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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

二 野間地方の果樹(1)

 波方町の梨と桃

 波方町の果樹は、明治三〇年(一八九七)の生産高統計資料によると、夏橙五二〇貫、柿五〇○貫、いちじく二八〇貫、温州みかん五二貫、ネーブルオレンジ三〇貫、その他柑橘二〇〇貫、梨五〇貫、枇杷一〇〇貫の記録がある。いずれも種類は多いが畑の畦畔、屋敷などで自生的に成長したものであった。大正期に養老地区では山を開いて梨を栽培し利益をあげていく。大正五年(一九一六)夏橙三二貫、温州みかん八七〇貫、柿四二四六貫、梨一七三六貫、桃六〇五貫の生産をあげ、大正年間の農業基本調査では、梨二○ha、桃三ha、柿一〇haの落葉果樹産地を形成した。
 養老の梨は、真木重作技師の指導で、大正三年(一九一四)に八木愛次郎が植え、次いで河野伊佐吉・八木静夫らが植えた。栽培戸数九〇戸で品種は長十郎が七割、一割が市川早生・石井・小池の早生種、二割が晩生の明月・今村秋(淡雪)・伊予の光などであった。販路は九〇%が呉で九王から特船で出荷した。
 その後、梨は昭和三〇年代後半には四〇ha、桃は一〇haになった。一方、柑橘は昭和三五年頃からのみかんブームで、梨栽培からの転換組も含めて昭和五五年の栽培面積は約一二九ha、温州みかんを中心に二九七戸が栽培していた。越智園芸管内でも早期出荷地区で、年内出荷が七〇%を占める(表4-2)。
 みかんブームで面積に大変動をおこした養老・樋口一帯に栽培された梨は、栽培農家四七戸が約一〇haを残して、みかん園に一挙に転換してしまった(表4-3)。残存の梨は波方の特産物である。晩生系(一〇月出荷)の新高が品種の中心で、最近は豊水の導入が図られている(写真4-1)。
 桃は大久保種を中心に微増をつづけ、一〇haまで面積の拡大が行われたが、昭和四五年頃までは単価も安く加工向けが主であった。波方町農協桃部会では、有利販売のできる生食用品種への転換をはかり、第一次導入計画(昭和四五~四七年)により、倉方早生・中津白桃を導入し団地化を手がけた。その後、第二次導入計画(昭和五〇~五二年)で、白鳳系、西野白桃が導入され、現在の栽培面積は一七ha、七六戸の農家が一戸平均二〇アールの栽培を行っている。
 波方町内の河野正は、ハウス桃栽培に取り組んでいる。六アール、四五本の布目早生を中心に無加温ハウス栽培で、二月上旬に被覆し露地ものより約一か月の熟期促進をねらっている。


 波方の柿

 波方町の柿栽培は、昭和二年愛宕柿が導入されたのが始まりである。昭和五年には波方町内と大西町九王地区で一二戸の農家が三haを栽培した。同二八年には一二haの栽培となったが、その後、価格の低迷やみかんへの転換などで減少し、昭和五八年の栽培面積は五haで集団的栽培は一haである。品種は甘柿の富有柿二ha、渋柿の愛宕柿が三haで、個選共同出荷で広島県呉市場に出荷している。柿部会員は二二名である。


