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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

三 銅山川流域の過疎集落

 過疎の進行

 銅山川流域には、昭和二九年の町村合併以前には、上流から別子山村・富郷村・金砂村・新立村・上山村の五か村があった。このうち、富郷村と金砂村は同二九年宇摩平野の三島町に合併され、伊予三島市を構成し、新立村と上山村は同二九年合併し、新宮村となった。
 別子山村、伊予三島市の富郷・金砂地区、新宮村からなる銅山川流域の昭和三五年の世帯数は二九五二、人口は一万三四三八であったが、昭和六○年には世帯数一二二九、人口三四一九となり、この二五年間に世帯数では五八・四%、人口では実に七四・六%も減少している。世帯数と人口の減少は特に昭和四五年から五五年の間に著しく、この間に世帯数・人口ともに半減している(表6―11)。県下の山間部は昭和三五年以降の高度経済成長期に、人口流出が著しく、過疎化の波に洗われたが、銅山川流域の山村は、加茂川流域の山村などと共に、県下で最も過疎の著しく進行した地区であるといえる。

 集落立地の特色

 銅山川流域の集落はその立地からすれば、銅山川本流ぞいの谷底平野に立地するもの、銅山川支流の谷底平野に立地するもの、山腹の緩斜面に立地するものの三形態に区分することができる。
 銅山川の本流は鋭いV字谷を刻んで流れているので、本流ぞいの谷底平野に立地する集落は、その数が多くない。別子山村の保土野・成・旧富郷村の城師・葛川・寺野・上長瀬・下長瀬・杉成、旧金砂村の平野・押淵・小比須・河口、新宮村の古野・河淵などが、その例である。このうち旧金砂村の諸集落は昭和二八年に完成した柳瀬ダムによって水没し、新宮村の諸集落はこれまた同五二年完成した新宮ダムによって集落の大半が水没した。さらに旧富郷村の城師・葛川・寺野などの諸集落も、現在建設中の富郷ダムの水没集落となろうとしている。
 銅山川支流の谷底平野に立地する集落としては、中の川上流の中之川、馬立川流域の秋田・程野・土居・柿の下・長瀬などがあるが、これまた、その数はそれほど多くはない。これらの集落は銅山川の本流ぞいの幹線交通路から離れ、交通不便であるので、現在は人口流出が著しい。
 銅山川流域の集落で、その数が最も多いのは山腹緩斜面に立地する集落である。その例は枚挙にいとまがないが、地形急峻で谷底平野の発達のよくない銅山川の流域では、山腹緩斜面は最も重要な集落立地点となり得た(写真6―17)。集落立地点の標高は四〇〇mから六〇〇m程度であるが、北向斜面に対しては南向斜面の方が、日照に恵まれ、その高度が高い。これらの山腹緩斜面は多くは地すべり地に由来し、湧水に恵まれていることが、集落立地を可能にした一つの要因である。これらの集落は昭和四〇年代になって順次自動車道が通じてきたが、交通不便な集落が多く、これまた過疎の進行が著しい。

