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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

七 来島海峡の漁業

 今治市の漁業の特色

 燧灘の沿岸の漁業は、砂泥質の海底に棲息するえび類を漁獲する小型底曳網漁業と、潮流の速い瀬戸に棲息する高級魚を漁獲する一本釣漁業に特色を有する。今治市の南部は砂浜海岸が続き、その前面には浅海底の燧灘が広がっている。一方、市の北部は前面の大島との間に急潮流で知られる来島海峡が横たわっている。今治市には南から浜桜井・美保町・大浜・来島・小島などの漁業集落が点在しているが、このうち浜桜井(桜井漁協)と美保町(今治漁協)は燧灘を漁場とする小型底曳網の漁村として知られ、大浜(大浜漁協)と来島・小島(来島漁協)は来島海峡を漁場とする一本釣の漁村として有名である。また来島海峡の対岸の吉海町の椋名も来島海峡を漁場とする一本釣の漁村である(表2―24)。
 今治市の漁業は燧灘沿岸にみられる二つの漁業形態を共に具備しているのであるが、このなかでも特に急潮流の来島海峡を漁場とする一本釣漁業などに特色をもっている。この項では、来島海峡の漁業に焦点をあてて、その特色を述べてみたい。


 たきよせ漁業

 東の燧灘と西の斎灘を結ぶ幅二・五㎞の来島海峡は、両海域間の干満差が大きく、急潮流で知られる。潮流は一日に四回流れを変える。満ち潮時には北西から南東に流れ、これを南流と呼び、引き潮時には逆に南東から北西に流れ、これを北流と呼ぶ。潮流の速さは六ノット~八ノット程度であるが、最も潮流の速い中水道では春秋の大潮時に一〇ノットを越え、その速さは鳴門海峡をしのぐという。海峡内には五つの有人島と六つの無人島が点在し、さらに大小の岩礁が点在するところから、潮流はきわめて複雑であり、各所に激しい渦流をおこし、島影には反流も生じる。
 この急潮流を利用した漁法として、古くから知られていたのが小島のたきよせ(岩戸)漁業である。この漁法についての昭和初期の最盛期の状況は、日野文雄の論文に詳細に報告されている。昭和一二年当時、小島には間・大谷・鴻の谷・木谷・鴻の瀬の五つのたきよせ漁場があり、たきよせ株を所有する一九戸が、この漁業に従事していた。当時小島の収入の七〇%はたきよせ漁によるものであったという(図2―15)。
 たきよせ漁は満ち潮の北流時に闇夜を利用して操業される。木谷漁場において、たきよせ漁の操業状況を見ると、図2―16のごとくである。海岸から二〇m程度の満ち潮とその反流の境のところに二人乗りの小舟(AとB)が九〇m程度の間隔でアセチレンガスの燈火で、それぞれ集魚する。一方の漁船(B)はやがて燈火を弱め、反流を利用して、集魚した魚と共に寄場といわれる石垣造りの突堤(C)に移動し、そこで玉網で魚をすくい取るのである。一方の漁船が寄場に移動すると、他方の漁船は先ほどの漁船の位置(B)に移動し、漁獲の終わった漁船は他方の漁船の位置(A)に移動するのである(図2―16)。このような方法を順次くり返し、潮流にもまれて自由を失ったいわし・いかなご・えそなどを漁獲する。五ケ所のたきよせ漁の漁場は島の南岸にみられるが、そこはいずれも北流をまともに受け、それにともない海岸ぞいに反流の生ずるところである。
 たきよせ漁は春秋の農繁期に休む程度で、ほぼ年間を通じて行われた。但し、出漁は夜間、日の出ない闇夜に限られるので、旧暦の二〇日~七曰くらいまでの間に行われ出漁期間も月齢に応じて四〇分程度ずつずれていく(図2―17)。