 地方の果樹園芸先進地大西町

 大西町は、越智郡の地方(陸地部)における果樹園芸の先進地で、その始まりは明治二四年(一八九一)である。山之内の白石良吉が長男の誕生祝いにみかん苗数本を試作し、さらに明治三五年(一九〇二)に三〇アール開園して、温州みかん・ワシントンネーブルを栽植したのが最初である。その後、数年たって九王の越智亀太郎が、三反地山を八〇アール開墾してみかんと柿を植えた。さらに宮脇の新居田良吉・山本一清・新居田茂七らが相次いで植えた。
 大井村(現大西町)は越智学の提唱で青年層一八名が、大正一〇年(一九二一)大井村果樹研究会を結成し、管理栽培・出荷の研究をすすめた。小西村(現大西町)は昭和九年に国の補助を受け、一挙に七〇haの集団みかん園の造成に成功した。昭和二四年果樹研究同志会を結成、これの指導に専門技術員をおいて本格的技術研究と品質の向上を図った。
 昭和三五~四〇年にかけて、水田の作付転換事業をすすめ、四〇haの樹園地を確保し灌漑施設やモノレールの布設など近代的果樹増産態勢へ脱皮し、経営規模の拡大を図っていった(表4-4)。大西・菊間の両町では、〇・七ha以上の経営農家が三〇%を占めるが、経営規模拡大は園地の分散化をきたし、六か所以上に分散して園地を所有する農家が、一五%も占めているのは作業効率の上からは問題が多い(表4-5)。
 大井地区でも、農業構造改善事業で九王みかん生産組合が主体となり、九王・城山地区で田畑・山林・果樹園を含む一二六haの造成を事業費七〇〇〇万円を投入して達成した。こうして、昭和三〇年代の成長作目の花形として政策的拡大を展開したみかん園も、昭和四七年以降のみかんの斜陽化と慢性的不況に対応するため、品種の更新が積極的に推進された。品種構成の推移を見ると表4-6のごとく、果樹園芸のスター品種温州みかんは、中晩生柑橘のエース宮内伊予柑にお株を奪われている。
 大西町の梨も歴史は古い。明治四三年(一九一〇)船乗りであった別府の別府周佐久が、苗木を温泉郡興居島村(現松山市)から導入している。大正元年(一九一二)には、別府の有志が温泉郡立岩村(現北条市)から苗木を導入した。大正八年(一九一九)には、小西村梨出荷組合をつくり本格的増産に取り組んだ。昭和一〇年には栽培農家七〇戸が、一五haの梨園を経営して二五〇トンの生産をあげた。昭和三〇年頃からは、みかんに改植され、五〇年には七ha、五七年は三haに減じ、翌五八年産の県の果樹統計資料からは消滅した。


