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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

三 桜井地区の自然と史跡

 自然と歴史散歩

 市街地から南へ白砂青松の美しい自然海岸が続き、背後の緑豊かな丘陵地一帯には、古代から中世にかけての歴史ロマンが秘められている。この自然と歴史に恵まれた南部桜井を中心とした地域には、次のような散策コースが設定されている。
 国分・唐子浜を行くみちコース 仙遊寺(1.5㎞)→吉祥寺(3.7㎞)→国分休憩地(1.4㎞)→国分寺(0.4㎞)→脇屋義助公の墓(1.1㎞)→唐子浜(全長八・一㎞) 
 さざなみ探勝路コース 唐子浜(1.4㎞)→志島ケ原(桜井休憩地)(3.9㎞)→虎ケ鼻(0.9㎞)→石風呂(0.3㎞)→石風呂休憩地(1.3㎞)→東予国民休暇村(0.6㎞)→湿地植物群生地(0.4㎞)→医王池休憩地(全長八・八㎞)
 共に愛媛県観光協会による「四国のみち(四国自然遊歩道)」の一部にあたる。
 史跡・名所めぐり遊歩道 志島ヶ原―衣干岩―伊予桜井駅―国分尼寺跡―法華寺―国分寺―国分寺塔跡―脇屋義助公廟―唐子山―今治藩主の墓―唐子浜(全長約八㎞)
 今治市産業部観光課によって各所に道標、説明板が設けられている。


 桜井レクリェーションゾーン整備事業

 瀬戸内海国立公園に隣接した風光明媚な丘陵地(湯ノ浦地区)の、公共主導による保養レクリェーション基地づくりで、国営公園クラスの大規模整備に向けての第一段階である。
 四八年に国有林の払い下げを受け、土地造成(一二ha)に着手して以来、勤労総合福祉センター、船員保険寮、野外趣味活動施設を誘致するとともに、桜井総合公園、民間保養施設用地を整備している。また、これら保養施設には市が泉源開発を行い給湯している。五八年から桜井総合公園の拡張整備を実施中である。


 湯ノ浦ハイツ

 市街の中心地から国道一九六号を海岸沿いに南東に向かって約七㎞の丘陵地帯に建設された愛媛勤労総合福祉センターである。
 レクリェーションハイツグループは、労働省所管の雇用促進事業団が働く人々のために建設した総合福祉施設で、現在四三施設が設置運営しており、北は北海道から南は沖縄まで「だれでも泊まれる公共の宿」の全国ネットとして利用されている。
 湯ノ浦ハイツは、周辺地域における温泉開発を背景に、保養施設の誘致運動を展開した結果、当地が、東予新産業都市のなかでは自然環境に恵まれ、勤労者の憩いの場として適当であるとして認められ、愛媛県を通じ今治市が設立した財団法人今治勤労福祉事業団が運営にあたっている。
 五二年には宿泊室を始め、展望浴場、結婚式場、会議室、レストラン等を備えた地下一階地上三階建の本館が完成した。引き続き、同事業団施設として、五五年八月今治勤労者野外活動施設がオープンし、一段と充実したものとなった。併せて、各種のスポーツ、レクリェーション施設の充実によって桜井総合公園としての機能を高め、家族、職場、地域のコミュニケーションや健康増進の場として活用されている。


 唐子浜

 富田川河口から南の大崎鼻まで、延々一二㎞におよぶ海岸は白砂青松の景勝がつづき、唐子浜・志島ケ原・桜井海岸と、海水浴場や行楽地が連続している。海上六㎞には遊漁に最適の平市島、やや離れて此岐島さらに四阪島が遠くに望めて、自然にわずかの変化を与えている。
 唐子浜は、国鉄今治駅からバスで二〇分のところにある古国分一帯の海岸である。瀬戸内海国立公園に属し、四㎞にわたって続く遠浅の静かな海岸で、東予地方における最も理想的な海水浴場である。ホテル(二五〇人収容宴会場、和室・客室一三室)、貸席一八棟、食堂、売店、便所、納涼席一三二席、シャワー、駐車場一〇〇〇台収容、貸ボートなどの施設がある。また遊園地(大人四〇〇円、子供二〇〇円)もあり、四季を通じて家族づれで楽しめる総合レジャーランドである(写真2―54)。