 たきよせ漁は急潮流の天恵を利用した漁法で、きわめて熟練を要するが、誰でも参加できるわけではない。たきよせ漁の起源は判然としないが、藩政時代には松山藩から許可株が与えられ、一戸一株で一一戸のものが出漁の権利を有していた。旧株所有者は前組六株と後組五株に分かれ、集落に近い鴻の谷・大谷の両漁場で漁獲していた。明治維新になって、間・木谷・鴻の瀬の三漁場が開拓され、新たに八株が創設された。新株の八戸は間・木谷で操業し、鴻の瀬は両者の入会漁場であった。
 前組と後組の漁場は一潮ごとに抽選によって決定し、次の夜からは漁場を順次交替し、組内での各個人の漁場も抽選によって決定した。漁獲物は個人有としたが、個人差の大きいときは共有物とした。新株の場合は一潮ごとに組がえを抽選で行い、次に組の漁場を抽選で決定し、次の夜からは漁場を順次交替した。漁獲物は各人に平等配分するのが原則であった。旧株時代の一一株は来島五株・小島六株の所有であったが、昭和一二年当時の三組一九株のなかには、来島の住民は二株しか所有せず、他は小島の漁民の所有であった。昭和初期には、たきよせ漁をするものは主として小島の漁民であり、一本釣をするのは来島の漁民と分化していた。小島と来島の漁民の間では、たきよせ漁をするものは一本釣漁を禁じられ、一本釣漁を営むものはたきよせ漁を禁じられていた。たきよせ漁は急潮流の天恵を利用した漁業ではあったが、それだけに詳細な規約があり、それにのっとった操業がなされていたのである。
 昭和二四年漁業法が改正され、たきよせの株は解消されたが、しばらくは旧来のまま、小島のたきよせ漁業と来島の一本釣漁業は別々の漁家によって営まれていた。しかしながら昭和四〇年頃から、来島で操業していたまき餌の一本釣漁業が衰退するにつれて、一本釣の漁民もたきよせ漁を行い、たきよせ漁の漁民も一本釣を操業するようになってきた。昭和四二年現在、小島と来島を含む来島漁協管内の漁民でたきよせ漁の許可を受けているものは四二人であり、彼等はいずれもたきよせ漁を営む権利を持っていた。
 昭和六〇年現在でみると、たきよせ漁業の漁場は間・大谷・鴻ノ谷の三か所で、木谷と鴻ノ瀬の二つの漁場は大型船の通過などのため操業不能となり放棄された。これらの三漁場で操業できる船の数は、間で六~七隻、大谷で四隻、鴻ノ谷で三隻程度である。現在たきよせ漁を営むものは、小島一七人、来島一一人程度であるが、彼等が常時出漁するのではない。漁場の縮小と漁獲量の減少から、一晩に出漁するものは一〇名程度にすぎない。出漁の希望者は毎夜漁協事務所前に集合し、くじ引きで操業場所を決定するが、操業場所の条件が悪いものは棄権する場合が多いという。
 集魚法は昭和五年頃までは、たいまつを焚いていたが、以後アセチレンガスとなり、昭和三〇年頃からは発電機方式にと変化した。漁獲法も第二次大戦前の手こぎ船の時代のように海岸まで魚を誘導してくるのではなく、沖合でそのまま玉網ですくいとる。これは漁船が動力船となったので、潮流の速いところでも操業に支障がなくなったことによる。漁獲物は二月から五月にかけては、いかなご・大羽かたくちいわし、六月から一一月には小羽かたくちいわし・えそ・たちうお・するめいか・すずきなどであり、一二月から翌年二月にかけては大羽かたくちいわしを主として漁獲する。漁獲物は昭和初期には小島で煮干に加工して今治の問屋に出荷していたが、現在は鮮魚のまま今治市砂場の仲買人などに出荷する。


