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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

二 銅山川分水と水資源

 銅山川分水略史

 宇摩平野の農業用水の確保に端を発した銅山川の水資源の開発は、時代の変遷に伴い工業用水、都市用水、発電用水と多岐にわたってきた。
 銅山川疎水事業の発端については、三島村の庄屋、喜兵衛らが作成した『疎水事業工事目論目書』に次のように記していることによりうかがい知ることができる。

宇摩の河川は流域短小かつ勾配急竣なるを以て、降雨あるや直ちに出水し、晴るればたちまち断水し、夏期干天には河底に点滴を止めざる状態にあり、……ニ年ないし五年毎には干害を免るること能わざるも、百姓なるが故に不 安焦慮の中に伝来の天職を継続しつつあり、……しかるに南方にそびゆる法皇の分水嶺を越ゆれば大川なり。よって水源をこの川に求め、法皇の山嶺に隧道をうがち導水して、水田の用水補給を行い、その干害を除去して毎年の損失を除き……。

 その後の疎水事業の歩みを『銅山川疎水史』よってみると次の如くである。

歴史的計画時代(安政二年~明治四〇年)
 安政ニ年(一八五五)河水利用工事もくろみ書が庄屋たちの連名で、三島代官所(今治藩)に差出された。慶応初年三島代官松下節也が計画書を藩主久松定法に進言、重役側は、藩存亡の幕末多事に多額の経費は使えぬと反対、しかし名君定法の口添えにより着工に決った。しかるに廃藩置県となり松下代官案は流れてしまう。
 明治六年(一八七三)以降も、地元有志、商社が事業計画はするが資金難のため実現されず。

企業計画時代(大正三年~同一四年)
 大正元年一二月、岡山市で美術クラブ経営者紀伊為一郎を土居村鉱山師後藤国太郎、松柏村篤農家福田武太郎が訪れて、法皇山脈隧道事業を持ちかけた。紀伊の家は川滝村に八百石に近い小作地と数百町歩の山林を所有し、松中卒、同志社大卒、美術学校卒で、妻は岡山県有数の酒造家花房卯一郎の娘であった。この卯一郎に相談の上、紀伊家の運命をかけた大事業に踏み出した。
 大正三年一〇月一〇日、三島町千鳥亭に事務所を置き、土居村後藤国太郎と、川之江・金生・妻鳥・松柏・三島・中曽根・中之庄・寒川二町六ヶ村の耕地灌漑用水供給を目的に銅山川引水を県知事深町錬太郎に用水路開設願を提出した。
 大止四年一月、新宮村馬立て銅山川の水を利用して発電していた東予水力電気㈱は既得権をたてに、銅山川河水使用願を提出、紛争となったが、県その他の斡旋で解決した。
 大正五年九月、紀伊は灌漑区域に津根・野田・豊岡・小富士の四ヶ村を加え、知事坂田幹太に出願、県では、右計画に基づいて内務大臣に認可申請するとともに下流徳島県へ承認の協議を申込んだ。
 大正六年二月、徳島県は知事名を以て、「吉野川筋における流木、舟運、灌漑水に支障あり分水反対」を通告して来た。以後坂田・若林・馬渡三代の知事の苦しい交渉がつづけられた。
 大正八年夏、紀伊・後藤二人は、旅館に泊って、農林・内務などに陳情、一ヶ月の旅館代をはたいてしまってやっと友人からの金の工面をして、三島に帰った。そのころ、紀伊の妻の親から「あなたに協力する約束はしたが、すでに八年たった、工事許可もなく、紀伊の財産はなくなった。「娘が可愛想だから、事業から手を引かぬのなら娘を引きとる」ということで離婚になった。
 大正一〇年九月、早ばつであえぐ農民から、紀伊さんにまかしておけるだろうかと不信感が起り、郡長高橋惣太郎を動かして郡内一二ヶ町村長による「宇摩疎水組合」設立を決議してしまった。その頃同じ考えで私企業めく如く思われがちなこの事業を徳島県の反対を押切る意味でも、強い組合を結成して出願しようと、紀伊は、有力者の協力を得、宇摩一円の組合結成の動きのあることを知事に話し、力添えを頼んだあと上京した。関係方面に陳情中、三島からの電報で「宇摩疎水組合」成立が知らされた。話し合えばわかったことながら、紀伊を遂に無視してしまった。

