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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

二 朝倉・玉川の米麦作と野菜栽培

 農業の特色

 朝倉村と玉川町は今治市の近郊の農山村である。今治市の南郊に位置する朝倉村は今治平野を潤す頓田川の上流に位置し、村域の山地は比較的なだらかであり、平地に恵まれた山村である。一方、今治市の西郊にある玉川町は今治平野を潤す蒼社川の上流に位置するが、町域の山地は急峻であり、山間地に樹枝状の谷底平野が広がっている。このように両町村の自然環境には多少の差異が認められるが、共に農林業を主体とした地区で、今治市への農林産物の供給地としての地位を保ってきた。
 昭和三五年の産業別就業者数のうち、第一次産業に従事するものは、朝倉村では七三・八%、玉川町では七三・五%もあった。また昭和四一年の町村内純生産構成比をみると、第一次産業の比率は朝倉村では六九・四%、玉川町では六六・七%も占めている。昭和三〇年代までの両町村の住民の多くは町村内の農林業に従事して生計を維持していたといえる。しかしながら、昭和三五年以降の高度経済成長期の間に農林業の地位は次第に低下し、両町村の住民の多くは第二次・第三次産業に従事して生計を営むようになってくる。昭和五五年の産業別就業者数の比率をみると、朝倉村では第一次産業四〇・二%、第二次産業二六・五%、第三次産業三三・二%であり、玉川町では第一次産業二八・三%、第二次産業三三・九%、第三次産業三七・七%となっている。町村内純生産構成比でみても、第一次産業の比率は昭和五七年現在で朝倉村二一・八%、第二次産業二〇・九%と著しく低下している。
 このような就業者数や純生産構成比の比率の変化は、朝倉・玉川の両町村内に第二次・第三次産業が勃興した結果かといえば、決してそうではない。第二次・第三次産業の就業者のうち、多くのものは近隣の今治市の企業に就業しているものである。全就業者のうち町村外で就業する者の比率をみると、昭和五五年現在、朝倉村では三四・一%、玉川町では、四一・一%にも達し、県内でも特に町村外流出就業者の比率の高い町村となっている。
 朝倉村・玉川町における農業は、高度経済成長期の間に、その地位を著しく低下させたのであるが、農業の内容自体もまた著しく変貌した。昭和三五年現在の農業粗生産額構成比をみると、両町村とも米麦の占める比率が高く、朝倉村では五七・四%、玉川町では七一・三%にも達していた。しかしその後、米麦の地位は低下し、代わって野菜・工芸作物・畜産などの地位が向上した(表3-1)。


 米作・麦作の推移
          
 高度経済成長期以前の朝倉村・玉川町の農業は米麦作を主体としたものであった。昭和三五年の朝倉村の稲の作付面積は五〇〇ha、麦の作付面積は四二七haであり、玉川町の稲の作付面積は六四二ha、麦の作付面積は四七〇haであった。両町村とも麦作は稲の裏作として水田に栽培される田作麦であった。両町村を比較すると朝倉村に比して玉川町に麦の作付率が低いが、これは朝倉村の水田が排水良好な扇状地性の地形に展開し、その大部分が二毛作田であったのに対して、玉川町の奥地の鈍川・竜岡地区には、山間の谷底平野に低湿な一毛田が多く、麦作が不可能な水田が多かったことによる。
 今治平野の稲作と比べて、両町村の稲作の特色をあげると、その水田が山間地に立地しているところから、寒冷な気候に対応する稲作が展開されていることである。その一つは稲の品種に表れており、他は灌漑水の冷水対策にみられる。今治平野が現在、松山三井を主体とした晩生種が多いのに対して、両町村には早生種の日本晴・ミネニシキが多いことである。昭和六〇年の品種をみると、朝倉村では日本晴が六二%、玉川町では日本晴五一%、ミネニシキ二○%となっている。玉川町の山間部では秋の気温低下から、いもち病の発生が多く、これを防止する意味からも早生種が好まれるという。
 灌漑水の冷水対策としては、玉川町の山間部の水田には、ひやりといわれる冷水路が敷設されていたり、水口と水戸が隣接してある水田が多く見られる。ひやりは棚田に多くみられ、水田の上方の崖下から湧き出る冷たい水を直接水田に入れない施設であり、一種のぬるめといえる。水口と水戸が隣接しているのは、冷たい灌漑水が直接大量に水田に流れ込まないための工夫である。水田には温かい灌漑水を一定量確保するために、水口から灌漑水は常に導入するが、その多くは直接水田には注がず、隣接の水戸から流し去るのである。
 朝倉村・玉川町の稲作は昭和四五年に始まる米の生産調整を契機に、その栽培面積を著しく減少させた。昭和三五年に対する同五七年の稲の作付面積は朝倉村で六一%、玉川町で四九%になっている(表3-2)。朝倉村では野菜・たばこ・花木などに転作された水田が多く、玉川町では野菜・大豆などに転作された水田と耕作放棄されて林地となった水田が多い。林地化された水田の多くは、竜岡・鈍川地区などの山間地の立地条件の悪い水田である。
 両町村の麦作も昭和四〇年代に入って急速に衰退する。麦の作付面積が最も低下したのは、朝倉村では昭和四八年の四四ha、玉川町では同四九年の三四haであった。その後、国の麦作振興策によって麦作は復活のきざしを見せ、昭和六〇年には朝倉村で一四二ha(昭和三五年の三三%)、玉川町で九五ha(昭和三五年の二〇%)の麦の作付面積を見るまでに至った(表3-3)。これらの麦作は今治平野同様に全面全層播である。玉川町の麦作の復興が朝倉村に比して少ないのは、玉川町の山間部では湿田が多く、全面全層播が困難であることによる。