 馬島の突きよせ漁業

 たきよせ漁業は小島以外に馬島でも行われているが、その起源は大正五年(一九一六)頃と新しく、その技術を小島から学んだという。漁場は島の東西二か所にあり。西岸の宮ノ鼻組では九株九隻が操業し、東岸の松ケ浦組は松ケ浦で七隻、中渡島で一隻、サザエ崎で一隻、計九株九隻が操業し、漁場を交互に交替して操業していた。各漁場における操業場所は小島同様くじ引きで決めていた。漁獲物はえそ・すずき・するめいか・たちうおなどであったが、近年は漁獲量が減少し、昭和五五年頃からはほとんど操業されなくなった。
 馬島でたきよせ漁業より古くから操業されていたのは、突きよせ漁である。これは闇夜に船上で火をたいて魚を集め、メガネから海中をのでいてヤスで突く漁法であり、岩礁の多い来島海峡を特徴づける漁法といえる。通常小船に親子・兄弟など二人で乗りくみ、子供や老人が舵子となって船をあやつり、他の一人が三~五mの竹の棹にさしたヤスで海底の魚を突いて漁獲する。主な漁獲物はたこ・えい・かれい・ぼら・たい・ちぬなどであり、漁獲物は鮮魚として今治市の問屋に出荷される。この漁法も昭和五〇年頃から漁獲量が減少し、現在はあまり操業されていない。

          
 来島の一本釣漁業

 急潮流と岩礁の多い海峡で知られる来島海峡は網漁業はあまり見られず、一本釣漁業の盛んな漁場として全国的に著名である。来島はその来島海峡を漁場とする一本釣の漁村として有名である。来島には戦国時代に水軍の将来島氏の居城があり、その家臣団は附近の海域を制圧していた。伊予の国が徳川の勢力下になると、城主は転封され来島城は廃城となったが、家臣のなかには島にとどまって漁業に従事したものも多い。今日の来島の漁民はその末裔であるという(写真2―12)。
 第二次大戦前の来島の漁場は広大であり、多くの専用漁場・共有漁場・入会漁場を有していた。専有漁場としては、来島・小島付近の海域とその北方の広大な海域をもち、来島北方には一本釣の好漁場下ノ洲があった。下ノ洲の漁場をめぐっては、藩政時代以来付近の漁民の入漁をめぐって、しばしば紛争をおこしている。共有漁場としては、波方前漁場・馬刀潟前漁場・高州漁場(小部の地先)・沖の山漁場(大三島宗方の南方)などがあり、波方・小部・岡村各漁業組合と漁場を共有していた。また大島南岸の立山漁場は、大浜漁協などとの一本釣の入会漁場となっていた。来島がこのように広大な漁場を有し、その権限が強かったのは、戦国時代に来島氏が来島海峡一帯の制海権を有していたことの名残であるといえよう。
 来島は釣専業の漁村であった。その釣漁業は一本釣とまき餌釣に分かれていたが、その主体はまき餌釣であった。まき餌釣は五月中旬から八月中旬と一〇月中旬から一二月初旬の二つの漁期に、島の一八歳~六五歳までの漁民で一つの組を構成した。まき組の加入者は昭和三〇年には三〇名おり、瀬引で餌のいかなごを漁獲するもの(網舟に八人・曳き船に二人)、餌を運搬するもの(一人乗の船で四~五隻)、釣船で餌をまきながらそれに集まるはまち・たい・あこ・すずきなどを釣るもの二~三人乗の船で四~五隻)、さらに漁獲した鮮魚を沖で待機する鮮魚運搬船に売却するもの(二人)に分かれ、一日の水揚高を組の加入者で均分した。釣場は大角鼻の北方のバンヤの礁や小島北方のマナゴの礁であり、ここに築き礁を造り、まき餌に集まる魚を釣りあげた。来島はいかなごの宝庫下ノ洲を持ち、一本釣の餌料が豊富に入手できたことが、このまき餌釣を可能にしたのである。
 しかしこのまき餌釣も、宇和海ではまち養殖が盛んになり、はまちの稚魚がモジャコの形で漁獲され、成魚が回遊してこなくなったこと、他地区の漁民が底曳網で盛んに漁獲するようになり漁場が荒廃したことなどによって衰退し、昭和四二年にはまき組に属するものは一〇名となり、昭和五五年頃からはほとんど消滅してしまった。
 昭和六〇年現在、来島には三三戸の家があるが、うち漁業を専業で営むもの一四、兼業で営むもの五で、他は波止浜の造船所で働いたり、老齢化して漁業に就業できないものとなっている。主な漁業は一本釣・たきよせ漁・採藻などであり、他に建網やいかなごの袋待ち漁をするものもある。かつて来島海峡随一の一本釣の技術を誇ったという来島の漁民も、都市化の波にのまれ、次第に漁業から撤退しているといえる。


