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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

五 やまじ風と集落景観

 宇摩地方のやまじ風
 
 伊予三島市や川之江市・土居町などの沿岸部では、三月から九月にかけて南よりの強風に襲われることがある。地元の宇摩地方ではこの風を「やまじ風」と呼んで恐れているものであり、山形県の「清川だし」、岡山県の「広戸風」とともに我が国三大局地風にあげられるほど顕著な風である。元来、ジとかゼというのは「風」の意であり、ヤマジとは「山から吹きおろしてくる風」を意味し県内でも多くの地域で使われている。『風の事典』によれば、県内で最もよく使われている風名はヤマジで九五地点にも達しており、次いでマジ、アナジ、キタゴチ等の風名が多く使われている。
 しかし、宇摩地方のやまじ風はその猛烈な風速によって家屋や農作物に甚大な被害を与えることで、県内の他の地域で使うヤマジとはその性格を異にしている。宇摩地方の場合、低気庄や台風が朝鮮半島の中・北部を横切って日本海に入るとき、あるいは、低気圧や台風が朝鮮半島南部から対馬海峡を経て日本海に入るときによく発生する。いずれの場合も法皇山脈を越えて吹きつける南よりの風であり、フェーン現象を伴うことが一般的である。月別に発生状況をみると低気圧が日本海を通過しやすい三月から六月に集中しているが、台風の接近に伴って九月ころにも比較的多く発生している(図5-42)。台風が沖縄付近にある時は南風を伴ったやまじ風は吹いていないが、時として東よりの強風に見舞われることがある。これは一般のやまじ風より強烈なこともあり、「辰巳やまじ」と呼ばれて恐れられている。やまじ風の前兆は、まず赤星山や豊受山に「けた雲(やまじ雲)」がかかり、次いで「誘い風」という北寄りの風が吹いてくる。誘い雲の風速は比較的弱いが、この風が吹く時はすでに上空では南寄りの風が強くなり、法皇山脈の陰になる北麓には渦流が生じていることを示している。やがて「山鳴り」が起きる。やまじ風が吹き始めると、宇摩平野では風向がめまぐるしく変化し砂塵をまき上げる。これを「まいまい(舞い舞い)風」という。まいまい風が終わると平野部のやまじ風は次第に強くなる。やまじ風は季節的に春やまじ、夏(秋)やまじに分けられる。やまじ風の風向が南よりから西よりの風に変わると「かわし(返し)風」というが、西やまじになった時が最も風速が強いという。
 伊予三島市の南西部に横たわっている法皇山脈中に標高一二七四mの豊受山(写真5-20)があり、その山頂に長さ七〇mの洞穴がある。この洞穴が風の神の住む洞穴で、強風はそこから吹き出してくると信じられていた。それでこの洞穴を風穴神社(おといこさんとも言う)として志那津比古、志那登女の両風神を祀っている。旧暦六月と九月の一三日を祭日と定め、六月には小麦団子を九月には米団子をそれぞれ三六五個ずつ供え、それを洞穴に投げ入れて強風が吹かぬように祈った。現在でもこの風習は伊予三島市豊岡地区を中心に残っており、祭礼を受け持ったものは当日夫婦そろって風穴神社で行われる大祭に出かけるのがならわしになっている。

 やまじ風による農作物被害
 
 やまじ風は年間二〇~三〇回も発生するが、中には風速が三〇m以上に達するものもあり、農作物に与える被害は想像をこえるものであった。宇摩地方に住む人々はやまじ風による被害を半ば宿命的なものとしてあきらめざるを得なかった。こうした状況の中で、少しでも被害を少なくしようとして根菜類の栽培を多くの農家が行うようになった。伊予三島市や土居町の代表的な商品作物をみると、みかんのほかは里芋、山ノ芋、しょうが等の根菜類であり、なかでも里芋については本県第一の生産地域を形成している(口絵写真参照)。
 伊予三島市の五九年度の農業粗生産額のうち耕種部門は合計一五億五一〇〇万円となっているが、根菜類の粗生産額は四億八七〇〇万円で耕種部門全体の三一%を占め、米(四億五〇〇〇万円)やみかん(二億一九〇〇万円)よりも多くなっている。同市の中でも豊岡・寒川地区のようなやまじ風常襲地帯では、里芋の栽培は特に盛んで、現在でも転作面積の七五%以上が里芋や山ノ芋の栽培に充てられるなど、県内の他地域では見られない特異な現象を示している(表5-37)。里芋の栽培は早生・中手・晩生の三種類に分けて行われており、市場の価格変動に対応するという目的ばかりでなく、風害を最小限にとどめようとする姿勢のあらわれともなっている。米作についても里芋と同様な分散作付けを行う農家は多く、「日本晴」、「松山三井」等が栽培されている。なお、宇摩平野ではかつては強風に弱いビニルハウスをほとんど見ることができなかったが、近年は堅固な構造のビニルハウスを設けているところもある。