 志島ヶ原
      
 綱敷天満宮を中心にして展開する広大な松原である。桜井漁港から大川口に至る約一一haで、北は唐子浜、南は石風呂海岸に続いている。約三〇〇〇本の老松が繁り、遠浅の海の眺めと、石鎚連峰の雄大な遠景とがよく調和した景勝の地であって、国指定の名勝地である。菅原道真公伝説の衣干岩や、ゆかりの梅林もある。
 志島ケ原に接して桜井パーク海水浴場がある。休憩所、食堂、シャワー、更衣室、ボートなどの施設があり絶好の海水浴場である。

       
 綱敷天満宮

 菅原道真公が延喜元年(九〇一)、太宰府に左遷される途中で風波のため志島ケ原の東入江に漂着した時、村人達が見付けて、漁船の舳綱を巻いて敷物にしてお迎えしたのが社名の起源という。後、越智氏・河野氏は厚く崇敬し、度々寄進したり、社殿を造営したりした。
 境内には数々の句碑・歌碑・記念碑があり、祭神菅原道真公を書道の神様としての筆塚や、椀舟の行商から発達し九月賦販売発祥記念の碑などが目立つ。絵馬堂も立派で、山本雲渓や沖冠岳ら藩政期のすぐれた画家達の大額が奉納されている。


 石風呂

 石風呂は瀬戸内周辺地域に多く分布するが、地域によってその焚き方・入浴法などが異なっている。広島県から芸予諸島をへて今治地方に分布していた石風呂は、主に岩穴を利用した浴室で、海岸に位置し、入浴に際して海水を利用するタイプである。今治地方にもかつて数か所の石風呂があったが、現在営業されているのは桜井石風呂のみとなった。次に石風呂の実態の一端を『愛媛の祭りと民俗』(守屋毅)によって記しておく(写真2―55参照)。

桜井海岸の夏は、石風呂でにぎわう。浜辺につきでた天然の岩山をくりぬいて、高さ二・五m、奥行き七・二m、間口三・三mばかりの空洞ができている。その内側の岩壁にそってシダの枯葉をつみあげ、火をつける。風呂焚きの男たちの仕事である。一度に使うシダの量は、ざっと一五把。冬のうちに刈って、夏にそなえる。よそでは松葉をもちいるところもある。ここでシダをつかうのは、もえのこりの灰が、ほとんどでないからだという。
シダがくすぶること、一〇分から一五分で、洞穴のなかは摂氏一〇〇度以上の高温となる。風呂開きは七月一〇日でしまうのが九月一〇日だが、風呂開きから何日かは、温度のあがるのがにぶい。岩全体がひえているからだ。何日かつづけているうち、余熱が岩にこもって、ちょっと火をつければ、たちまち温度は一〇〇度をこえる。
シダがあらかたもえつきる頃、男たちは、海水にひたしたヌレムシロをもって、ふたたび穴のなかにはいる。洞内には、熱風にあおられて、火の粉がまっている。男たちのいでたちはといえば、頭から身体を綿いれの頭巾・着物ですっぽりとつつみ、足は長靴―まずは重装備である。その綿いれの袖口が、黒くやけこげているのがいたいたしい。この労働、さほどに苛酷なのである。なかへはいった男たちは、まだ時おり炎のあがるシダをヌレムシロでおおい、さらにそのうえから、海水をかけていく。何せ異常な熱気のなかでの作業だから、そうながくはつづかない。四~五分もすれば、外へでて一息つく。その間にも、海水は蒸気となって、洞内に充満していく。男たちが、ほぼ全体をしめしおえる時分には、内部は文字どおりの「蒸し風呂」状態となる。頃をみて、入口にムシロをさげて密閉すると、石風呂のたきあがりである。(中略)
男の一人が拍子木をならしながら海岸を一巡する。風呂がたった合図である。だが人々はいっこうに動こうとしない。たきあがったばかりの風呂は、室温六〇度、相当に剛のものでないとたえられないからである。何人かの客が風呂のまえにあらわれたのは、三〇分もあとであったろうか。適温だという六〇度までさがるのに、一時間はかかるそうだ。
風呂にはいるからといって、別にハダカになる必要はない。かえってハダカだとヤケドのおそれがある。水着姿もあれば、長襦袢もある。
入口のムシロをくぐってなかにはいり、普通、一〇分ほどいてそとへでる。むろん汗まみれだ。むしろハダカになるのはこの時である。でてくるなり、バッと胸をはだける御婦人―ただしお婆さん―もいる。海水で汗を流すなり浜風に身をひやすなりして、また風呂にはいる。すくない人でも二~三回、おおい人だと一日に一〇回もこれをくりかえす。