 大浜の一本釣漁業 

 来島海峡にのぞむ大浜は典型的な一本釣漁村である。昭和五七年の漁業種類別経営体数は一三一あるが、うち八九%にあたる一一六経営体が一本釣を営む。同年の魚種別漁獲高をみると、まだい二五%、くろだい八%、かさご一八%などが主なものであり、これらはいずれも一本釣で漁獲したものである(図2―18)。
 大浜漁民の一本釣の漁場は来島海峡の岩礁地帯であり、そこに二〇か所程度の釣り場かある。他に遠くは比岐島周辺や四坂島周辺の岩礁地帯にも大浜の一本釣の漁場がある。これらの漁場は、漁場ごとに海の深さ、底質、潮の流れが異なり、そこに生棲する魚種やその漁獲時期にもちがいがある。漁民の出漁する漁場には特別の規制はないが、漁民各自にはそれぞれ得意とする漁場があり、おのずから出漁する漁場は決まっている。
 大浜の一本釣漁民は、大きく分けてイカリやりとアラやりに大別されるという。イカリやりは潮流の流れている時に漁獲できるたいやすずきを主として漁獲する漁民であり、アラやりはトロミといわれる潮流の止まっている時によく釣れるあこやほごを主として漁獲する漁民である。一本釣の技術は親から子供にと伝授されるので、イカリやりの漁民の子供はイカリやりを継承し、アラやりの漁民の子供はアラやりを継承するのがほとんどである。たいやすずきを釣るのと、ほごやあこを釣るのでは、たいやすずきを釣る方が難しいので、遊漁船はほごやあこを主として漁獲する。したがってイカリやりは一本釣専業がほとんどであるのに対して、アラやりは遊漁船を兼業とするものが多い(写真2―13)。
 一本釣の漁民は一トンから一・五トンの動力船に一人で乗りくんで出漁する。出漁時刻は日の出前であり、東の空が白みかける前には漁場に到着している。アラやりの漁民は潮の流れの速いときはすずきを釣り、トロミにさしかかったり、トロミから潮が流れだすときにたいがよく釣れるのでたいを釣る。漁船は常に潮に流されるので、しばらく潮に流されながら釣っていくと、また元の位置にと船をもどして釣を再開する。船は潮流や風に速く流されるのを防ぐため、潮流に対しては船舵で、風に対してはとも帆で、常に潮流や風に対して船の方向が平行になるようにたしかめつつ魚を釣っていく。したがって漁民は右手で船舵をあやつり、左手一本で釣糸をたぐりながら、漁獲を続けていく(図2―19)。漁船の帰港時間は潮流の関係で異なり、午後一時頃から七時頃までと月齢によって異なる。イカリやりもアラやりも、トロミまたはその前後が最も重要な漁獲の時間帯であるので、一日の出漁時間は、二回のトロミをおえて潮の流れが急流になると帰港するのである。このように長時間漁場にいるので、漁民は必ず弁当を持参するが、昭和三〇年頃までは船にこんろをすえつけ、そこで調理をして食事をとったという。
 たいの餌はみみいかであり、あこやほごはえびを餌とする。みみいかは一本釣りの漁民が自家用餌料びきで漁獲するものであり、えびは大浜の小型底曳網の漁獲したものを購入する場合が多い。漁船には生簀がしつらえられているが、これは漁獲した魚を入れると共に餌を活かして入れておくところである。みみいかもエビも生きた餌を釣針につけて漁獲するのである。
 漁獲された活魚は漁協に出荷されるか、地元の大浜の五人の仲買人に出荷される。漁協に出荷されたものは、一たん漁協の生簀に貯えられたのち、その日の夜行便で活魚のまま尾道や岡山の魚市場に出荷される。地元の仲買人の出荷先は主として県内市場である。現在漁協と仲買人の取扱量は相半ばするといわれている。たいは活きたうちに料理しないと味が落ちるといわれるが、来島海峡は漁獲したたいを、活魚のままで大阪まで運搬できる距離にあることが、たいの漁獲を有利にしている一要因にもなっているという。         