 野菜栽培

 昭和五九年の愛媛県園芸農蚕課の野菜類の生産販売統計によると、朝倉村の野菜栽培面積は一二九ha、玉川町の野菜栽培面積は一三九ha(共にたけのこの栽培面積を除外した)に達する。昭和五八年の農業粗生産額に占める野菜の比率は、朝倉村では一八・八%、玉川町では一四・三%に達し、共に重要な地位を占めている。昭和五九年の主な栽培作目をみると、朝倉村では、きゅうり二一ha、馬鈴薯一四ha、たまねぎ一二ha、レタス一二ha、いちご六haなどが主なものであり、玉川町では、だいこん一八ha、すいか九ha、なす八ha、キャベツ八ha、ほうれんそう八ha、きゅうり七haなどが主なものである。
 朝倉村で本格的に野菜栽培が開始されたのは、昭和二七年頃からのきゅうり栽培に始まる。朝倉村のきゅうりは、たばこ栽培と結合し、たばこの後作として栽培された夏秋きゅうりに始まる。朝倉村でたばこ栽培が盛んになるのは、昭和一五年頃からであり、その栽培面積は最盛期の昭和四〇年には六四haに達し、今日も朝倉村の重要な商品作物である。
 たばこは苗床で育苗されたものが、四月末~五月初旬に麦の畝の肩に定植され、五月末に麦を収穫した後のたばこは、六月末~八月上旬にかけて収穫された。きゅうりは七月中旬~下旬にかけて、たばこの畝間に播種され、八月下旬~一一月上旬にかけて収穫された。きゅうりの輪作は、麦→たばこ→きゅうり→麦という体系が多かったが、なかには麦の後に直接きゅうりが栽培されたり、きゅうりの後作にほうれんそうなどの冬野菜が栽培された場合もある。また昭和五二年頃からは、四月下旬に定植し、六月中旬~七月下旬にかけて収穫する春きゅうりも導入され、きゅうりを年間二作する農家も多くなってきた。
 きゅうり栽培の最盛期は昭和四八年であり、この年三四haの栽培面積を誇った。当時のきゅうりの出荷先は京阪神市場で、今治市越智郡蔬菜生産組合の手によって共同出荷された。きゅうりの栽培面積はその後、生産者の老齢化や他の野菜栽培が盛んになるにつれて衰退し、昭和五九年現在は最盛期の六二%にあたる二一haにすぎない。
 きゅうりに代わって朝倉村の野菜栽培の主力になったのはいちごである。いちごは昭和四五年頃からビニールハウスで栽培する施設野菜として導入される。現在の作型は、山あげ(栽培比率は二〇%程度)、一〇日冷蔵(一〇%程度)、無冷促成(三〇%程度)、半促成(一〇%程度)、短期株冷(三五%程度)と五種類ある(表3-4)。いずれも無加温栽培で、ハウスはきゅうりの雨除け施設としても利用され、いちごの後作として夏きゅうりやメロンを栽培したり、いちごの前作に夏秋きゅうりを栽培するハウスも多い。いちごの出荷は今治南農協の手によって、主として地元の今治市場に共同出荷される。
 きゅうり・いちご以外の朝倉村の野菜としては、昭和四五年頃に導入されたトマト、同五二年頃に導入されたダリーンアスパラガス、同五五年頃に導入されたブロッコリーなどがある。トマトは今治南農協に集荷され、松山と今治市場に出荷され、ダリーンアスパラガスとブロッコリーも今治南農協の集荷場に集められ、今治市場と大阪市場に出荷される。
 玉川町の野菜も朝倉村同様昭和三五年頃から導入された夏秋きゅうりの栽培に始まる(写真3-1)。七月一〇日頃に本圃に播種されたきゅうりは、八月中旬~一〇月末に収穫され、今治市越智郡蔬菜生産組合の手によって、京阪神方面に共同出荷された。四五年頃からは、五月上旬に本圃に種をまき、六月中旬~八月中旬に収穫する夏きゅうりが導入され、きゅうり栽培農家は夏きゅうりと秋きゅうりの二作をする農家が多くなる。玉川町のきゅうり栽培は山間部の冷涼な気候を生かして順調に伸び、最盛期の昭和四七年には、栽培面積二三haを誇った。しかし、その後連作障害や栽培農民の他産業への転業などによって伸び悩み、五九年現在の栽培面積は最盛期の三〇%にあたる七haにすぎない。
 玉川町のきゅうり栽培は、米麦作を基調とする農家の複合経営の一環として導入されていたが、その収益性が落ちると共に、きゅうり栽培が放棄され、代わってしいたけ栽培や町内外での土木建築業への就業が多くなっていくのである。特に町内では、昭和四七年と五一年の集中豪雨にともなう河川の改修工事が土木建築業への就業機会を増やしたといえる。


