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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

二 今治市の都市化と都市圏

 今治町の成立

 慶長八年(一六〇三)に行われた今治の町割は風早町・中浜町・片原町・本町・米屋町・室屋町の六町であり、四町四方の中に整然と短冊型に区画されていた。面積は約〇・八九平方㎞であり、人口は寛永一三年(一六三六)には武士を除いて三八九二人であった。
 以後延宝年間(一六七三~一六八〇)に、この区画の外に新町・北新町が新しく設けられ、天保九年(一八三八)には人口は六〇三二人となり、町人だけで五一七四人に増加しているのは町方部分の発展を示している。
 明治一三年(一八八〇)の『越智郡地誌』によればこの藩政時代の今治町の商業戸数八九六戸、工業戸数三八七戸で、貞享元年(一六八四)に町内に住んでいた五六三人の農民は、僅かに一四戸に減っており都市化の実態がわかる(表2―62)。
 この今治町方を囲む形の今治村は、貞享元年に人口一〇六四人とあるが、明治一三年には四〇二八人に増加しており、町方からの商家のはみだしや、町方内百姓の事実上の支配など境界不鮮明な近郊状況が続いていた。そして、この実態に即して合併し明治二二年(一八八九)に町制が施行され人口一万八四三二人の今治町が成立した。新しい商業地は一~四番町、金星町一~四丁目、常盤町・栄町一~四丁目、住江町一~二丁目等であり、明治四三年には町役場が本町より移転し、現在の市役所付近を中心とする官公庁地帯も、この今治村に立地したものである(写真2―29)(図2―40)。
 これより先、明治政府による地方行政区画はめまぐるしく変更され、明治四年(一八七一)の今治県設置は同年に廃されて松山県への併合(小松・西条県と共に)となり、明治五年(一八七二)には石鉄県と改称され、そのほぼ中央にあたる今治に県庁が移されることになった。そして翌六年一月、今の通町にあった今治藩庁跡の啓巳学校が県庁とされ移転が行われた。しかし同年二月には、はやくも石鉄県は南予の神山県と合併して愛媛県が成立し、県庁は再び松山へ移った。
 このことは、今にしていえば行政区画決定混乱期の珍事であるが、当時としては今治市の命運を決定する一大事で町民の落胆は大きかった。
 以後今治市は越智・野間郡の生活圏の中心として、また興隆期に入った綿工業や従来の商業活動を基盤に、地方都市としての地道な発展を続けることになった。

        
 今治市の成立
        
 この今治市の成立に対し、同町を囲む郊外地帯の日吉村・蔵敷村・別宮村三村が、同じ明治二二年(一八八九)に合併して新しい日吉村が成立した。旧日吉村は、旧日吉郷の中心であったところで野間街道に面し、合併後の日吉村の面積の約2分の1を占めたが純農村地帯であった。これに対し蔵敷村は、旧城地の多くを提供させられていた村であるが明治二年(一八六九)後、旧城地は再び蔵敷村所属となった。武家屋敷の大半があったところで、明治二七年(一八九四)には郡役所が、同三三年(一九〇〇)には裁判所が移転し、綿工場も阿部会社や興業舎などが明治末期までに立地し都市化がすすんだところである。明治四年(一八七一)の人口一五二一人が、大正四年(一九一五)には四五五七人に増加し、新しい日吉村の約七割の人口を占めていた。旧別宮村は、農村地帯であったが別宮大山祇神社、南光坊・黒生教会など寺社が多かったところである。
 この日吉村が今治町と合併し大正九年(一九二〇)全国で七五番目の市として、人口三万二九六人、面積八平方㎞の今治市が発足することとなった(図2―40)。特に面積は約六倍となり、市の発展は日吉村を中心とする、西部の平野部に向かうことになった。大正九年まで大字蔵敷にあった県立今治中学校が大字日吉に、又今治技芸学校(現明徳高校)が昭和五年青木通に、県立今治女学校が昭和六年に大字今治村から大字日吉に、それぞれ敷地狭小の理由で移転したのはその前駆現象といえる。
 以後の合併は昭和八年の近見村と昭和一五年の立花村とである。今治市はすでに昭和二年に県下で最も早く都市計画法の適用をうけ、昭和四年には隣接する近見村・立花村・旦局村が都市計画区域として決定されていた。この頃は今治綿工業の最盛期で生産は二〇〇〇万円に達し、その半額の約一〇〇〇万円が輸出されるという状態で、狭小な市域の中で新しく市街化されるほとんどは、無計画な工場群の建設というスプロール状態であったためである(写真2―30)。
 近見村は市の北に接し、今治藩政時代の交通関係も密接で浅川川口の市営貯木場などもあり、又浅川海水浴場、近見山・糸山の景勝地も含んでいたので新しくレジャー市域ともなった。
 立花村は市の南部に接する村であるが市内からの綿工業が進出し、市内への労働者の通勤も多かった。昭和五年には市内と通ずる蒼社橋が、同一一年には郷橋が近代化され、より近郊性を強くしていたものである。蒼社川は小河川(下流幅約一一〇m)ではあるが、今治市と川の東部とを限る意味が築城当時からあったもので、その右岸一帯が市域になったことは、河南平野一帯(富田村・清水村・桜井町)が、将来市域化することも予見するものであった(図2―41、表2―63)。


