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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

第一節 概説

 自然と歴史的背景         
 
 今治地方の山地は高縄山系の末端丘陵群で半円型に今治平野を囲んでいる。頂上部一〇〇~二〇〇mの高さで、よく開析されて山容は準平原状になっており、平野部には唐子山などの小規模な独立丘陵もみられる。河川はこの山地から東流する蒼社川と頓田川が主なもので、この二河川による沖積面が今治平野となっている。特に蒼社川は全長一九・四㎞と短いが、平野部に入る八幡山附近から河口まで約六・三㎞を直流し、勾配上流二〇分の一、中流七〇分の一で、洪水時は急流となって氾濫し、沿岸にしばしば被害を与えた荒れ川であった。しかし、平野の大部分はこれによって灌水され、又良質の伏流水は、今治綿工業立地の重要因子ともなった。
 地質的には一帯は花崗岩帯であり、風化がよくすすみ丘陵地は平地化しやすいので市域の狭い今治市の開発対象になっている。
 海岸部は単調な砂浜海岸で、白砂青松の海岸美は観光価値が高いが自然港はなく今治港も人工港である。潮流は来島海峡の小島、馬島、武志島の狭隘部を通過する満干流が、最大六~一〇ノットに達し急流・渦流は瀬戸内海航路最大の難所で海難事故が多発する。しかし反面、高級魚の好漁場を提供し、又史上に高名な村上水軍を育て、海運業振興の遠因ともなっている。
 今治市の生命は、その恵まれた自然的位置にあるといって過言ではない。瀬戸内海のほぼ中央に突出する高縄半島の東端にあって、内海を扼する芸予諸島の一方の基部をなす位置にある。かつて伊予国一四郡のうち越智・野間郡はその中心であり、国府、国分寺・国分尼寺が八世紀なかばに富田・桜井地区に設置されたことや、当時の南海道官道が越智郡を終点としていることなどはそれを表している。古代における畿内と伊予との直接的関係はこの越智・野間郡とのかかわりが最大のものであり、国府、国分寺の立地場所は、現今治市の中でも東部の小独立丘陵である唐子山麓の小ブロック地域が選ばれている。又今治平野は条里遺構もよく残っている。
 中世において越智氏の出といわれる河野氏とのかかわりは極めて深いが、特に南北朝時代には今治地方は主な戦場となり、元弘二年(一三三二)の有名な今治石井浜の戦いがあり、また坂東武士の下向が多かった。唐子山城には、伊予南朝方の統帥として新田義貞の弟の脇屋義助が入城し、大館氏明は今治市東方の世田山城、篠塚伊賀守は笠松山城に拠ったが戦は空しかった。戦国末期、秀吉の四国征伐先鋒の小早川勢との戦いも、越智・野間郡で激しく行われた。
 これらの史実は、すべて伊予国や瀬戸内海における今治の位置の重要性を物語るものである。
 「今治」の地名の初見は、建治二年(一二七六)頃の東大寺の僧凝念に送った消息文にあり、別に「今治の津」とも「今針の津」ともある。太平記には先述の大館氏明の項に「今張」とあり藤堂高虎は居城を「今治」とした。この読みが「イマバリ」か「イマハル」か、「イマハリ」かは諸説はあるが、新しい開拓地という地名の意味するところに変わりはなく、貝塚時代の汀線は、現在の五m等高線に沿うとされるから、以後低湿地開拓がなされた地域なのである。大正九年(一九二〇)今治市誕生の際に市議会で「いまばり」に決定している。
 関ケ原の戦後、加藤嘉明は二〇万石を得て松山に築城し、藤堂高虎も二〇万石で今治城を築城し、伊予は両者によって二分された感があった。高虎は二〇万石の所領を背景に、瀬戸内海海運を掌握する意図のもとに、慶長九年(一六〇四)広大な水辺城をつくり、港湾整備に着手したが在城四年で伊勢に転じた。寛永一二年(一六三五)からは徳川御三家に次ぐ家門の久松氏兄弟が松山と今治に入り、今治久松氏は、三万五〇〇〇石で松山藩に兄事し、幕府でも重用され、また、伊予で農民一揆が最も少なかったといわれる藩政をしき、生活圏としては久しぶりの平穏な藩政時代を過ごした。
 幕末から明治にかけての新時代にあたって再び今治は、その位置的特色を生かして流通と産業革命軽工業にかかわって活動を開始した。
 明治三年(一八七〇)大阪まで押切船で三日半日、同五年帆船で博多まで七日の記録があるように、瀬戸内海をまたにかけての回船活動は、桜井を中心に西日本一帯に対する漆器行商の盛況をむかえ、独特の月賦商法は発展して全国の月賦販売百貨店界を制するに至った。また一方、大阪とのかかわりの中で泉州綿工業を導入し、今治綿ネル・タオルは国策にそって大正・昭和にかけて空前の盛況となり、特にタオル生産は全国の九〇%の生産を誇るようになった。
 これら今治地方人の進取性は、四国最初のキリスト教会の設立や、四国最初の開港場指定ともなって現れ、明治二二年(一八八九)の今治町の成立を経て四国で六番目の都市として、大正九年(一九二〇)に今治市が成立した。
 昭和二〇年、市の中心街を含む市域の八〇%が戦災によって消失するという大打撃を受けたが、復興は着々とすすみ、高度成長期には「タオルと造船の街」をキャッチフレーズに、地場産業の振興はめざましかった。
 現在、構造不況、円高不況のもとに、その打開に懸命に取り組んでいるが、一方、「四全総」に深い関係のある尾道―今治ルート架橋や、近代流通機構に対応する瀬戸内海の流通拠点としてのありかたが、市の将来を占う最重要課題として多角的に取り組まれている。また史跡・景勝の多い地域としての観光政策もその一環となるものである(写2―1)。