県営計画時代(大正一四年~昭和二五年)
 大正一四年二月、「宇摩疎水組合」事業を県営に移譲することにした。佐竹知事は内務大臣若槻礼二郎宛、銅山川疎水を出願、燧洋電気㈱も銅山川水利使用流域変更願を出し、同社と紛争、地元も工事は中断した。
 昭和五年八月、内輪もめの最中に、徳島県から知事名をもって銅山川分水不承諾の通知が来た。翌六年五月、内村三郎技師は本県太田上木技手に認可指示案を示したので、七月本県笹井幸一郎知事が上京、安達内相の口添え、丹羽土木局長の援助で、徳島県知事土居通次としばしば会合した結果、一一月一一日、知事間で了解がついた。県会は銅山川用排水改良事業費を可決した。その翌日、覚書に調印した両県知事は休職処分となり、犬養内閣から「新規事業見合せ」という内相通達があった。新任の久米成夫知事も慎重に構えていたが、地元はあらゆる手蔓を求めて活動した。
 犬養内閣に代わって斉藤内閣成立、若い一戸二郎知事が赴任した。昭和八年一月、徳島県庁で、両県代表の会合があったが決裂、ここで県は府県交渉を断念し、本省の許可を仰ごうとした。
 昭和八年二月武知勇記、同一〇年武知・大木両代議士が分水問題を予算分科会で解決督促、徳島県選出の代議士紅露昭が反対。その後政府と両県との間で、調査、計画変更と協議がくり返され、昭和一一年一月、土木局長より示された分水協定案に調印、即日認可された。愛媛は大場知事、徳島は戸塚知事であった。
 いよいよ隧道工事の請負入札をしたが、日中戦争、物価騰貴で、落札者なく地鎮祭挙行のまま一年経過、同一三年七月県直営で着手した。八月から山脈の胴に二九〇〇mの穴を開けるのである。馬背谷の吐出口切取から始まったが付近で一〇mの断層にあい、湧水多量で工事は進まず、太平洋戦争に突入し、工事はそのままとなった。
 昭和二〇年六月、豊島章太郎知事、山中義貞、村上恒一らにより、井華鉱業(住友建設)と請負契約が成り活発化したとき、徳島側より協定違反の横やりがはいり、ニケ月で中止、それから二年先鋭化し、県でも燧洋電気の出願拒否を申請した。
 同二三年四月、工事促進協議会が結成されたが、坑内は工事が長くのびた為、資材の腐朽と雨のような湧水の為、計算上残すところ二m以下の筈であったこの坑道内に入る者がない。時に同二四年六月三〇日午前九時であった。仕方なく三人の責任者だけで一二五〇mの奥で腐臭と削岩機の騒音に耐えて作業した。午後一一時四〇分、向うのハッパの煙がこちらの穴へ出た。こうして、明治・大正・昭和と宇摩農民の悲願が達成されたのである。昭和二五年八月、内部仕上終結、二四日通水式、安政二年以来九六年ぶりに峰の向うの水が来た。

 以上が銅山川開発の略史である。水利権を持つ徳島県との交渉は難航したが、県当局、地元民の並々ならぬ努力によって、ついに昭和二八年一〇月柳瀬ダムの竣工、同二九年三月同発電所設備の完成をみて、ここに一世紀にわたる宇摩郡民の願望銅山川疎水事業が完成をみたのである。
 その後、川之江・伊予三島地区の製紙業の発展は、工業用水の需要を急増させ、農工両面から銅山川河水の完全分水を熱望することとなり、昭和四二年に始まる早明浦ダム計画の一貫として、柳瀬ダム下流八㎞の地点に同五一年三月新宮ダムの完成をみて、今日に至っている。

