地下水は五~六m以上もあり、個人では井戸を掘さくすることは困難であり、井戸のある農家はわずかに三戸であった。他の農家は昭和二九年に上水道が敷設されるまでは、灌漑水路に「くみじ」を構築し、その流水を飲用してきた。古い農家が灌漑水路にそって立地するのは、この流水飲用にもとづくものである。「くみじ」の利用慣行については、西寒川や中之庄で述べたのと同じ状況であった。汚物の洗濯場は、「くみじ」のある灌漑水路にはなく、不老谷川の下手の方に指定された場所があった。「くみじ」は野菜や食器を洗う場所として現在も利用されているが、飲料水に利用されなくなってからは次第にその数を減じているといえる。






表5-36 伊予三島市中之庄の大谷川水の灌漑順番表

表5-36 伊予三島市中之庄の大谷川水の灌漑順番表


図5-40 伊予三島市中之庄の集落立地

図5-40 伊予三島市中之庄の集落立地


図5-41 伊予三島市中曽根の集落立地と水

図5-41 伊予三島市中曽根の集落立地と水