 やまじ風多発地帯の集落景観
 
 一般国道一一号に沿って新居浜市方面から高松市方面に向かっていくと、関の峠を過ぎたあたりから屋根の上に石塊を置いた家屋が見えてくる。やまじ風は古来、農作物ばかりでなく家屋にも大きな被害を与えてきた。特に、台風に伴うやまじ風はきわめて強く、昭和二六年一〇月一四日のルース台風では宇摩地方だけで三二〇戸が強風のため全半壊した。また翌二七年三月一九日にはやまじ風によって川之江中学校の校舎が倒壊するなど、その強さは屋根瓦を「まるで紙きれのように吹き飛ばす」ほどのものであり、かつては段丘崖下に強風を避けて集落が立地していた。三〇年代まではほとんどが石置き屋根の家であった。現在でもこのような備えをした家は多く、六一年現在豊岡地区二五一戸のうち七二戸(二九%)が石置き屋根の家屋であり(図5-43)、しかも、さらに瓦を漆くいで固定している家屋も多く見られる。屋根に置く石塊はかつては川原にある頭大の石であったが、現在はコンクリートブロックが多くなった。また、防風林をめぐらした家屋(写真5-21)や、軒先の高さを塀の高さより低くした家屋(写真5-22)もあり、厳しい自然条件の中に生きる人々の智恵がよく現れている。近年は鉄筋コンクリート家屋が多くなってきており、豊岡地区二五一戸についても一〇六が鉄筋コンクリート家屋で全家屋の四〇%に達しており、納屋は従来のままの石置き屋根であるが家族が日常生活を送る住家のみ鉄筋コンクリート造のものを含めると、五〇%に達するなど、県内の他地域に比べて著しく異なった集落景観を呈している。なお、石置き屋根の家屋が比較的集落の密集した所に多く分布しているのに対し、鉄筋コンクリート家屋は集落がまばらな所に多く見られるという傾向を示している。
 昭和二〇年九月一七日の「枕崎台風」によって、宇摩地方では強烈なやまじ風が吹き荒れ稲が壊滅的被害をこうむった。これを契機に「宇摩郡やまじ風対策協議会」が組織され、やまじ風の究明とその対策を検討するようになった。さらに、同二六年一〇月一一日の「ルース台風」によって再び農作物のみならず家屋も甚大な被害をこうむったため、同協議会では豊岡・松柏・富郷・金田の各小学校、土居高等学校など地域にある学校に協力を依頼して、大規模な気象観測を実施するようになった。克明な気象観測資料は次々と市町村や農協に送られてくるようになり、関係機関ではこれらの資料をもとに稲の早期栽培、みかんの網かけ、畜産の奨励、根菜類の栽培奨励と品種改良など農業経営の改善指導を効果的に進めてきた。四五年以後は豊岡中学校と寒川中学校が統合してできた伊予三島市立南中学校で観測が続けられており、同校で観測した貴重な気象資料は地域における農業経営の安定ばかりでなく、住民の生活向上にも多大の貢献をしている。






図5-42 やまじ風の月別発生回数

図5-42 やまじ風の月別発生回数


表5-37 伊予三島市における地区別転作等の実績

表5-37 伊予三島市における地区別転作等の実績


図5-43 伊予三島豊岡地区における石置き屋根及び鉄筋コンクリート家屋の分布

図5-43 伊予三島豊岡地区における石置き屋根及び鉄筋コンクリート家屋の分布