 富郷地区折宇の集落

 伊予三島市の富郷地区は、県立自然公園ともなっている富郷渓谷で知られるが、この渓谷を中心に銅山川が鋭いV字谷をうがち、山腹斜面に立地する集落が多い。これらの集落のなかで、昭和六一年現在廃村にたち至っているものは、板谷・徳丸・芋野の三集落であり、廃村寸前のものが、元之庄・瀬井野・折宇などであった。これらの集落はいずれも山腹斜面に立地する小集落である(図6―6)。
 別子山村に近い折宇は、昭和六一年には三戸八人の集落に縮小しており、富郷地区の代表的な過疎集落である。標高六〇〇m余の山間盆地状の平垣地にある折宇は銅山川本流ぞいから全くその姿を見せず、ここに伝わる平家の落人伝説の地にふさわしい。伝説によると、この集落は寿永四年(一一八五)屋島の合戦に敗れた平家一門の渡辺盛忠と、藤原氏の一門近藤正季が落ちのびてきて開いた集落という。
 平家の落人伝説を伝える折宇(写真6―18)は、元来戸数一六戸の集落であった。その一六戸は、近藤名四戸、中屋名八戸、屋敷名四戸に分れていた。それぞれの名は同族である。近藤名はすべて近藤姓を名乗り、近藤正季の末裔と伝える本家は屋号を中西という。その分家に西・南と南の分家小南がある。中屋名は高橋姓を名乗り、その分家に岡・部屋・新屋・東・的場・鍛冶屋・橋詰があった。屋敷名も高橋姓を名乗り、下・上・滝ノ端の分家があった。これらの分家はいずれも本家をとりまくようにして分布している(図6―7)。本家・分家間には正月に門明けの挨拶がなされていた。近藤名では、分家の西が本家の中西に門明けに行き、小南は南へ門明けに行き、南と小南がそろって中西に門明けに行くという具合であった。年始の挨拶を受けた本家は、後で必ず答礼に行くならぬしてあり、門明けの順序によって本・分家の新旧関係が判明した。集落内の通婚関係をみると、近隣集落からの通婚が多いが、各名の間でもかなりひんぱんに通婚がなされていたことがわかる。
 名はまた土地所有の組織でもあった。折宇には集落の外縁部に焼畑用地となる共有林があったが、それは近藤名・中尾名・屋敷名で別個に所有され、そのなかがまた各人の用益権のある山林になっていたという。折宇の住民のもつ共有林には、他に戸女部落のなかに戸女一三戸と折宇一六戸の二九名持の共有林もあった。折宇は名ごとに同族結合を強化すると共に、三つの名が一つの集落を構成し、一つの村落共同体をなしていた。
 この折宇は明治年間からすでに挙家離村を見せていた。まず中屋名の東が明治二九年(一八九六)北海道へ、次いで翌三〇年鍛冶屋が山口県へ、同三六年(一九〇三)には的場が廃絶、中屋名の本家自体も明治四四年には北海道へ移住(のち一族によって家は再興)している。また屋敷名の本家も明治四四年ころには大阪へと転出している。昭和になっては、新屋が隣村の金砂村上小川へ、さらに昭和三〇年代に南が廃絶、小南が三島へ、滝ノ端が土居へ離村、昭和四〇年代以降、中屋が三島の中曽根へ、上が三島へ、下が同じく三島へ、西が隣接の城師へそれぞれ離村、さらに部屋が廃絶した。かくして昭和五〇年以降は、元来の一六戸のうち残存戸は近藤名の本家中西と、中屋名の岡と橋詰(住民は隣接の戸女へ移転)のみとなった。
 挙家離村にあたっては、昭和初期までは耕地や山林は同族間や集落内で買却されるものが多く、近藤名の本家や中屋名の本家が多くの山林・耕地を集積していった。昭和三〇年ころからの挙家離村は伊予三島市の市街地周辺などの比較的近距離の離村が多かったので、耕地は残存戸に売却し、山林はそのまま保有して離村している者が多い。人工林の保有作業などには日曜日ごとに通勤林業する者も多い。耕地は昭和四〇年ころまでは残存戸によって耕作されていたが、以後は戸数の減少によって耕作不能となり、昭和三五年当時には四・七haもあった耕地も、同五六年現在ではわずかに〇・六haが耕作されているのみで、他は植林地にと姿を加えてしまった。
 現在、折宇の下手には富郷ダムが建設中である。このダムが完成すると多くの水没集落が生まれ、折宇土戸女は少数残存集落となり、富郷地区の他の集落から遠く離れた孤立した集落となってしまう。ここに残存住民も離村を決意し、平家の落人の哀史を伝える折宇は、長い歴史の幕を閉じようとしているのである。

