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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

四 高縄山地の林業

 林業の地位

 今治市に注ぐ蒼社川の源流地帯には、東三方ヶ森(一二三二m)・楢原山(一〇四一m)・北三方ヶ森(九七七m)などの一〇〇〇m内外の山々が重畳として連なっている。これらの山岳地帯はその盟主高縄山の名をとって高縄山地と呼ばれているが、その北半を占める玉川町・朝倉村・菊間町などの山間部は、越智郡の主要な林業地帯となっている。ここでいう高縄山地の林業とは、この高縄山地北半部の越智郡の山間部の林業をさすものとする。
 昭和五九年の越智郡の素材生産量は、民有林一万一二三五立方m、国有林三七六四立方mであり、その県内における生産比率は民有林で一・九%、国有林で七・二%にしかすぎず、県内における素材生産の地位はあまり高くない。民有林・国有林ともに越智郡の素材生産の大半は玉川町が占めている。現在この地域の林業を特徴づける最大のものは、玉川町の生しいたけの生産である。玉川町のしいたけ生産量は、昭和五九年現在乾しいたけに換算(生しいたけ一kgは乾しいたけ〇・一五㎏)して三万七〇七〇kgに達する。これは県内の二・七%を占め、東予地域では最大のしいたけ生産地となっている。玉川町のしいたけの生産はその八三%までが生しいたけであり、生しいたけの産地として著名である。玉川町の昭和五九年の生しいたけの生産量は二〇万五八〇〇㎏であり、これは県内の二四・二%にあたり、県内最大の生しいたけ産地となっている(写真3-5)。


 林野所有と林野利用

 今治市・朝倉村・玉川町・波方町・大西町・菊間町の越智郡地方部の林野面積は昭和五五年現在一万五七九六haであり、県下の三・九%を占める。林野の所有形態は、営林署の管轄する国有林、県や市町村あるいは財産管理区の所有する公有林、それに個人の所有する私有林に大別することができる。越智郡地方部の林野を所有形態別に区分すると、国有林九四三ha(六・二%)、公有林二七一九ha(一七・二%)、私有林一万二一三四ha(七六・八%)となる。県全体と比較すると公有林の比率が高いのが特徴である(表3-13)。
 林野の所有区分は明治六年の官民有区分によって区画される。今治平野に注ぐ蒼社川流域と頓田川流域の林野は、藩政時代には今治藩の藩有林であり、地方六三か村の入会採草地であった。現在の公有林は、今治市・玉川町及び朝倉村共有林であるが、この山は藩政時代の地方六三か村の入会採草地に起源するものである。
 高縄山地の林野の利用は、用材の生産、薪炭材の生産、肥草を採取する入会採草地、自給作物を得るための焼畑用地に区分することができた。元来、建築用材と薪炭材は集落背後の里山が利用され、その奥地が入会採草地に利用されていた。焼畑用地が広く見られたのは、蒼社川の源流に近くて、谷底平野がほとんど見られない鈍川木地や竜岡木地の奥地集落の背後の林野であった。これらの林野は明治中期から大正初期まで集落住民の記名共有林であったが、のち個人に分割され、それが一部の山林地主に集積されていく。山林地主に集積された林野での焼畑は、杉の植林を条件とした焼畑小作において耕作されていたが、林野の林地化と共に消滅し、第二次大戦後はほとんど見られなくなった。
 蒼社川の源流地帯には広大な国有林が展開する。明治年間の国有林には、もみ・つがなどがうっそうと繁茂していた。しかし交通が不便であったので、その伐採量は多くなかった。天然林の伐採跡には杉・檜などが植栽されていく。この地区の国有林の人工造林の嚆矢は明治二二年(一八八五)であるが、これは高縄山地の人工造林の先駆をなすものであるといえる。
 高縄山地の木材の生産は今治における綿業の発達と関連し、綿布箱需要と結合して盛んになったという。もみ・つがなどの国有林の伐採が盛んになってきたのは明治末年以降である。明治末年から大正年間にかけては、国有林の立木は今治市の木伐問屋に払い下げられ、彼等に雇用された林業労務者が立木の伐採・搬出に従事した。もみ・つがなどの巨木を伐採し搬出するためには高度の技術を要したので、これらの仕事に従事するものは高知県出身の林業労務者であった。彼等は山中に長屋式の小屋を造り、そこで起居を共にした。明治末年には国有林内にペルトン式水車三基がすえつけられ、水車動力で製材もされた。木材の搬出は明治年間から大正初期までは馬の背によって今治に搬出され、大正初期からは馬車道が通じ馬車で搬出された。さらに昭和の初期にはトロッコの軌道が通じ、木材はトロッコで搬出されるようになる。昭和一〇年すぎになるとトロッコの軌道は撤収され、以後木材はトラック輪送にとかわっていく。
 現在木地奥山の国有林面積は八二七haに及ぶが、うち八一%にあたる六七〇haは人工林となっている。人工林の齢級構成をみると、九齢級(四一年生以上)以上が四九%も占め、長伐期の大径木の生産を主体とする国有林経営の特色がよく表れている(写真3-6)。第二次大戦後の国有林の伐採は昭和四〇~四七年頃にかけて盛んに行われたが、以後は伐採・植林ともその面積が著しく減少している。昭和五九年度でみると、素材の生産量は三七六四立方m、新植面積は一八haにすぎない。
現在、立木の伐採・搬出、造林・保育作業はすべて玉川町の森林組合の労務班が請負いでやっており、営林署の雇用している基幹作業員は皆無である。
 共有山組合の所有する公有林は、明治年間には大部分入会採草地であったが、明治三六年(一九〇三)以降共有山組合によって積極的に植林され、次第に人工林にと衣がえしていく。明治四四年(一九一一)現在の郡市別の民有林の植栽面積をみると、越智郡は六七〇町歩に及び、県下随一の植栽面積を誇っている。この植栽面積のなかには共有山組合の植栽面積が多く、共有山組合はこの地区の植林に指導的役割を果たしたといえる(表3-14)。