 柳瀬ダム

 昭和二八年一〇月に完成した柳瀬ダムによってせき止められた銅山川の水(金砂湖)は、法皇山脈をくりぬいた全長二七八三mの第二隧道を通って上柏の馬瀬谷上の調圧水槽に達する。標高二九三mの調圧水槽からは、土居町方面へ伸びる延長約一三・五㎞の西部幹線水路と川之江市方面へ伸びる延長約五㎞の東部幹線水路に分水され、その受益面積は一二四六haで六五〇万立方mに達している。柳瀬ダムの堤長は一四五m、有効貯水量二八八〇万トンで、ダム近くの半地下式の県営銅山川第二発電所では、新宮ダムヘの調整放流量一・五t/sを有効に利用して最大二六〇〇kWの発電を行っている。一方、調圧水槽を経て一気に八六〇mの水圧管を下った五・八t/sの水は銅山川第一発電所で最大一万七〇〇kWの発電をし、赤之井川に合流し、工業用水(八〇三〇万トン)・上水道(一〇九五万トン)用水として利用されている(図6―5・写真6―13)。

 新宮ダム

 新宮ダムは、銅山川第二発電所から下流へ流出する水量を更に有効に利用し、早明浦ダムの身替わりにより治水と共に銅山川の分水をより完全に行うべく吉野川総合開発事業の一環として水資源開発公団によって施工され、昭和五二年に完工した。堤長一三八m、貯水量約一三〇〇万トンで、ダムからの分水は法皇山脈をくり抜いた二七七八mの分水隧道を通り、川之江市金田町金川の銅山川第三発電所で最大一万一七〇〇kWの発電を行い、上分町の新顔調整池に貯水され工業用水として一万三二四万トンが供給される。なお、調圧水槽からは一五五万トンの灌漑用水が取水され、川之江市の二八〇haの柑橘園、三七二haの水田が灌漑されている(図6―5・写真6―14)。

 富郷ダム

 富郷ダムは、吉野川水系銅山川の伊予三島市富郷町津根山地先に多目的ダムとして建設するもので、吉野川総合開発の一環をなすものである。銅山川最後のダムとして昭和四四年度から予備調査がすすめられていた。四九年に至り、治水と都市用水確保の多目的ダムとして実施調査のための事務所が開設され、本格的な調査の段階に入った。当初の構想としては実施主体は水資源開発公団とし、その規模は、堤高一一一m、堤長二八〇m、有効貯水量五二〇〇万立方mであったが、治水と都市用水確保の多目的ダムの関係から、建設省直轄事業に事業主体が変更になった。ダムは重力式コンクリートダムで完成すると県下で最大、四国では堤高一番、貯水量三番目の規模となる(図6―5参照)。昭和六〇年に着工し、六四年完成をめざしているが、用地買収や予算などの関係で遅れそうである。ダム湖底に沈打城師・宮城・寺野など六地区六三戸、道路が寸断される戸女・折宇地区一八戸、計八二戸が立ちのくことになり、このうち四五戸が伊予三島市の市街地に転居し、残りは土居町や新居浜市、岡山県などに移り住むことになっている。なお、明治一二年(一八七九)創立の城師小学校も六一年三月をもって一〇八年の校史を閉じた。

 別子ダム

 銅山川水系最上流の別子ダムは、宇摩郡別子山村下七番に、銅山川上流域と新居浜市の臨海工業地帯を結合する別子総合開発の一環として、住友共同電力が昭和四一年に建設した重力式コンクリートダムである。ダム湖底には、明治四二年(一九〇九)に住友から発電用水利使用願が出され、翌四三年二月付を以って許可されて、住友が隧道を作り、この水を新居郡角野町端出場(現新居浜市)に送り自家発電を行った奥七番ダムがあった。銅山川分水の草分けのダムである。別子ダムは堤長一五〇m、堤高七一m、貯水池面積二七万平方m、貯水容量五六〇万立方mである。水は銅山越の西方をトンネルで抜け、新居浜市の寛永谷・柳谷・唐谷の水を集めながら、呉木の西方から小女郎川南岸の住友共電東平発電所まで一気に落とし、最大二万kWの発電をし、国領川上流の鹿森ダムの水とともに年間一八七三万トンの工業用水を新居浜の住友系企業に供給している。なお、鹿森ダムの水は住友共電山根発電所で最大六七〇〇kWの発電を行っている。