 金砂地区中之川の集落

 伊予三島市の金砂地区は、富郷地区の下手に位置する。この地区の集落は銅山川本流ぞいの谷底平野と、銅山川支流の中ノ川・上小川の谷底平野に主として立地する。山腹斜面に立地する集落が富郷地区と比較して少ないのは、山腹に集落立地を可能とするまとまった山腹緩斜面が少ないことが一因である。銅山川本流ぞいの谷底平野に立地する集落は、昭和二八年に完成した柳瀬ダムによって、そのほとんどが水没してしまった。村の中軸部を水没で失った村は、周辺にあった残存集落の孤立感を高め、これらの集落でも高度経済成長期に挙家離村が続出する。
 柳瀬ダムの水没で廃村になった集落には、上流から水丁・押淵・小頃須・安井・川口・信生の六集落があり、集落の大半を水没させたものには、灰原瀬・平野・横飯・上小川・岩鍋・折坂・柳瀬の七集落がある。このうち、少数の家の残存した横沢は昭和四八年に廃村となり、ダムサイドに近い大籔と脇之谷も相次いで廃村となる。支流の中ノ川流域も、また激しく過疎が進行する。谷底平野に立地する黒蔵・西之谷は昭和四〇年代の初めに廃村となり、山腹斜面に立地する久保ヶ市・引地も廃村寸前である(図6―8)。
 中之川の集落は中ノ川の谷頭、標高四五〇m程度の谷底平野に立地する金砂地区最奥の集落である。この集落は南北朝の動乱期に新田義貞の一族が、開いた落人の里と伝えられる。集落内には新田義貞などを祀る新田神社、源家の祖先を祀る源霊碑などがある(写真6―19)。
 中之川は宇摩平野と土佐本山町を結ぶ中継地でもあり、大正年間には五〇戸程度の人家を数えた。昭和初期に北海道への離村などがあり、多少の戸数の減少をみたが、昭和三五年には三八戸、一三二人の集落であった。住民は集落近くの谷底平野で水田と常畑を耕作し、不足する食糧は焼畑耕作で補い、三椏や木炭・木材などで現金収入を得て生活していた。一戸平均の経営上地面積は、水田一〇アール、畑三〇~四〇アール、山林二〇ha程度であった。灌漑水の冷たいこの地では、水稲は一〇アール当たり一八〇㎏程度にしかすぎず、主食は常畑で栽培する甘藷・とうもろこし・裸麦・焼畑で耕作するひえ・あわ・そばなどであった。
 中之川は昭和三五年以降挙家離村が相次ぎ、同四五年には二一戸、四二人、五五年には九戸、一九人、六二年には一〇戸、一七人と集落規模を縮小する。離村先は大部分、伊予三島市、川之江市の市街地周辺であり、そこで都市的産業に従事する者が多い。離村者の多くは山林・農地をそのまま保存したまま離村しており、山林・耕地の管理に日曜日などに帰村する者も多く、家屋の大部分は空屋のままで存在する(図6―9)。ただし離村によって普通作物は栽培できなくなったので、集落周辺の耕地は省力栽培の可能なきび畑になってしまった。落人の哀史を秘めた中之川の集落も、今日は六〇歳をこす老人のみの集落であり、やがて無人の集落となるのも時間の問題であるといえる。

 新宮村の過疎集落

 新宮村の集落は、山腹緩斜面に立地するものと、銅山川支流の馬立川流域の谷底平野に立地するものが主体であり、銅山川の本流ぞいにはほとんど集落の立地をみない。山腹斜面で集落が最も多く集中する地区は旧上山村の領域で、ここには地すべり地に由来する山腹斜面が広く、散村形態の集落が連接する。山腹斜面の集落としては、他に銅山川左岸の呉石・杉谷・市仲、同右岸の大影・大尾・西谷などがあり、伊予三島市金砂地区との境界に、芋野・東尾・嵯峨野などがあったが、これらはいずれも他集落からはかなりの距離をおいて孤立して立地していた。
 新宮村で最も過疎の著しい集落は、山腹斜面に孤立して存在する集落である。第二次大戦後廃村にたち至った集落をあげると、呉石・芋野・東尾・嵯峨野があり、戸数が半減以上した集落には、杉谷・大影・大尾・西谷などがある。これらの集落はわずかの山腹斜面を求めて立地する小集落であり、集落周辺の常畑で雑穀や葉たばこ、周辺の林野に造成した焼畑で雑穀や三椏を栽培し、紙漉や製炭で現金収入を得て糊口をしのぐものが多かった。
 芋野の集落は昭和二五年現在七戸の集落であり、旧家のなかには四五代も続いている家があるという起源の古い集落であったが、同四六年最後の住民が離村し廃村となる。東尾と嵯峨野は昭和二五年合わせて七戸の集落であったが、共に同四〇年頃に廃村となる。住民の離村先は主として川之江市・伊予三島市の市街地周辺部である。
 馬立川流域では、谷頭の集落ほど過疎が著しい。馬立川支流の和田小屋川の谷頭付近には和田小屋の集落があり、木地屋の子孫といわれる小椋姓を名残る者が互戸程度あり、焼畑耕作や製炭業を営んでいたが、大正中期には廃村となる。馬立川の源流近くにも、木地屋の子孫が形成したと考えられる木地屋の集落があったが、この集落も和田小屋の集落が廃村となったころには、すでに木地屋の子孫は存在していなかった。廃村にはたち至っていないが、第二次夫戦後戸数の半減した集落には、秋田・辺地床・栄谷などがある。
 銅山川本流の谷底平野には、川淵・古野の集落があり、昭和二五年には川淵ニ一戸、古野一三戸の戸数を数えたが、同五二年完成の新宮ダムの水没によって大部分の住民が転退し、同六〇年現在では、川淵二戸、古野四戸の淋しい集落となっている。

