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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

六 今治の海運

 今治海運のはじまりと飯忠七

 今治地区は、我が国における海上輸送の重要ルートである瀬戸内海に面していることや、多くの内海離島を有しているという地理的条件から、海運については早くから取り組みが進んでいた。また、村上水軍が中世から近世にかけて瀬戸内海の広い範囲を支配していたという歴史的条件も、今治地域の海運業の発展と密接な関係がある。こうした諸条件に恵まれて、当地域では江戸時代から帆船によるかなり本格的な海上輸送が行われていた。しかし、当時の海運は、藩の仕事か、民間の商業の一環として商人が自分の商品を自分の船で輸送するという形態が多かった。明治時代に入って政府の殖産興業政策が施行されると、各地に産業が育ってくるに伴い、他人の荷物を自分の船で運ぶという、いわゆる独立した海運業者が登場してくるようになった。
 幕末から明治初期にかけては、一般に、近距離航行は手漕ぎ、遠距離には帆を用い、急用の場合には櫓と帆を併用する押切船が使われた。遠距離航行に押切船を使うことは、所要日数が減少し、目的地に早く到着できる利点があると同時に、漕手を多数確保しなければならないので、経費が高くなるという欠点をもっていた。しかし、これをあえて企業的に行ったのが飯忠太郎(晩年に忠七と改める)であった。
 飯(天保一二~大正一一年)の手記によれば、明治四年(一八七一)一般に押切船と呼んでいた早船一隻を一五円で購入し、金吉丸と命名し舟子四人を雇って営業を始めたとしている。初航海は木綿五〇反二〇貫と客二~三人を乗せ三日半で大阪に着いている。彼は今治地方の木綿布の販路を大阪方面に拡大するとともに、文明開化の品々を今治に持って帰った。その後、押切船による海運事業は大きく発展し、航路も中国・四国全域に拡大した。また、飯は明治七年(一八七四)頃、周囲の状況の変化から、近いうちに蒸気船の時代が来ることを察知して汽船を今治港に入港させて町の繁栄を図ろうとした。飯はかつて港町今治を代表した「吉忠」回漕店の創始者であるとともに、海の難所である来島海峡に灯台を建設することを提唱したり、港の発展に必要な旅館の経営にも尽力するなど、現在も「港の恩人」と賛えられている。このため今治では、今治港にほど近いゆかりの地に「飯忠七翁功績之碑」を建立し、彼の業績を後世に伝えている。


 海運業の発展の推移

 今治地域においても、明治の後半以後の海運の対象貨物は、山口や北九州地方の石炭が主体であり、地場の貨物は量的には少なかった。昭和初期から次第に機帆船へと移行していったが、戦前の内航海運業は依然として石炭輸送を中心とした小規模経営がほとんどであった。しかし、戦後のめざましい経済復興とそれに続く高度経済成長により県内の海運業界は飛躍的に発展した。三〇年代に入ると今治地域では船舶の鋼船化が急速に進み、今治地域の海運業界は全国的にも注目されるようになった。貨物の急増に伴い、京浜や阪神の海運業者(運送業者=オペレーター)は全国に船腹を求めるようになったが、これに最初に応えたのが今治地域を中心とする愛媛の船主(貸渡業者=オーナー)であった。このような結果、今治地域では海運業者と言えば中央のオペレーターに船舶を貸渡すことを業務とする海運業者とまで考えられるほどオーナーの比率が高くなっている(図2―64)。     


