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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

一 今治市の繊維工業

 白木綿の時代

 今治地方で白木綿織物が自給の域をぬけ出し、商品化したのは享保年間(一七一六~三五)である。今治の商人柳瀬忠治義達は、今治地方で織られている白木綿が、大阪地方でよく売られているのを知り、自己の利殖をはかるとともに、今治地方の産業を振興させることを意図して、小幅白木綿の製造販売を始めた。それは、商人の仕入れた実綿と婦女子が織った白木綿とを交換し、大阪方面に売るという方法で「綿替木綿」と呼ばれた。原料の実綿は、和泉・讃岐方面からの仕入れが多く、今治地方での生産量は需要の約一割程度だったといわれている。この綿替木綿の形式はマニュファクチュア、すなわち工場制手工業である。
 天保八年(一八三七)頃、今治町人深見理平が綿替木綿を営むようになってから、これを見習う者が多く、阿部平造(タオルの創始者阿部平助の祖)、八木治平ら五~六名がさかんに綿替木綿を営み、大いに発達した。こうして、今治地方の庶民中、婦人で木綿製織に従事しない者はほとんどなく、一方、綿替木綿商も続々とおこり、天保一四年(一八四三)に至る一一年間の生産量は平均三〇万反におよんだ。その後、粗製乱造で、せっかく高めた伊予木綿の名声も落ち込んだので、文久二年(一八六二)に資力の豊かな商人一八人を指定して藩の監督のもとで生産させて大阪に移出させた。これによって白木綿業は大いに振興し、明治初年には四〇万反に達し、当時の伊予木綿の商標には、今治藩主の紋章梅鉢崩しが用いられた。
 明治維新後は同業者の数は激増し、さらに紡績糸を使う播州地方の優良低廉な製品が大阪市場に現れ、一方、海外からは目を堅く細く織った薄い広幅の金巾が輸入され伊予木綿は衰退の一途をたどった。そこで柳瀬誠三郎・田坂亀二郎らは明治二一年(一八八八)紡績糸を移入して織らせ、生産の回復をはかった。彼らは翌二二年に今治洋糸木綿大同組合を設置し、粗製乱造を厳しく監督し、織子を奨励した結果、品質も向上し、大阪市場での声価を再びあげた。さらに彼らはこの年に伊予木綿㈱を組織し、品質の保持と規格の統一に重点をおいて、洋紡糸の国産紡糸化や櫓機・機械筬の使用による織立の迅速化によるコストダウンを実行した。これに明治二七・八年の日清戦争による軍需用包帯木綿としての需要増加も加わり、伊予木綿史上最高の五〇〇万反近くに達した。この伊予木綿は財界不況と価格の大暴落で明治三六年に解散したが、この事業は阿部光之助・深見理平らによって丸今綿布(合)として継承され挽回に努めた、時あたかも日露戦争による軍需の増大と相まって明治三七・八年には三〇〇~四〇〇万反の生産をあげた。しかし、戦争が終わると白木綿の需要は年々減少し、大正一二年(一九二三)には、今治地方唯一の白木綿製造業者であった同社も、ついに綿ネルその他の広幅織物だけを製織するようになり、綿替木綿以来二〇〇年余の歴史をもった伊予木綿の生産も、今治地方では跡をたった(表2―30)。
        

