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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

一 四国の遍路みちと太政官道

 伊予の国府

 今治平野の陸上交通は、今は松山から今治経由で小松に至る国道一九六号と、国鉄予讃線が幹線であるが、近世には四国の遍路道や金比羅街道が重要な交通路であった。また古代には太政官道がメインルートであった。
 伊予の国府は今治平野にあり、国分寺国分尼寺は桜井に遺跡がある(図2―58)。国府の位置は明確ではないが、国鉄予讃線の「伊予富田駅」付近であることは、諸研究家の意見の一致するところである。
 藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅲ』大明堂発行(昭和五三年)の一七四頁。「伊予国府と越智駅」によれば、国府の位置について次の六説がある。
 (一)桜井町古国分説―井上通泰・吉田東伍 (二)旧富田村松木説―『伊予史精義』(景浦稚桃)、『愛媛県史概説』(三)頓田川左岸の上徳(高市郷)説―玉田栄二郎・片山才一郎・藤岡謙二郎 (四)旧清水村中寺説―『越智郷土誌材』(原秀四郎)(五)旧立花村の八丁説―田所市太郎(六)桜井町出作説―鵜久森経峰「伊予の国府の位置について」―『東予史談』三二号。


 太政官道

 太政官道は讃岐の国府から、国鉄予讃線に沿ってほぼ平行して、伊予の国府に通じている。その間に、大岡(川之江)・近井・(土居)・新居(新居浜)・周敷(周布)・越智(伊予国の国府の近く)の五駅を置き、駅には常に五匹の駅逓の馬を備えていたと『延喜式』後篇巻二八兵部省(吉川弘文館発行『新訂増補国史大系』延喜式後篇七一六頁)にある。その越智駅については次の三説がある。
 (一)桜井古国分説―井上通泰・吉田東伍 (二)国府府頭の御厩または馬居出説―鵜久森経峰・片山才一郎・藤岡謙二郎 (三)旧富田村松木説―『伊予史精義』(景浦稚桃)。
 越智駅の位置は国府との関係から比定さるべきである。藤岡や片山の御厩説は、今の国鉄富田駅の南東五〇〇m付近を比定するに対して、景浦稚桃平原秀四郎の松木説(馬継)は富田駅の西方三〇〇mの松木集落である。付近には「大道の上・大道の下、大道沿い」などのホノギ(小字)があり、郷桜井から四国五九番札所国分寺の下を通り、北六〇度西の方角の太政官道が、真直ぐに、旧野間郡の山路(図2―58参照)に向かって通じている。地形図でも判るが、伊予富田駅の南方約二〇〇mで鉄道を横切り、立花郷の式内社樟本神社の前を通り、郷橋の南で蒼社川を渡る直線八㎞に及ぶのが、昔の太政官道である。なお今治平野には条里制の遺構が残っており、道路が直角に曲っている所が多い。
 今治平野の越智駅と周桑平野の周敷駅を結ぶ太政官道には、孫兵衛作を通る浜通りと、朝倉村を通る山通りとがある(図2―59参照)。藤岡謙二郎と羽山久男は『古代日本の交通路Ⅲ』第七章南海道(一七六頁)で、浜通り説を採っているが、私は双方を調査し、双方とも太政官道であったと思う。山通りが古いが副道で、浜通りが孫兵衛作新田の如く後に開発され、主道になったと推察する。この地は『太平記』二二巻に出ているように、世田山城は南北朝時代の古戦場でもある。孫兵衛作村は寛永から寛文の江戸前期に黒谷村(東予市の山通りの村)の長井甚之丞の指導で開拓された村である。