 海運県愛媛と今治の海運業

 昭和五八年末の県内登簿船(県内に船籍を置く内・外航船)は一六一四隻(約二四二万八〇〇〇トン)で、全国に対する比率は隻数が七・一%、トン数が五・九%となっている。また、内航船船腹量については、全国比率はさらに高く、五九年三月末には隻数では一〇・八%、トン数では一四・四%に達している(表2―84)。本県の各種経済指標が全国の一~二%であることや、数字に現れない便宜置籍船が相当数あることなどを考えると、愛媛県は全国屈指の海運県であると言うことができよう。内航船の船種を貨物船・油送船別にみると、貨物船は七一〇隻で約二六万八〇〇〇トンであり、油送船が三七九隻で約二七万五〇〇〇トンとなっており、両者の構成比は隻数では六五・二%対三四・八%と貨物船が大きいのに対し、トン数では六五・二%対三四・八%と貨物船六%と油送船が過半数を占めている。また、県内内航船の鋼船一隻当たりの総トン数は四九八総トンで全国の三七六総トンに比べて非常に大きくなっている。これは油送船の比率が高いことにもよるが、むしろ、本県の内航海運業者が他県に先がけて積み荷効率の悪い小型船を解撤し、大型船への切り替えを推進してきたことによるものである。
 今治市を中心とした地域は全国でも有数の船どころであるが、今治市の場合は外航船の比率が高いことにも一つの特色を持っている。一般に、海運業が繁栄していくのには進取の気運と団結心、指導者、造船所、金融機関等が必要とされているが、今治市の場合にはこれらの条件に恵まれており、こうした好条件を背景に先進地域であった阪神地区に追いつくための努力が重ねられてきた。当地域の内航海運業者は六〇年現在一一二あるが、このうちの一〇五がオーナーであり、全体の九三・八%になっている。これは全国平均の六〇・七%や県平均の八三・四%よりも高く、今治地域がオーナー中心の海運業であることを示している。オーナー経営の場合、自分の船をオペレーターに貸渡す場合、運航は船主が行い、船員の配置も船主の責任で行うことが一般的である。オーナーにとって船員コストを軽減することが事業の成否にかかわることが多いと言われているが、当地域の場合、親子兄弟や身内で乗組員をまとめることにより、船員労働の合理化を図っている。五九年現在、今治社会保険事務所管内における船員手帳の交付者は五四二五名いる(表2―85)。このうち県内の者が全体の五三%を占めているが、県内の中でも越智郡・今治市出身の者が七〇%を占め、狭い範囲から船員を多く得ている。こうした傾向も、オーナーの経営方針の表れということができる。
 貨物船及び油送船の隻数とトン数の推移をみると、四九年には、貨物船は五二隻(二万四六三トン)に対し油送船は四三隻(二万六五五四トン)で、総トン数では油送船の方が多くなっており、当時は木船もまだ四一隻が活躍していた。その後、貨物船は漸増傾向をたどり五九年には六一隻(二万九七〇九トン)に増加しているのに対し、油送船は一九隻(一万六〇二〇トン)となっており、四九年の時に比べて隻数では四四%、総トン数でも六〇%に減少している。また、木船も減少し続けており、現在ではわずか一六隻になっている(表2―86)。
 五六年後半から下降し始めた内航海運市況は、その後の国内景気の上昇や不況対策効果の侵透により、最近になってわずかながら回復傾向に向かうようになった。しかし、産業構造の変化に伴う積み荷の軽薄短小化やトラック輸送の増加などに伴い、相対的な地位は依然低下し続けている。本県の海運業界をリードしてきた今治の海運業にとって、回復基調を定着化させるためにも船腹量の調整、営業方法の近代化、省エネ船への切り替え等今後解決していかなければならない課題は多い。


 海上出入貨物の推移

 大正一一年(一九二二)四国で初めての開港場に指定されて以来、今治港の内外貿易は年を追うごとに活発化していき、出入貨物量は大正一四年(一九二五)には約三三万トンであったが、昭和一五年には約一二〇万トンにまで達した。しかし、戦後は激減し、二五年にはわずか二五万七三八九トンになった。しかし、四〇年以後出入貨物量は急増し五〇年には約一五〇〇万トンに達した(表2―87)。なお、海上出入貨物量は五〇年から五七年までは一五〇〇万トン程度を保っていたが、その後は約一一〇〇万トンに減少している。
 四〇年以後の出入貨物量の急増は、経済活動の活発化に伴う物資の流通量が増大したことのほか、カーフェリーの普及に原因している。フェリーは三四年に今治―三原間に就航したのに始まり、その後、急速に多くの航路に普及した。四〇年には自動車航送によるものは、移出入量全体の三〇%程度であったが、四五年には七五%に増加し、現在では移出入量全体の八五%にまで達している。フェリーによるもの以外では、移出入とも砂・砂利・金属くず・鉄鉱などが主なものであり、今治の主要産業である繊維工業製品は軽量であるため、全体に占める割合は三~四%である。

図2-64 業態別内航海運業者比率の比較

図2-64 業態別内航海運業者比率の比較


表2-84 全国及び愛媛県の内航船船腹量

表2-84 全国及び愛媛県の内航船船腹量


表2-85 今治社会保険事務所管内の船員の出身地

表2-85 今治社会保険事務所管内の船員の出身地


表2-86 内航船船腹量及び業態別海運業者数の推移

表2-86 内航船船腹量及び業態別海運業者数の推移


表2-87 今治港の海上出入貨物の推移

表2-87 今治港の海上出入貨物の推移