 綿ネルの時代

 明治一〇年代に入り、従来の白木綿が、輸入金巾や先進地の洋紡糸の木綿に押されて極めて不振におちいった頃、野間郡(現大西町)宮脇出身の矢野七三郎は、白木綿に代わるべき産業として、当時流行した紀州ネルに着眼し、和歌山から技術を導入して、明治一九年(一八八六)三月に柔らかい厚手の綿織物の綿ネルの製造を開始した。これが今治地方における綿ネル製造のはじめである。この仕事の目的が、今治地方の産業の興隆であったので、工場を興業舎と名づけた。矢野七三郎の綿ネル創業に刺激され、綿ネル製造に努めたのは、村上熊太郎で、彼は明治二九年に村上綿練合資会社を設立し事業を拡張した。矢野七三郎の興業舎を継いだ柳瀬義富は、規模を一新し、製品を改良して優美で堅牢な綿ネルとして名声を博した。明治二八年に伊予綿ネル業組合が設立され、販路の競争や最新式の機械の導入への努力をし、大正末期にはほとんどの工場が機械化され、綿ネル業界の産業革命がなされた。
 綿ネルは長らく紀州ネルの模倣であったが、村上熊太郎は前晒の純白綿糸を綾織し、片面だけを起毛した白綾ネルの製造と宣伝につとめた。これは当時の紀州ネルや西陣ネルとは異なり、今治独特のものであった。堅牢な織物で、蒼社川の分流泉川の水を使っての漂白はとても鮮やかで、他の追随を許さず、各市場で大いに歓迎された。大正年間に入り、第一次世界大戦による好況を迎えると事業は著しく拡大され、輸出の増大により価格も上昇し、大正六年(一九一七)には一八五万反、一〇〇〇万円強となった。
 以上のように伊予綿ネルの発展した要因は、①今治の泉川の水質がよく、綿糸の漂白や染色に適した。②織物の片側のみを起毛した片毛の白ネル、いわゆる片毛ネルという特殊な製品を工夫して製織し販路を開拓したこと。③労力が多く、しかも農業と綿織物業以外に大きな産業をもたなかった当地方としては、比較的安い賃金で、綿替木綿以来培われてきた織物になれた労働力を利用できたこと。④瀬戸内海のほぼ中央に位置し、阪神方面への船便が多く、また西四国の北端に位置して中国方面への船便が多く交通が便利であること。⑤当時、一般衣服として綿ネルの需要が多かった。などであるが、昭和五・六年には世界恐慌の影響をまともにうけ、価格は急落し、伊予ネルに転期がおとずれ、広幅織物がこれにとって代わりはじめた。その原因は、①時代の推移と生活様式の変遷に伴い、足袋裏地として使用されたネルの需要が減少した(靴下への変化)。②足袋の大手メーカーが自社工場で自給体制をつくった。③中国の上海で綿ネルが製造されるようになり、輸出量が減った。④メリヤスの製造、需要の増加は綿ネルの需要の減退をまねいた。⑤今治地方の綿ネル業者は、資力が弱く中小規模の経営で、織機の改善や合理化が遅れた。などであった。こうして伊予綿ネルの黄金時代は過ぎたが、なお伝統の力は衰えず、昭和一二年の生産高は一二六万反で、今治地方の織物生産額の三二%、全国綿ネル生産高の一六%を占め、大阪に次ぐ全国第二位の地位をほこっていた。しかし、その後は海外における需要の減退や輸出途絶、戦後の綿ネル需要の減少となり、今治の綿業は、白木綿・綿ネルの時代から、綿ネル・広幅織物・タオルの時代へ、さらに広幅織物・タオルの時代、そして広幅織物とタオルが逆転してタオル・広幅織物の時代へと変わっていった(表2―31)。


 広幅織物の勃興

 伊予綿ネルの最盛期は大正七・八年であるが、これに代わって昭和初期には広幅織物が今治綿業を代表するものとなった。その要因は前述したが、綿ネル織機の過剰問題の打開策として、綿ネル織機による広幅織物の製織がおこったのである。換言すれば、綿ネル業者の副業としてスタートしたものである。ところで、この傾向がみられ始めた大正初期の国内市場は狭くて、製品の過半は輸出に向けなくてはならなかった。広幅織物の中での主製品は三綾・大正布・五彩布などであったが、これらは第一次世界大戦により、当時の世界的綿工業国イギリスの綿リンネルの代用品として東南アジア・インド方面に輸出できるようになり、生産額は異常に増加し、今治地方の三綾は、一時全国第一位を占める盛況であった。しかし、第一次世界大戦後の不況、昭和初期の世界恐慌の影響でまもなく広幅織物業界は不振にあえぐこととなった。この時(昭和五年)、今治織物工業組合が結成され、播州・泉州・和歌山などの組合と共に統制への機運があがり、一定期間の生産量を定め、製品の検査は輸出品取締法に基づいて行った。これにより再び輸出広幅織物に活気がよみがえったが、各国の関税引き上げや外国の好みの変化により再び輸出不振となり不況にあえいだ。また、昭和一〇年代の広幅織物業界の欠点として、綿ネル専用織機で副次的に広幅織物を織るところに根本的な無理があった。先述の綿ネルは今治独自の片毛ネルを製織して特産地としての地位を築いたり、後述のタオルは先晒単糸タオルという今治独自の製品を出したことなどに比較して、広幅織物は織機の改善も行わず、今治独特の製品もなかったことなどが、この業界の不安定を招いた原因としてあげられる。
 第二次世界大戦後の広幅織物業界は、経営規模の大きかった阿部・丸今綿布・木原興業など主要工場が罹災をまぬがれたので(織機の罹災率三七%)、タオルに比べて復活が早かった。昭和二五年に朝鮮動乱が勃発すると、タオル業界と同じく糸へん景気がおとずれ「ガチャ万」と呼ばれるほど利益が多かった。しかし、朝鮮動乱終結と同時に綿布は生産過剰となり、二七年には操業短縮が実施され、以後、度々操業短縮を実施せざるをえなくなった。その原因として、①今治以外の戦前からの広幅織布の機業地のほとんどは、生産設備の復元が早く、戦後一〇年で戦前の水準を回復し、綿布の生産量が増加した。②戦前の日本の綿布は約半数が輸出にまわされていたが、戦後は海外の発展途上国の綿工業化が進み、輸出量が減少した。ことなどがあげられる。もともと広幅織布は、タオルと異なり加工工程が簡単で製織しやすく、かつまた、一品種当たり需要量も多く大量生産が可能で、織機も自動化しやすい。したがって、タオルよりも製造の手間がはぶけるので付加価値は少ないが、経営規模を大きくし、大量生産することによって利益をあげることができる業種であった。ところが、今治地方の当業界はあまりにも経営規模が小さく、二九年以後は毎年のように設備の転廃がはかられた。特に昭和四三年からは慢性不況打開のため、業界一丸となって構造改善事業によるスクラップアンドビルドを開始し、五年間で織機を半減させた。このことは生産量の推移にもあらわれ、三二年には三九一五万平方mであったのが四六年には一六五〇万平方mに減少した。輸出の方も三四年頃までは約半数を輸出していたが、以後減少の一途をたどり四六年には二〇%となった(表2―32)。


