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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

一 嶺南の峠道と索道

 宇摩平野と法皇山脈越え

 現在宇摩平野の中心のJR四国伊予三島駅から、別子山村へは一日三回、新宮村へは二回定期バスがある。また川之江駅から新宮村行のバスも一日七便がある。昭和二五年当時城師小学校の教師が三島市の会議に出席するのに、法皇トンネルがなく、寒川経由で四時間を要した。別子小学校の教師はカゴ電(一日三便)で角野経由で宇摩郡の中心三島へ行くのに四時間以上費した。

 法皇トンネル

 伊予三島市が昭和三三年二月、総工費一億八五〇〇万円を投じて、昭和三五年八月竣工した。長さ一六六三mである。工事中、北から四ニ九mの地点で断層のため毎秒四個の地下水が湧出し苦労した。一時有料道路であったが、昭和四九年三月森川市長の努力で県道になった。そのことは、南口の頌徳碑に刻まれている。北口には具定展望台がある。
 金砂湖の造成で金砂村の一六〇戸、富郷村の一〇戸が離村した。現在富郷ダムの工事中で、さらに人口が減少する。

 峠の道

 法皇山脈の東から検討してみると、古い地形図には昔の道が記載されている。①太政官道の土佐街道は今は通らない。②堀切峠(海抜三九四m)越え、国鉄バスの通る道、今はトンネル。長さ一二九五m。③三角寺から市仲経由奥の院仙竜寺。④上柏から鳶畑経由海抜七四七m峠を経て漁梁場。⑤野々首から広尾を経て池之尾峠七五七m経由で脇ノ谷または柳瀬に至る。⑥中曽根の石床から翠波峠の東の六九七mの峠を経て折坂に至る。翠波は水波大権現で社があり、水の神様で、雨乞いの翠波おどりが行われる。川口方面の人が利用する。三島へ歩いて三時間半。⑦光明から法皇トンネル通過し東長野から平野山に至る。⑧具定の正森から海抜七三〇mの具定峠を経て最短コースの平野に至る。⑨東寒川の入野から海抜七九六mの寒川峠を経て、鋸山の南を通り板谷から上長瀬に至る。⑩西寒川から鋸山を経て七々木経由で岩原瀬に至る。⑪豊田から五良野・岡銅を経て豊受山を通り、徳丸から岩原瀬に至る。⑫土居町小林から赤星山を経て中尾から銅山川に至る。⑬土居町入野から中の川浦山経由小箱越え寺野城師に至る。⑭入野浦山経由、峨蔵越を経て小美野に至る。⑮関川から内の川大川を経て河又から権現越えから床鍋に至る。⑯舟木から下兜山物積頭を経て別子の瀬場筏津に至る。⑰舟木から下兜山物積頭を経て別子の小足谷日浦に至る。⑱舟木から種子川山・上兜山・西赤石山を経て海抜一二九一mの銅山越を越えて小足谷に至る。⑲角野から立川山・東平・銅山越・日浦(後に三番坑の寵電)を経て弟地筏津に至る。⑳角野から大永山・河又・中七番経由で日浦・弟地・筏津に至る。目下県道新居浜山城谷線を工事中である。
    
 索道 

 法皇トンネルをバスが走る前には、嶺南の鉱石や木材の物産を三島に出し、日用雑貨を嶺南に運ぶのに索道が発達している。その前には馬の背や仲持が運んだ。
 索道は三本あった。白滝索道は大正六年(一九一七)に、三島索道㈱が下猿田から下をもっていたのを日本鉱業㈱が買収した。白滝鉱山から八里(三二㎞)あり、途中白滝―城師―葛川―藤原―下猿田―豊坂―下長瀬―小頃須―川口―三島の駅があり、玉村式でケーブルの太さは一インチで、四時間を要した。川口から三島は五〇分であった。運転時間は朝八時から夕方四時までで昼一一―一二時は休んでいた。佐々連鉱業㈱の索道は大正一〇年(一九二一)に架設され、佐々連鉱山の鉱石を六マイル(九・六㎞)先の三島の江ノ元港に運んだ。昭和二年五月玉村式五〇馬力にした。途中金砂と押渕に駅があり、返り荷に日用雑貨や旅行者の荷物なども運んだ。佐々連鉱山はもと岩城、後に別子鉱業が操業していた。佐々連のケーブルは一インチより小さく七分であった。疏水索道は柳瀬―馬瀬谷―三島の五マイルで昭和一六年の架設で、ケーブルの太さは一インチ二分であった。大王製紙が疏水組より借りて操業していた。
 川口~三島間の運賃は昭和二五年当時、普通貨物で一〇貫が二二円、手数料が一三円で合計三五円であった。木材は少し安く、竹など長いものは高かった。積載量は八分の一トン=三五貫というが、二分の一トンぐらいバケツに入れていた。