 過疎の要因

 銅山川流域は県下の山村でも特に人口流出の激しい地域である。その人口流出の要因をまとめると次のような諸点が指摘できる。
 まず山村から住民を排出した第一の要因としては、昭和三五年以降の高度経済成長期の間に、農業・林業が不振になっていったという経済的要因があげられる。銅山川流域の住民の生業は、急傾斜の山腹斜面を利用した常畑と焼畑によって雑穀などを栽培するものであった。自給食糧を目的としたこの種の農業は、商品経済の浸透と共に次第にその存在意義を失っていくが、これに変わる新しい農業は生まれなかった。一方この地域の林業は、険わしい法皇山脈にはばまれて、木材を宇摩平野へ搬出することが困難であったので、その発達が遅れる。昭和三五年に法皇隧道が開通し、木材搬出事情は好転するが、まもなく木材価格は低迷期を迎え、豊かな林産資源は住民の経済的地位の向上にはほとんど寄与し得なかった。
 人口排出の第ニの要因は、高度経済成長期後、山間部に居住する人々が買物、通学・通院、公共施設の利用など、日常生活の不便を感じるようになったという社会的要因である。
 このような山間部からの人口排出要因の上に、高度経済成長期には、外部の都市部からの人口吸引作用が強く働いた。銅山川流域の山村は、藩政時代以来、宇摩平野の三島、川之江、また新居浜などと経済交流が盛んであった。これらの都市域は昭和三八年新産業都市に指定され、工業が急激に発展する。銅山川流域の山村は、これら都市域と水平距離にして極めて近く、これら諸都市からの人口吸引力をそれだけ強く受けるものであった。
 以上の人口排出・吸引要因の他に、この地域の人口排出要因として極めて重要であったものは、ダム建設と鉱山の閉山であった。ダム建設では、金砂地区の柳瀬ダムの建設が最も大きな影響を与えた。このダム建設によって、金砂地区の中枢部の集落がことごとく水没したことは、単にその水没集落の人口流出のみにとどまらず、周辺部の集落にも大きな隣接刺激を与えた。中枢部の集落が欠落することは、周辺部の集落住民の孤立感を高め、それら周辺集落の人口流出をうながすものである。
 鉱山の閉山では別子山村の別子銅山、金砂地区の佐々連鉱山が人口流出の大きな要因となった。閉山前の昭和四五年には、別子銅山の筏津に一四四人の住民が居住し、昭和三七年の佐々連鉱山には二八〇〇人の住民が居住していた。昭和四八年の別子銅山の閉山と、同五四年の佐々連鉱山の閉山は、これらの住民を一気に離村させ、さらに銅山に依存していた住民の生業をも奪うものであった。
 さらに過疎の要因として、等閑視し得ないものに、町村合併のあり方があげられる。それは、銅山川中流の富郷・金砂の両地区が平野部の伊予三島市に合併されたことである。人口規模において圧倒的に大きい平野部の都市域と合併することは、山間部にあった公共施設のほとんどを平野部に吸引されてしまうことであった。役場、森林組合などが都市域に吸引されることは、山間部の住民にとっては、公共施設の利用を却って不便にするものであり、これら公共施設への住民の就業の場を奪うものであった。銅山川流域の山村のなかでも、山間地域のみで独立している新宮村に比べて、平野部の都市に合併された富郷・金砂地区の人口流出が著しいのは、このような町村合併のあり方が大いに関連しているといえる。









表6-11 銅山川流域の地区別の世帯数・人口の推移

表6-11 銅山川流域の地区別の世帯数・人口の推移


図6-7 伊予三島市 折宇の名の分布 ―見取図―

図6-7 伊予三島市 折宇の名の分布 ―見取図―


図6-9 伊予三島市中之川の転出戸の分布と転出先

図6-9 伊予三島市中之川の転出戸の分布と転出先