 縫製業

 今治地方における縫製業は、明治二八年(一八九五)綿ネルメーカーの興業舎が縫製部をつくり、足踏ミシン一五台を備え自社生産の織物の端切品で農村向けシャツ・パッチなどを生産し、販売したのがはじまりである。その後、大正一二年(一九二三)伊予産業が足踏ミシン約一〇〇台を備え、福岡市に支店を置いて九州地方に販路を開いた。大正六・七年頃からは作業衣・学童服が製造されていた。大正末年頃には大小一〇〇余の縫製工場が設立され、動力ミシンを稼動させた。家内工業的な下請工場も多数存在し、製造問屋は生地を仕入れて裁断し、下請けの縫製業者に渡し、業者は縫製加工して問屋にかえし、加工賃を受け取り、問屋はそれを販売した。
 昭和一〇年、今治被服工業組合が創立された。この頃の販路は北海道から九州までの全国一円におよび、さらに朝鮮半島・台湾・中国・満州にまで進出していた。戦時中は軍服・作業シャツなどを生産していた関係で企業整備はなかった。戦後は広幅織物やタオルのように設備制限がなかったので復興ははやかった。今治地方の縫製加工業の特色として、①長年にわたる熟練者が非常に多かったこと、②労働力が比較的豊富であったこと、③技術については各業者が熱心で、東京・大阪方面の優秀品を取り寄せてよく研究し、機会あるごとに優秀な技術者を招き技術研修をしたこと、④製品の検査を厳格に行い、製品の質の向上に努力したことなどにより、他の地域に比べそん色のない製品を生産できたことである。昭和二四年頃の主な製品は作業衣・学童服および布帛製品であった。二八・九年頃には輸出用一ドルブラウスの加工が増し、利益も多く、三一・二年頃まで生産高は伸びた。三一年に愛媛県輸出縫製品組合が組織され、設備を近代化し能率をあげ、コストの軽減をはかった。三四年当時、今治の輸出縫製業は全国第四位であった。
 内需縫製業者も、従来の衣料品製造卸組合を三一年には協同組合組織に、さらに三四年には今治縫製工業協同組合と名称を変更し業者の自覚を促した。市場の好転により販路は拡大され、三七年に同組合は、今治市から森見公園の一部の払い下げを受け、一七戸の問屋が軒を連ねる繊維問屋街を建設した。縫製業は、広幅織物・タオル工業にもまして、その労働集約性は高いが、労働生産性は低く、安い賃金の女子労働力に依存する傾向が強い。いきおい家内工業的なものや家庭の主婦の内職に依存するものが多い。昭和三〇年代後半からは労働力不足が起こり、東予や中予の家庭にまで内職家庭を拡大していった。四〇年代に入ると労働力不足は益々深刻となり、南予地方に工場を移したり、分工場を置く業者が増加した。その際、過疎化で廃校となった学校を縫製工場に転用し、付近の農家の主婦を雇い生産を続けている。
          