 陸地部の主産地菊間町

 菊間町から大西・波方町にかけての山麓地帯は、越智郡地方の主要果樹地帯である(図4-2)・菊間町の種川・菊間川その支流の長坂川の流域に樹枝状に果樹園が展開する。菊間町には、文政一一年(一八二八)正月、『浜村庄屋御用日記』に、長野友之丞(浦手役)及び長野半十郎(浜村庄屋)の両名が、松山藩主へみかんを献上したことを記している。
 菊間町・大西町の先駆的商業農業は果樹(梨)農業で、梨の導入はみかんより早く明治三〇年(一八九七)頃で、その後、梨が柑橘類に代わって逐次普及していく(図4-3)。菊間町果樹園芸の祖、旧歌仙村現菊間町)村長菅政次郎が、明治三二年(一八九九)北条市柳原の旧里正二神邸の屋敷園を整理するので、夏柑一五本、伊予柑一本、温州三本を池原の屋敷の東畑に移植した。
 村長で農会長の菅政次郎は、村内の農家が米麦作の他に副業がなく、松尾他三集落は山仕事、高田・池原は菊間町の瓦工場へ通い、農閑余業により家計補助をしている現状を憂い、農閑期の収入源に柑橘栽培を思いついた。そこで、明治三三年(一八九九)自ら試作を始め、三年後には温州みかん一〇〇本を植えた。池原一二名、高田六名、松尾四名、中川一名、菊間地区では蔵谷・田尻・長坂の各々一名の同志を得た。松山市持田の苗木商三好保徳を訪ね、明治四〇年(一九〇七)池原集落一〇〇戸に部落費と村農会費で補助し、各戸に作りやすい夏柑苗三本とネーブルオレンジ苗二本宛配布した。畑のない者には、部落有の石土山の一部を提供して開墾させた。さらに東野・道後(現松山市)などの先進地を視察し見聞を広め指導を受けた。当時苗木は価格一〇銭で広島県大長村(現豊町)、三津浜町(現松山市)から導入し、四年生で二~三年後に結果した。
 長坂の本宮経直は、明治四四年(一九一一)田窪清太郎から温州みかん苗二本、三年生ものを三〇銭で購入した。長坂でも池原にならって、部落協議費で一戸五本宛四年生苗木を購入して全戸に配布し、接木師が来て一株二銭で農家を巡回した。
 明治三五年(一九〇二)佐方の新田役太郎が広島県大長村(現豊町)の苗木商に勧められ、幼木三〇〇本を購入し、石炭船の船長をしていた佐方の矢野庄吉や、里ノ側の長野卯太郎が一〇〇本程の苗木を植え込んだが、栽培法が幼稚で仲買商人に買い叩かれた。
 種の光永卯五郎は日露戦争から帰還した後、徳井与八と図り三津浜の上野苗木店より苗木一〇〇本を取り寄せ、種集落最初のみかん園を開いた。これに刺激されて栽培熱があがったが、佐方の山崎仲次が数百本に及ぶ苗木を植え込んで村民の嘲笑を受けた。大正初年、村上定次郎らは苗木の導入や栽培技術の向上を図るなど副業として奨励した。大正七年(一九一八)頃、農村に結核が流行した。「結核がはやるのはみかんを食べるからだ」というデマがとび、みかんの売れ行きがサッパリになった時期もあったという。大正中頃、山崎仲次の努力によってみかんの共同販売が行われたが、取引先は主に広島県三原市であった。これが園芸共同組合結成の端緒となり、さらに養蚕の不況が果樹の普及に拍車をかけた。
 かように、幾多の先覚者の先導的努力によって柑橘栽培が普及していくが、柑橘類の普及する前は、主として山林の開墾と一部普通畑の転換によって和梨が広く栽培されていた。果樹農業は明治二〇~三〇年(一八八七~一八九七)代にかけて展開しはじめ、当初は梨作主体であったが、大正から昭和初期にかけて梨作が後退しはじめ漸次柑橘作にとって代わった。
 越智郡役所は、養蚕と果樹栽培について特に力を入れ、郡農会技手柳田源一郎や関係技手を郡内各地に派遣し、講習会や講話会を開いた。大正二年(一九一三)から桑園開墾に郡費より補助金が交付され、大正二年度山林開墾出願三一筆四町二反のうち、二三筆三町二反が許可され、さらに、同四年四反五畝、同五年六反五畝、同七年三六筆四町二反、同八年六六筆八町五反のうち二町九反が許可されている(旧菊間町分)。これら開墾された畑は桑園とともに梨やみかん園になっていった。
 柑橘の前作として隆盛をきわめた梨が、後退していった要因は何か。梨作の衰退要因は病虫害の発生による技術的要因と、みかん価格との相対的不利性(長十郎など赤梨系統が主で、鳥取の青梨二十世紀に圧倒された)があげられる。

表4-2 野間地方の町別果樹の品種別栽培面積(昭和60年)

表4-2 野間地方の町別果樹の品種別栽培面積(昭和60年)


表4-3 波方町の果樹の品種構成の推移

表4-3 波方町の果樹の品種構成の推移


表4-4 波方・大西・菊間三か町のみかん農家経営規模別農家割合(昭和51年)

表4-4 波方・大西・菊間三か町のみかん農家経営規模別農家割合(昭和51年)


表4-5 波方・大西・菊間三か町の園地箇所数別農家数と割合(昭和51年)

表4-5 波方・大西・菊間三か町の園地箇所数別農家数と割合(昭和51年)


表4-6 野間地方の果樹栽培面積の推移

表4-6 野間地方の果樹栽培面積の推移


図4-2 野間地方の土地利用

図4-2 野間地方の土地利用


図4-3 大正4年(1915)今治市・越智郡の市町村別みかんと梨の栽培面積の分布

図4-3 大正4年(1915)今治市・越智郡の市町村別みかんと梨の栽培面積の分布