 志島ケ原から海岸沿いに約三㎞南にあたり、石風呂の岩山の上には薬師如来が祀られている。石段を上がって薬師のそばに立つと、眼下に石風呂の入口とその南に連なる売店、数棟の「もと小屋」と呼ばれる宿泊・休憩のための建物が並んでいる。現在は七月一〇日に開き、九月一〇日に閉じる。多い年で二か月間に約一万五〇〇〇人ぐらいの人が風呂に入る。東予市を中心に県内各地はもとより、広島・京阪神地方からも、この素朴で野趣にあふれる岩風呂を楽しみに訪れる客が多く、近年は若い者も増えた。年間(一シーズン)五〇〇〇人くらいは「もと小屋」を利用する(写真2―56)。
 岩山の北側にある駐車場も含めて、石風呂と「もと小屋」は桜井財産区の経営である。浜桜井七名、郷桜井二名、沖浦一名計一〇名の役員からなる「桜井石風呂運営委員会」によって運営され、風呂たき、整理、事務、券販売、部屋案内など七名(男三、女四名)の従業員が働いている。
 入浴料金は半日(10:00―13:00)三〇〇円、一(10:00―16:30)は五〇〇円で何度入浴してもよい。2階建五棟、平屋建三棟で計四八室ある貸室は新旧大小で差があって三〇〇〇円から六五〇〇円である。宿泊客は自炊する人と食堂を利用する人とがいる。
 周辺は海水浴、キャンプにも好適の地で、日曜日には一〇〇台を超える車で駐車場はいっぱいになる。
         

 東予国民休暇村
         
 国民休暇村は、国民の誰もが安い料金で利用できる総合的で、健康的なレクリェーションセンターを目標に、厚生省と国民休暇村協会によって国立公園内に作られたもので、全国二〇か所に建設されている。そのうち四国では東予と五色台の二か所である。
 東予休暇村は今治地方観光協会や地元の熱意により、第二次指定として四〇年一二月、全国で一六番目に誕生した。
 今治から東予市にまたがる国立公園の大崎海岸と背後の丘陵地を含む三四・六haで、南に楠河の干拓地区と道前平野、北に桜井海岸の白砂青松を眺める景勝の地で、交通の便もきわめてよい。
 丘陵上には一八〇人を収容できる「ひうちなだ荘」があり、平市島・比岐島を眼前にみる海岸にはレクリェーションセンター、園地、キャンプ場、駐車場も整備されている。「ひうちなだ荘」には、一八㎞を隔てた東予市河之内本谷より温泉が引湯され、浴場からは瀬戸の島々、霊峰石鎚山を望むことができる。海水浴場、キャンプ場という特色のため客が夏に集中し、土・日曜日に多く平日には少ないという問題点があるが、年間一万七〇〇〇大前後の宿泊者がある。来村者の五〇%は四国内で、近畿三五%、中国一〇%、関東・中部・九州で五%の内訳である(写真2―57)。
 休暇村の附帯施設としては園地、テニスコート(宿泊者は一時間七〇〇円、他は一二〇〇円)、運動広場、キャンプ場(一人二〇〇円)、貸テント(四人用二〇〇〇円、六人用三〇〇〇円)、海水浴場(ボート、シャワー、脱衣預り、棧敷)、駐車場が整備されている。
 ほかに史跡と景勝の笠松山―世田山―医王山―休暇村を結ぶ自然遊歩道も完成、ハイキングコース・オリエンテーリングコースとして利用されている。また、医王山麓、国道一九六号から休暇村への進入路の脇、唐櫃池(通称蛇越池、医王池ともいう)の東南隅の湿地約五〇アールにはサギソウを主とする湿地植物約六〇種が成育しており、県の天然記念物として保護されている。
 国立公園大会の模様を『新今治市誌』は次のように伝えている。

国立公園大会―四五年八月、第一二回国立公園大会が、東予国民休暇村で開かれた。これは、「自然に親しむ運動」の中心行事として毎年各地で行われるもので、国民が国土に対する愛情を新たにし、自然を尊び、科学精神をつちかい、生活を豊かにするための祭典で、第一回は、三四年、日光で行われている。
主催は厚生省と県、国立公園協会で、地元関係者は、三〇〇〇人もの参加者のための宿泊、食事、ポスター、案内状、駐車場、一か月も前からの海岸の清掃、標識整備、婦人会の湯茶接待の準備、今治署では警備体制と、大変であった。
五日、楠橋紋織、日高荘などに立寄られた常陸宮ご夫妻が到着、内田厚生大臣、久松知事らと共に式典に出席された。夜は、七時半、ご夫妻がキャンプファイヤーに点火され、「海と山の自然に恵まれた東予国民休暇村で開かれ、全国から集まられた皆さんとお会いできてうれしく思います。この豊かな自然の中で心を清めからだを鍛え、友情をあたためることは意義深いことです。皆さんが自然の美しさを守ることに尽力されるよう希望します」とあいさつされた。
六日、五時半起床、清掃、体操のあとA(石鎚登山)B(世田山―笠松山ハイキング)C(糸山サイクリング)の三班に分かれて活動、式後、伊予万歳などの郷土芸能の披露があって、大会を終了した。
     