 椋名の延縄漁業
         
 来島海峡の東岸に位置する椋名は、古くから一本釣と延縄漁業の漁村として知られている。昭和五七年の漁種別経営体数によると、一本釣六六、延縄一七であり、他に小型底曳網五、刺し網四となっている。この漁村の延縄漁業については、田和正孝の詳細な論考があるので、それをもとにこの漁村の延縄漁業について紹介したい。
 延縄は浅海部の海底の岩礁間に棲息する魚種を主として漁獲する。主な対象漁獲物は、ほご・たもり・あなごが主なものであり、ほごは主として一一月から四月の間に、たもりとあなごは主として五月から一〇月の間に漁獲される。来島海峡における椋名の延縄漁場は二一か所もあるが、そのうち二〇か所は起伏に富んだ岩礁で、浅い漁場で一〇~四〇m、深い漁場で一〇〇mにも達する(図2―20)。延縄を入れる時期はトロミといわれる潮流の穏やかな時間に限られるが、干潮時のトロミの利用できる漁場、満潮時のトロミの利用できる漁場、干・満潮時両方のトロミの利用できる漁場など、漁場によってその操業時期が異なる。それは干潮時にトロミができる漁場、満潮時にトロミができる漁場と、漁場によって違いがあることを反映するものである(表2―25)。
 延縄を行う漁船は、二・五トンから四トン程度で三人くらいで操業するオオナワと、二トン未満の漁船で一~二名で操業するコナワがあるが、一隻の漁船に乗り組む者は親子・兄弟・夫婦など、家族か近親者で操業するものが多い。一回の出漁で使用するナワバチは、オオナワで三四~三七程度、コナワで一〇~一八程度である。潮流を見さだめて出漁する延縄漁船は、漁場に到着すると、一ハチに収められた長さ一五〇m程度の縄を順次入れていく。一つの幹縄には長さ一・五~三m程度の釣針のついた枝縄が三〇~五〇程度ついており、枝縄六~七本に一個の割で自然石の沈子がついている。幹縄には発泡スチロール製の浮標がついており、最後の縄の投入を終えた漁船は最初の浮標のところに到着し、順次縄を上げていく。魚は一尾ずつ釣針からはずし、生簀の中に入れて漁港に帰ってくる。海上での実働時間は二時間程度であるが、出漁に際しての諸準備を含めると一〇時間程度もかかるので、一日に出漁できるのは、三~四回あるトロミのうち、一回のトロミを利用して操業するのである。漁場は二一か所のうちどこへでも出漁できるが、出漁を重ねているうちにおのずと自分の縄張ができ、一つの漁船の出漁する漁場は三~五か所程度であるという。
 渦浦漁協管内で漁獲された魚の七〇%程度は漁協に出荷され、残りは個人で今治の問屋などに出荷される。漁協の集荷した魚は、生簀に蓄養されたのも、活魚のまま三原市の魚問屋に買い取られ、夜行便の鮮魚運搬船で中国路にわたり、そこから京阪神方面に出荷されるものが多い。渦浦漁協管内で漁獲された魚は、翌日には京阪神の市場に出荷されることになっている。

表2-24 今治地区の漁協別・漁業種類別経体数

表2-24 今治地区の漁協別・漁業種類別経体数


図2-15 今治市小島のたきよせ漁場

図2-15 今治市小島のたきよせ漁場


図2-16 今治市小島木谷漁場におけるたきよせ漁

図2-16 今治市小島木谷漁場におけるたきよせ漁


図2-17 小島におけるたきよせ漁の操業時間の変化

図2-17 小島におけるたきよせ漁の操業時間の変化


図2-18 今治地区の漁協別魚種別漁獲高の構成比(昭和57年)

図2-18 今治地区の漁協別魚種別漁獲高の構成比(昭和57年)


図2-19 今治市大浜の一本釣漁の主な漁場

図2-19 今治市大浜の一本釣漁の主な漁場


図2-20 吉海町椋名の延縄漁場分布図

図2-20 吉海町椋名の延縄漁場分布図


表2-25 吉海町椋名の延縄漁場の性質

表2-25 吉海町椋名の延縄漁場の性質