 遍路みちと道標

 四国遍路は、庶民が盛んに順拝するようになったのは、江戸時代で、それまでは山武士や高野聖が主であった。その頃讃岐の金比羅参りも盛んになり、表2―69の如く、四国遍路の順拝道の道標とともに、金比羅道の道標も建てられた。四国遍路の順拝コースには、順と逆とがある。ここでは順拝コースで説明すると、図2―58の如く、今治市の北西部の阿方の五四番近見山延命寺から、山路を通り五五番別宮山南光坊に達する。ここは少し打ち戻りになっており、小泉の五六番金輪山泰山寺に至る。ここから直角に南東に向かい、蒼社川に沿って左岸を少し上って、蒼社川を戦前は、写真2―43の如く徒渉していた。今はもちろん車で迂回して橋を渡っている。
 蒼社川を渡って今治市と玉川町の境の八幡の五七番府頭山栄福寺に参拝する。ここは五十嵐八幡神社と隣接している。栄福寺から玉川町の海抜二九一mの五八番作礼山仙遊寺に登る。徒歩の順拝者は仙遊寺から旧道を東の新谷に降りて、前述の伊予富田駅に近い直角道に向かう。今は車のため仙遊寺からバックして、今治市国分の五九番金光山国分寺に県道を直行する順拝者が多い。
 今治平野には、四国遍路の順拝道があり、岐れ道には道標がある。四国遍路の道標については、愛媛県文化財保護協会発行の『愛媛の文化』二二号(昭和五八年一〇月)に、村上節太郎が約一〇〇〇本、調査し報告している。
 有名なのは越智郡朝倉上村の庄屋の武田徳右衛門が、寛政年間(一八〇〇年頃)に建てたのと、周防大島の椋野村出身の中務茂兵衛義教が、慶応から明治・大正時代に、お四国を二八〇回も順拝して、道標を建てたのが、今に残っている。
 武田徳右衛門は名門の長男に生まれ、一男五女の子宝に恵まれ、幸福な生活をしていた。ところが天明元年(一七八一)夏、長男七助が急死したのを始め、二女おもよ、三女おひち、四女こいそ、五女おいしと、寛政四年(一七九二)に至る一一年間に、一男四女を失い、悲嘆にくれた。朝倉下村の無量寺の住職宥寛上人の導きで仏門に帰依した。そして毎年三回お四国を順拝した。寛政六年に至り、道標がないと不便なので、建立を発願し、自分が願主となって地元の大衆の浄財を集めて、一三年間を要して大願を成就した。同家に残る記録によれば、寛政一二年に今治の石屋で作った道標二七本を船便で阿波国にも送っている。当時の建立趣意書や寄付帖も、徳右衛門の子孫の武田徳夫宅に保存されている。徳右衛門の建てた道標のうち、現在筆者の確認しているのは、阿波七、土佐七、伊予一九、讃岐一本で、未確認も多数ある。一九〇余年の風雨にさらされて文字の不鮮明なのもある。徳右衛門は文化一一年(一八一四)歿である。
 表2―70は今治街道の、松山札の辻よりの里程道標である。「松山札の辻より十里」の小林俊雄の庭にあったのは、最近波方町役場の前に移している。『松山叢談』第七上「顕徳院殿定喬公」の項によれば、寛保元年(一七四一)に、木柱は年々修復に手がかかるので、石柱にしたとある。十一里から十四里の道標が今のところ見つかっていない。今の国道一九六号に近い道路である。この里塚の立石の文字は、祐筆の水谷半蔵これを認むとある。

図2-58 今治市を通る国道196号と四国の遍路みちおよび太政官道

図2-58 今治市を通る国道196号と四国の遍路みちおよび太政官道


図2-59 周桑郡越智郡境を通る国道196号と四国遍路みちおよび太政官道

図2-59 周桑郡越智郡境を通る国道196号と四国遍路みちおよび太政官道


表2-69 伊予路の金ぴら大門よりの里程道標 1

表2-69 伊予路の金ぴら大門よりの里程道標 1


表2-69 伊予路の金ぴら大門よりの里程道標 2

表2-69 伊予路の金ぴら大門よりの里程道標 2


表2-70 松山札の辻よりの里程道標の現況

表2-70 松山札の辻よりの里程道標の現況