データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

五 伊予の国府と国分寺・国分尼寺

 律令時代の越智平野

 大化の改新(六四六)の大号令で、全国の人が天皇の民、全国の土地が天皇の土地となった。この土地や人民を統治するために、都に中央政府を置き、地方には国府を定め国府の近くには国分寺や国分尼寺が建てられた。この結果、国府が所在する地域は政治・経済・宗教・文化等の中心となった。
 醍醐天皇の時に作られたとされる『倭名類聚抄(和名抄)』には「伊予国、国府は越智郡に在り、行程上り一六日、下り八日」とあり、伊予の国の国府が越智郡にあったことはほぼ確かめられる。このように、越智郡の名は古代からあり、その郡司には代々越智氏が就いていた。また、越智郡には朝倉・新屋・拝志・給理・高橋・鴨部・日吉・立花等の一〇郷があり、陸地部の平坦地にはほぼ全域にわたって条里制が施行されており、現在も各所でその遺構を見ることができる。


 伊予の国府

 国府は一般に平野部に置かれることが多かったが、なかでも山麓の扇状地や河岸段丘上に立地する場合が多かった。また、国府は中央との連絡上、国内の中央部よりはむしろ都に近い平野部に設けられることが一般的であり、しかも官道に沿うことを原則としていた。伊予の国を通る官道は、都から紀伊・淡路・讃肢・伊予・阿波・土佐の各国府に通じ、南海道と言われていた。『延喜式』によれば「伊予国駅馬、大岡・山背・近井・新居・周敷・越智各五疋 案 周敷郡駅者称榎井 越智郡駅者又古波多是可和号也」とも記している。
 これらのことや国分寺・国分尼寺などとの位置関係などから伊予国府が現在の今治市域内にあったとされているが、その場所については従来多くの説が出されてきた。古くは吉田東伍が「桜井村の大字に古国府(現在の地名は古国分)という地名あり、東岸を郷浜と呼ぶ、郷は国府の訛なり」として桜井町古国分を国府の所在地とした。次いで原秀四郎は松木付近を越智駅の所在地としてとらえ、この近くにある町谷を国府所在地とした。鵜久森経峰は多くの根拠を示しながら富田の御厩を越智駅とし、国分寺や国分尼寺との位置関係や地形・地名を検討した結果、桜井の出作を中心とする方六町の地域を国府所在地とした。また、玉田栄三郎は中寺付近から布目瓦が出土すること等からこの地を国府の所在地とし、中寺の近くにあるフゴを府庫としてとらえた。田所市太郎は蒼社川右岸の八丁(現在の地名は八町)をいわゆる国衙土居八丁に由来するものと考えた。
 これらの諸説に対して、戦後片山才一郎や池内長良らは越智平野(今治平野又は府中平野ということもある)の条里制の復元、ホノギの精査、国分寺文書や観念寺文書の対比研究等により、富田の上徳を国分の所在地と推定した。ここに推定した理由は、①国分寺や国分尼寺に近いこと、②伊曽乃神社の新居系図によれば、多くの新居氏・越智氏が在庁官人として付近に居を構えていること、③小御門や閑ヶ内等の地名(ホノギ)から、国府の位置が推定できること、④国分寺文書の中に見られる年中行事案に「拝志郷内正月修正田」とあるが、上徳に正月の転訛とする松ヶ月の地名が残っていること、⑤一般に国府所在地の駅は国府の府頭に置かれることが多いが、当地では御厩を越智駅と比定し得ること、⑥竜登川と銅川の合流する入江は河川の規模に比べて非常に大きく、人工的に開削された港(国府津)であったと推定し得ること、⑦条里遺構がよく残り、周辺の遺跡から古代の遺構や遺物等が出土していること等によるものである。
 しかし、上徳では過去に推定国府域内の宮ノ内・宮ノ下で開発に伴う発掘調査が行われたが、柱穴や柱痕は発見されたものの国府の遺構確認までにはいたらなかった。また、五六年一一月から県教育委員会により、三か年計画で国府跡の確認調査が行われたものの国府跡吉直接結びつく遺物・遺構等は発見できなかった。


 国分僧寺

 国分寺は、天平一三年(七四一)聖武天皇の発願によって全国の国府所在地に建立された。国分寺には僧寺と尼寺があり、僧寺は金光明四天王護国之寺、尼寺は法華滅罪之寺と称される官寺であった。国分僧寺の建立場所は、一般に国府に近く、しかも人家の雑踏から離れている交通の便利な南向きの高台に求められることが多かった。伊予国分僧寺は今治市南東部の唐子山山麓に建立されたことが分かっているが、この地は三方を山に囲まれ南にのみ開口した平坦な小開析谷が見られる所である。当地の南約二〇〇mの所には南海道に比定される一般県道桜井山路線が通り、北東約一・八㎞の地点に伊予国府跡として有力視されている今治市上徳がある。これらのことから、唐子山山麓のこの地は天平一三年の詔勅にいう国分僧寺の立地条件に合致する場所ということができよう(写真2―33)。
 律令時代の国分僧寺は、七堂伽藍が整い、堂塔は偉容を誇っていたが純友の乱など数回の兵火によって焼かれ現在にいたっている。こうしたことから、現在の寺域は創建当初とは比較にならないが、歴代の住職の勧進と巡る。礼者等の寄進により本堂や大師堂が再建された。山門を入ると本堂の左右に鐘楼、庫裏、書院が並んでいる。四国八十八か所の五九番札所ともたっており、訪れる人が後を絶たない。


 国分尼寺

 伊予国分尼寺の流れをくむ法華寺は桜井小・中学校の裏にある引地山に立地している。法華寺は、もとは古寺などのホノギが残っている桜井小学校の敷地付近にあったと推定されており、現在地に移ったのは寛永二年(一六二五)と伝えられる。年代不詳の法華寺古図によると、釣屏山・要害山を背後に重層入母屋で鴎尾のある金堂、楼門四棟、重層入母屋で棟に鯱をのせた僧房が描かれており、前面には海があり、河口は入江となっている。現在、国分尼寺塔跡(県指定史跡)は今治市桜井の引地山山麓の水田地帯にあリ(写真2―34)、前面は古代の官道である南海道に面している。塔跡の東方約七〇〇mに桜井河口港があり、北西一・八㎞の地に国分寺塔跡がある。しかし、国分尼寺塔跡から出土する布目瓦は奈良時代より古く、また、金堂や講堂などが確認されていたいことなどから、この塔跡が尼寺とは別の寺院のものであったのか、あるいは既存の寺院が尼寺にあてられたのかいずれとも断定しがたい。
 現在の法華寺は住時に比べその規模は小さくなったが、諸国の国分尼寺のほとんどが衰微・荒廃してしまったなかにあって、当山はなお社会教化の道場として、また地方文化の重要な担い手として古刹の風格を維持している。