 綿紡績工業の変遷 

 今治地方における綿紡績工業は、明治二六年(一八九三)一二月に柳町(現在の旭町一丁目、今治警察署付近)に伊予紡績㈱が設立されたのが始まりである。当時の紡錘数は四〇〇〇錘、技術は幼稚で業績は振わず、明治三六年(一九〇三)に福島紡績に買収され、同社の今治支店となった。大正七年(一九一八)には今治紡績合名会社と改称し、翌八年に今治紡績㈱と改称し、資本金を三〇〇万円とした。しかし、第一次世界大戦後の不況で、同一二年に大阪合同紡績㈱の経営に移り、同社の今治工場となった。紡錘数は一万四六三二であった。大阪合同紡績は、昭和二年四月に蒼社川河口の北側の天保山に紡錘数三万六三六〇の新工場を建設し、柳町工場を今治第一工場、天保山の工場を今治第二工場と称し、両工場合わせて、紡錘数は五万九九二となった。なお、大阪合同紡績は、昭和六年に東洋紡績と合併して東洋紡績㈱と改称した。
 昭和九年、今治市長村上紋四郎や木原茂ら綿業界有志は、長崎紡績㈱の工場増設計画を知り、誘致運動の結果、市内石井・大新田にまたがった地域(現在の今治市営球場)に誘致することに成功した。同一一年に紡錘数三万四〇〇を備えた長崎紡績今治工場として稼動した。同一三年、国光紡績今治工場と改称し、三万二四〇〇錘となり、年産一万梱の綿糸を生産するようになった。これで今治市の綿紡績紡錘数は八万三三九二となり、広幅織物・タオルとともに、綿業今治の一分野をになうようになった。国光紡績は同一六年に倉敷紡績に合併し、同工場は倉敷紡績今治工場となり、長崎にあった三万錘の設備を今治に移し、当初の計画通りの六万錘の大工場となった。
 今治市に紡績工場が三つも立地した要因として、今治地方には綿工業が発達しており、綿糸の需要が多かったことと、紡績に必要な清水があり、海陸の交通も便利で、原料の綿花や燃料の石炭、動力の電力が得やすく、農漁村の女子労働力の募集に便利であったことなどがあげられる。
 第二次世界大戦が激化した昭和二〇年一月、市内の三つの紡績工場は、すべて軍需工場に転換せられた。例えば、東洋紡績の二工場は統合して今治航空工場と称し、軍用航空機の翼を製造する工場となった。戦後はもとの東洋紡績今治第一・第二工場として復元され、二三年四月には第一工場は一万四〇〇〇錘、第二工場は四万二四○錘の設備となった。しかし、八月五日の空襲で焼失した倉敷紡績は戦後になっても復元せず、二八年の第八回国民体育大会の野球会場とするため、今治市に買収された。
 東洋紡績今治第一工場は、昭和三三年、合理化のため閉鎖され、敷地三・三万平方mは後に今治市と今治繊維工業会が折半して買収した。一方、天保山の第二工場は東洋紡績今治工場と改称され、今治市の紡績工場は一工場のみとなり、四八年の紡錘数は三万二一二四で一月当たり二四七〇梱の生産をしていたが、六〇年には一四五〇梱と縮小された。現在の製造品は四番から三〇番の各種タオル用原糸が主で地元のタオル業界に供給している。こうしたなかで、最近はパキスタンや韓国などからの安い綿糸輸入が急増し、採算が悪化したため、東洋紡績は紡績事業の体質強化策の一環として、綿紡績の今治工場を六一年六月末をめどに閉鎖することを発表した。

表2-30 今治地方の織物生産の推移

表2-30 今治地方の織物生産の推移


表2-31 今治地方の繊維工業のあゆみ 1

表2-31 今治地方の繊維工業のあゆみ 1


表2-31 今治地方の繊維工業のあゆみ 2

表2-31 今治地方の繊維工業のあゆみ 2


表2-31 今治地方の繊維工業のあゆみ 3

表2-31 今治地方の繊維工業のあゆみ 3


表2-31 今治地方の繊維工業のあゆみ 4

表2-31 今治地方の繊維工業のあゆみ 4


表2-31 今治地方の繊維工業のあゆみ 5

表2-31 今治地方の繊維工業のあゆみ 5


表2-32 東予地方(今治・越智・周桑・西条)の織物生産高と輸出の推移

表2-32 東予地方(今治・越智・周桑・西条)の織物生産高と輸出の推移