 戦災と新都市計画

 今治市は太平洋戦争で昭和二〇年四月二六日、五月八日、八月五~六日の三回空襲を受け、特に八月五~六日の空襲では全戸数の七五・六%にあたる八二一二戸が失われ、又全人口五万四三四一人のうち六三%にあたる三万四二〇〇人が罹災し(図2―42)、死者は三四〇人であった。この為罹災者は隣接町村に疎開し、一時的に人口は三万九二八四人に減少した。復興計画は昭和二年の都市計画に加えて、将来市街地人口一〇万人の商工業都市建設を目標に隣接町村との連携の強化をふまえ、交通量の増大に対応する整然たる道路網の建設や防災、公園緑地、墓地、下水道、町名番地整理等多面に及ぶものであった。特に今治駅―今治港の連絡、日高・玉川方面との結合を密にする東西線の充実や、二三八haの区画整理区域の決定などは時宜に適したものであった。この結果公共用地面積は施行前の一三・六%に対し二九・六%と増加した。


 十万都市の建設

 昭和二五年、自治体統合について国の地方行政調査委員会からの勧告もあって、今治市も市十万都市の建設 町村合併委員会をつくり、昭和三〇年に桜井町・波止浜町・清水村・日高村・富田村・乃万村が合併して、人口九万六六五四人の十万都市が誕生した。この時の合併町村人口は桜井町九七五五、波止浜町九九五〇、乃万村五五一二、富田村四八六五、日高村三一八〇、清水村三〇八七の合計三万六三四九人であり、新市人口の約三八%を占めるものであったが、特に市面積は約四倍に増大することになった(図2―40)。
 この新市域は今治市を半円的に取り巻く地域で乃万、日高・清水・富田の各村は近郊農業地域として、また波止浜町と桜井町は、すでに合併時人口はそれぞれほぼ一万人に達しており、将来市街地としての連結を期待できるものであった。なお、波止浜町は造船業や木材輸入港として市の生産活動の拠点となり、桜井町は史跡や景勝地が多くレジャー地帯の中心となるものであった(図2―41)。


 市街化地域とドーナツ現象

 今治の市街地化は、一般的にいって南北方向を主体として行われたといえる。これは旧六町の町割が城郭に向かって南北方向になされ、新町・北新町への発展も同方向であった。大正期に入っても、西条街道(現国道一九六号)ぞいに市街地化がすすんでいった(図2―41)。
 そして大正一三年(一九二四)、国鉄予讃線が当時の今治市域のほぼ中央部を南北方向に開通すると駅方向(西方向)にも市街化がすすみ厚味を増していった。ところが次の段階として市街地化が鉄道によって阻害されるようになり、今治駅を中心として北の乃万街道と常盤町通り(国道三一七号)の間、約六五〇mは鉄道を縦断する道路が一本心ないことになった。そして所謂、駅裏地帯を形成すると共に、玉川町に至る唯一の東西道路である現在の国道三一七号の一部の常盤町通りが急速に商店市街地化していった。そして、国鉄駅と港湾を結ぶ東西路線である通称広小路(主要地方道今治港線及び一般県道今治停車場線)も中心道路の一つとなった。
 当時の関係者は、市街地の発展も駅前付近までと考えていたのではないか。鉄道は地形的にもっと西側に迂回し、現在の今治北高あたりから郷橋付近を通ることも可能であった。発展の遅れた駅裏地帯の再開発や、長期にわたり道路交通の渋滞をおこした鉄道との平面交差の立体化は現在取り組まれている市の重要課題である。
 今治の人口集中地域面積は昭和三五年には六・二%であり、人口五万八四八三人、密度九四三三人であったのが、昭和五五年には面積一一%、人口六万三〇九一となっているが、人口密度は五七三六人と減少し、人口のドーナツ現象を呈している。五五年の人口集中地域は旧市域と近見・立花地区のほとんどを含む地域がそれにあたり、特に蒼社川を越えた南部への伸びが著しい(図2―41)。
 校区別の人口の増減率を昭和三五年と六〇年で比較すると、中心街の美須賀・今治校区は約2分の1が域外に流出しており、日吉地区がこれに続いている。これに対し増加率の高い鳥生・立花地区は二倍以上の増加を示している。次いで富田・日高地区がその外周部としてそれぞれ一・三倍となっている。国分・清水校区が高いのは大規模団地の造成による急増であり、総じて蒼社川以南の「河南地方」が増率が高いのは広い平地面積のある近郊だからである。城東校区は昭和五〇年頃は人口の減少地域であったが、最近の五年間では逆に五%の増加を示している。これは新港湾、新工業団地の造成による都市再開発の結果である(図2―43)。
 近い将来の宅地造成対象地区は、南部の桜井校区と西部の野間校区である。また隣接町村の玉川村・朝倉村との接界地帯の一部にもマンション団地の造成がみられ、これは波方町・大西町の一部も加えた今治広域都市計画区域開発の始動といえる。

表2-62 明治13年の旧今治8町と隣接村の職業別戸数

表2-62 明治13年の旧今治8町と隣接村の職業別戸数


表2-63 今治市の拡大と人口面積の増加

表2-63 今治市の拡大と人口面積の増加


図2-41 今治市の市街地の拡大

図2-41 今治市の市街地の拡大


図2-42 太平洋戦争での戦災焼失市街地(昭和20年8月4~5日)

図2-42 太平洋戦争での戦災焼失市街地(昭和20年8月4~5日)


図2-43 今治市の校区別人口増加率

図2-43 今治市の校区別人口増加率