データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)
七 大西町大井新町の街村
大井新町付近の景観
図4-9は大井新町付近の明治三二年(一八九九)測図と最近の地形図である。八七年間の時差がある。現在は来島どっく関係の建物が、たくさんできて、景観はずいぶん変わっている。古い地形図で大井新町の集落は、砂丘(低いから砂堆)の微高地(海抜二・五九m)の上に形成されていることが判る。国道一九六号は、大井新町の道路を避け、大井八幡神社の下を東西に走っている。そのため大井新町、一名「梅の町」の松山藩の在町は、江戸時代の地割と井手の大庄屋の俤を残している。
野間郡手鑑にある大井新町
『野間郡手鑑』は伊予史談会に嘉永三年(一八五〇)の写本がある。記載内容は享保一〇年(一七二五)から元文三年(一七三八)に至る記事という。「新町村」の高は二四八石一斗で、田畑面積は田一八町八反、畑一六町一反。家数五二軒、内四〇軒が本門、一二軒が無給家。人口二五三、内男一三二、女一一五。出家一、社人二、医師一、道心一、聲目一。牛二〇、馬二五。池五、神社一、小宮数五、浄土宗真光寺一 (今治来迎寺末寺)。大庄屋-井手清左衛門三人扶持。新町村庄屋宅より九王村庄屋宅迄二二町とある。これは菊間小学校発行(昭和三一年)の『郷土のありさま』付野間郡手鑑の三五七~三五八頁にある。
『大西町誌』(昭和五二年発行)の一三五頁によれば、同じ『野間郡手鑑』より抜抄としているが、次の如くである。新町村は家数九四軒、古来三六軒、人高三九三、牛馬五五疋とある。
松山藩の東予の松竹梅の在町
松山藩は東予地方の在郷(田舎)に、城下町の古町のような在町を許可し、免租地にして繁栄させた。周桑郡の丹原町には松を、吉岡新町には竹を、大井新町には梅を植えさせ、松竹梅と縁起をかついだ。桜樹地方の山村の物産の集散地として計画的に丹原町を建設したのは正保元年(一六四四)であり、町の大手に並松を植えたのは正保四年である。当時並松は一種の流行であった。大洲藩では、郡中の新川や鳥坂峠の札掛に並松を植え、近年まで残っていた。丹原の老松も近年まで見ることができた。松喰虫で枯れた。
吉岡新町は「字形の街村で、今は寂れているが、明治維新までは松山の城下にあるものは何でもあるといわれるほど栄えた免租の在町で、今でも竹林が多い。松山の大街道に店を開いた山本万次郎は吉岡新町の出身である。吉岡新町の一六五軒の町割をした時代は、明確でないが、円照寺建立の寛文二年(一六六二)頃と推定する。
図4-10は明治九年(一八七六)の地籍図を縮小した、梅の町大井新町の在町の略図である。_「型の街村で、中央の西側に大庄屋の井手家がある。
井手家の宅地は面積三反三畝二六歩で、間口が三五間、奥行が二七間である。街村の道幅は三間のところと一間半のところがある。井手家は昭和五五年まで大西町役場に使用されていた。戦前大庄屋の倉庫の長持に古地図や古文書があったが、戦後散逸して、この町割のできた年代も明確でない。松の町の丹原が正保元年(一六四四)、竹の町の吉岡新町が寛文二年(一六六二)とすると、梅の町の大井新町の開拓もほぼその頃かと思われる。北の直角に曲がる両側に札場があった。東側の三六八番地の田坂家の所が、親族の近藤福太郎の住宅である。明治九年(一八七六)当時の宅地の所有者には井手・田坂一族のものが多い。いま井手の大庄屋の北の道を西に突き当たると予讃線大西駅である。井手の大庄屋の位置は街村の中央である。町割の一軒分は、他の在町と同じく、間口五間乃至七間、奥行二五間乃至三〇間である。井手の大庄屋の屋根の防火用の水瓶は特色がある。昔を語る楠だけが健在である。
『松山叢談』の第四巻に松山藩の在町(二九六頁)として、三津町・辻町・柳原町・波止浜・桑村新町・丹原町はあるのに大井新町の名がない。それで「梅の町」は辻町か柳原町とする説もある。大井新町には村方番所(二九八頁)や制札立所(三〇〇頁)や伝馬継場(三一七頁)などがあった。