 銅山川水系の水力発電

 銅山川水系最上流の別子山村には昭和二八年に完成をみた最大出力七四kWの村営瀬場発電所と三五年農山漁村電気導入促進法に基づき、森林組合の経営による出力一〇〇〇kWの小美野発電所がある(写真6―15)。余剰電力は住友共電に売電している。
 金砂湖を造成した柳瀬ダムからは第二隧道を通ってきた水によって県営銅山川第一発電所で最大一万七〇〇kWの発電をしている。一方、ダム直下には半地下式の県営第二発電所があり、新宮ダムヘの調整放流量を有効に利用して最大二六〇〇kWの発電を行っている。また、昭和五〇年七月からは新宮ダムの水でも発電が行われている。新宮ダムから分水隧道を通ってきた水は、調圧水槽をへて、県営発電所では初めて主要設備がすべて地下に設置されている県営第三発電所で最大一万一七〇〇kWの発電をしている。これら県営による二万五〇〇〇kWの電力は主な売電先の四国電力の指示により、需要の多い昼間を中心に発電がなされている。なお、一部は住友共電へも売電している。

 銅山川工業用水道事業の歩み

 「紙の町」伊予三島・川之江両市にとって工業用水の水源開発は市発足以来の共通の課題であった。そこで両市の工業用水に関する事務を共同処理する一部事務組合(特別地方公共団体)が設立されたのが昭和三一年八月であった。同三三年一一月には、柳瀬水系銅山川第一発電所の発電余水の有効利用を目的とした七万立方mの工業用水配水池が建設され、五六年に大々的な改修工事がなされ、管理は伊予三島川之江工業用水組合でしている。四三年七月には工業用水道事業法に基づく銅山川工業用水道事業の届出が通産省に受理されたことにより、事業体名称を規約により「川之江伊予三島工業用水組合」から「銅山川工業用水道企業団」と変更した。つづいて四五年一二月には柳瀬水系の工業用水に関する事項を処理する為、別に一部事務組合「伊予三島川之江工業用水組合」を設立し、新宮水系との事務区分を明確にした。
 昭和五〇年一〇月には伊予三島地区五社、川之江地区八社に対し、日量約一二万一〇〇〇立方mを給水開始し、銅山川工業用水事業の一部営業開始の記念すべき年となった。五一年三月には早明浦ダム建設事業の第一次が完了した。この事業は、吉野川総合開発計画に伴うもので、昭和三二年度建設省により治水、農水、都市用水の確保並びに電源開発を目的とした多目的ダムとして着手され、四二年度に水資源開発公団に継承されたものである。銅山川工業用水道企業団では四二年度から水源費補助を受けて本事業に参画、銅山川新宮地点で毎秒三・二八立方m、柳瀬地点で毎秒一・六七立方mの分水を確保するに至っている。翌五二年三月には銅山川工業用水道事業を完了した。これは新宮ダムの建設により毎秒三・二八立方mの水利権を確保するとともに、これと並行して伊予三島・川之江地域に工業用水道を新設し、地場産業ひいては地域の発展に寄与せんとするものである。四二年に事業着手以来実に足かけ一一年目の完成である。総事業費七二億円、配水管路総延長二〇㎞である。
 以上のような歩みを持つ銅山川工業用水道事業は、伊予三島・川之江両市の基幹産業である紙・パルプ製造等の発展を目的として始めた事業であり、今では当地域に欠かせない重要な事業として定着している。給水方法は新宮ダム地点で取水した毎秒三・二八立方mの銅山川表流水を分水隧道を経て、県営銅山川第三発電所で最大一万一七〇〇kWの発電用に使用した後、放水隧道を経て新池調整池で調整するとともに専用施設である分水池へ導水、分水池から両市の既存の製紙五一社(伊予三島一五・川之江三六)に自然流下方式で原水二六万三〇〇〇立方mを供給するものであり、総延長は二〇㎞である。最大の給水先は大王製紙㈱三島工場で四四・九%の一一万八〇〇〇立方m、次いで丸住製紙㈱二四%、六万三〇〇〇立方m、愛媛製紙㈱一万五七〇〇立方m、大王製紙㈱川之江工場一万三〇〇〇立方mとなっている。
 なお、伊予三島川之江両地域製紙産業の将来に備え、現在富郷ダムを水源とする富郷工業用水道事業を建設中である。これは既存の三島地区一〇、川之江地区二二の計三二工場に対し日量一一万九〇〇〇立方mを給水するもので、五八年度に総工事二六〇億円で着手し、六四年度完成をめざしている。配水管等総延長約二四㎞である。








図6-5 銅山川流域の水源施設概要図

図6-5 銅山川流域の水源施設概要図


付表 水源施設の概要

付表 水源施設の概要