 木炭と薪炭の生産

 高縄山地の林業で重要な地位を占めていたのは、用材の生産ではなく、薪材や木炭などの林産物の生産であった。明治四四年(一九一一)郡市別の民有林の伐採量をみると、越智郡は用材の伐採では五九万才で県の一・九%を占めるに過ぎないのに対して、薪材は五万棚の伐採で県の一〇・九%にも達し、県下屈指の伐採地域となっている。同年の越智郡の木炭生産量をみると、三〇万貫に達し、これは県の五・六%に相当する。当時の越智郡の製炭量は南・北宇和郡や喜多郡に次ぐ地位を占めていた。
 昭和八年の民有林の木炭・薪炭の生産量を見ると、現在の玉川町内の竜岡村で三〇万貫、同鈍川村で一五万貫の生産量であり、東予随一の製炭地であったことがわかる。同年の薪材の生産は竜岡村や鈍川村の生産量も多いが、上朝倉村・九和村・菊間町・波方町などの生産が多く、薪材の生産は木炭の生産地域より、より都市に近接した山村で生産されていたことがわかる。それは重量に対して価格の安い薪材は、交通不便な時代には長距離輸送に耐えられなかったことによることを示すものである。
 高縄山地の木炭と薪炭の生産は今治市場を対象としたものであり、南・北宇和郡のように大阪市場を対象とした木炭の生産地域とは性格を異にした。製炭業に従事するものは比較的耕地や山林の所有規模の小さい者が、農業のかたわら冬季に副業的に製炭するものが多かった。製炭者は山林の所有規模が零細であったので、その原木の大部分は共有林や他山の私有林の購入原木に依存した。原木資金は自己資金でまかなう者が多く、南・北宇和郡に見られたように、炭問屋から原木資金を前借りするようなことはなかった。木炭は今治市の炭問屋に出荷されたが、山村内には木炭の仲買人が存在し、彼等が駄馬に積んで今治市まで搬出した。木炭の集出荷は昭和三〇年代に入ると、農協の手にゆだねられるようになった。
 この地方の木炭は伝統的に黒炭が多く、その原木は雑木・くぬぎ・ならなどであった。雑木の伐期齢は二〇~二五年程度であったが、くぬぎは八~一〇年程度と伐期齢が短かかった。くぬぎは人工植栽されたものであり、昭和初期に肱川流域から、その植栽や保育の技術が導入された。くぬぎは伐期齢が短かいうえに、雑木の倍額の値段で原木が販売されたので、熱心な山林所有者によってその造林が推進されていく。昭和三〇年頃には、薪炭山のうち、その三〇%程度はくぬぎ林であった。
 玉川町の山間部を中心とした木炭の生産は、昭和三〇年代にはいると燃料革命のあおりを受けて、次第に衰退していく。昭和四〇年代になると、その生産はほとんど消滅してしまう。木炭原木として仕立てられたくぬぎ林は、一時その用途を失うが、昭和三〇年代の後半から四〇年代の前半にかけて、しいたけ原木に転用されていく。今日の生しいたけの生産の隆盛を支える一つの生産基盤は、この豊富なしいたけ原木にあるといえる。

表3-13 今治市・越智郡地方部の林野所有区分面積(昭和55年)

表3-13 今治市・越智郡地方部の林野所有区分面積(昭和55年)


表3-14 今治市・朝倉村・玉川町の樹種別面積(昭和55年)

表3-14 今治市・朝倉村・玉川町の樹種別面積(昭和55年)