 国分寺
     
 今治市の南東部、唐子浜に臨む丘陵唐子山(一〇五m)は国分山、天子山とも呼ばれる。かつて伊予水軍の村上武慶(吉)のこもった城であった。藤堂高虎が今治築城に際して資材や石垣の石を運び去ったが雄大な平山城の構図がしのばれる。その唐子山周辺には古国分山・寺山などの小丘陵が散在し、一帯は史跡の宝庫となっている(写真2―58)。
 国分寺は標高約一〇・五mの亀山にあり、四国霊場五九番札所である。国府跡から東南二㎞また国分尼寺跡と推定される桜井小学校は国分寺の東南一㎞にある。
 天平一三年(七四一)、聖武天皇発願による創建で、寺伝によると本性が奈良より下向し、国司とともに寺域を定めて建造に取りかかり、自ら開基となったとある。七堂伽藍を備え荘麗を極めたと言うが、のち失火、兵火に焼け興廃数度に及んだ。歴世住職の勧進と巡礼者の寄進により、寛政元年(一七八九)に金堂(現本堂)が再建され、次いで大師堂が建立された。
 現在の寺域は創建当初とは比較にならないが、約六六〇〇平方m広々として閑静で、門を入ると本堂の左右に鐘楼、庫裏、文化財保存のため昭和四二年新築された書院が並び、巡拝者の絶え間がない。
 寺宝の国分寺文書は元弘三年(一三三三)から文禄二年(一五九三)にわたる古文書五五通からなり、愛媛県指定有形文化財である。ほかに、県指定有形文化財として紙本金地著色柳橋図一双と市指定有形文化財一三件、市指定天然記念物とうつばき一株がある。宝物館中庭のとうつばきは、昭和七年(一九三二)にうえたもので、樹高七mで樹齢は七〇年、五〇年以上のものは全国でも二〇本という珍しいものでつばきの女王といわれる大輪をさかせる。

         
 伊予国分寺塔跡
         
 天平時代に建立された伊予国分寺の東塔跡で、国分寺の東約一〇〇mの位置にある。高さ約一・二m、広さ約一〇〇平方mの基壇の上に一三個の巨大な礎石が残っている。大きなものは直径が二〇〇×一五〇、いずれも円形で、花崗岩の自然石に凸形の柱口が工作されており、石の刻み方にも天平時代の素朴な荒打ちの手法が用いられている。配列には一部に傾倒したり移動されたりしたものもあるが、間隔は往時のままに保たれ整然としており、柱口の径から塔脚及び全塔の規模の大きさが想像される。
         

 脇屋義助公の墓
         
 国分寺の東約四〇〇m、唐子山の西麓、字谷の口の松林の中にある。もとの墓石は霊廟背後の一四基の小五輪塔群といわれ、今は荒れている。現在の公の墓は、国分寺住職快政と今治藩士町野弾左衛門が浄財を集めて建立したもので、かたわらに藩儒佐伯惟忠が建てた貝原益軒作の表忠詩碑がある。墓前の礼拝堂は総欅造りで、境内の一角に国分寺歴代住職の墓がある。


 今治藩主の墓

 唐子浜海水浴場から国道一九六号を隔てた海抜約三〇mの山の上にあり、唐子浜海水浴場を見下ろす景勝の地を占めている。中央に初代定房、左に三代定陳、右に四代定基と巨大な三基の宝陝印塔形の墓石が瓦葺土塀に囲まれている。石畳の参道の両側には六〇基ばかりの灯寵が並んで、明るい空気の中に荘厳の気を漂わせている。
     

 漆器の町
      
 桜井は漆器の町であり、それから派生した月賦販売発祥の町である。桜井漆器の製造は文政末期から始められ、最盛期は大正年代(一九一二~一九二六)で職人も三〇〇人以上になり、販売方法も、従来の年二期の掛け売り販売にかわって月賦という新しい方式がとり入れられた。戦後は安価な化学製品ものにおされ、一時は生産も減ったが、世の中がおちつくにつれ、地域や業者間には、伝統の地場産業を振興させようとする努力が続けられている。