 朝倉村の圃場整備事業と農業の変貌

 朝倉村は東予地方の市町村の中では圃場整備事業が盛んである。昭和五六~五八年の間に土地改良総合整備事業で二九・五ha、五九年地域改善事業で二・八ha、昭和五七~六〇年の間に県営圃場整備事業で四三・八haの水田が圃場整備された。さらに県営圃場整備事業を継続中のもの四二・六ha、同事業を申請中のもの九一・〇haがあり、計画どおり圃場整備事業が完成すると朝倉村の水田の約五〇%が区画整理されることになる。
 朝倉村で圃場整備事業が積極的にとり入れられたのは、農業立村をめざす武田権一村長が積極的に事業を導入したこと、村内の農民が狭小な水田や農道、灌漑水路の不備のため、営農に不便を感じていたことなどが、大きな要因であった。県営圃場整備事業で水田を圃場整備する場合、一〇アール当たりの工事費は平均七五万円程度を要する。朝倉村では国庫補助四五%、県補助二七・五%のほかに一三・七五%の村費補助を支出しているのは、村の積極姿勢の表れといえる。圃場整備前の朝倉村の耕地は、一枚の水田の平均が三・五アールと狭小であり、他人の農地を通らなければ自分の圃場に入れない水田も二〇%程度あった。また農道が狭く、農機具の搬入、農産物の搬出などに不便を感じる水田も多く、灌漑水路と排水路が同一水路であるため、適正な水管理の困難な水田も多かった。
 圃場整備の実施された水田は、その規模が二〇~三〇アールと広く、農道が完備し、そのうえ、灌漑水路と排水路が区別されている。水田の規模拡大と農道の完備は機械化農業を推進し、灌漑水路と排水路を区分したことは水田・の水管理を容易にし、稲の転作作物としての野菜の導入などを容易にしている。また圃場の拡大は農地の受依託を積極的に推進している。それは旧来の狭小な水田では、農機具の導入が困難なため、農家が農地を借用して規模拡大をはかることは困難であった。圃場整備は大型農機具の使用を容易にしたために、専業農家のなかには第二種兼業農家の農地を借用し、米・麦作の規模拡大をはかることが容易になったからである。また冬季の麦作のために、期間借地をする専業農家も増加してきた。
 圃場整備事業と関連した施設には、上朝倉(現朝倉村)地区の水稲共同育苗施設、同地区のライスセンターがあり、同事業と関連して、太の原共同利用機械管理組合が結成されている。水稲共同育苗施設は上朝倉地区の兼業農家を主とした九三名のものが組合を結成して、共同育苗をしているものであり、兼業農家の育苗の省力化に寄与している。ライスセンターは上朝倉地区の九七戸の農家が利用し、もみの乾燥・調整、政府への売り渡しを行っており、これまた米作の省力化に寄与している。太の原の共同利用機械管理組合は、三六戸の農家が共同購入した農具を利用して、圃場整備の実施された水田で米・麦の機械化農業を推進している組織である。
 朝倉村は越智郡内では最も農業に積極的にとり組み、米・麦作の振興、野菜栽培の発展、各種農業組織の結成などがはかられているが、これら農業振興のテコになったものが、圃場整備事業であるといえる。

表3-1 朝倉村・玉川町における作物別農業粗生産額の推移

表3-1 朝倉村・玉川町における作物別農業粗生産額の推移


表3-2 朝倉村・玉川町の稲の作付面積・収穫量の推移

表3-2 朝倉村・玉川町の稲の作付面積・収穫量の推移


表3-3 朝倉村・玉川町の麦類の作付面積・収穫量の推移

表3-3 朝倉村・玉川町の麦類の作付面積・収穫量の推移


表3-4 朝倉村のいちごの作型(昭和60年)

表3-4 朝倉村のいちごの作型(昭和60年)