データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

九 加茂神社のお供馬

 お供馬

 一〇月一〇日、菊間祭りの花形は菊間町加茂神社の「お供馬」である。以前は一〇月二〇日が祭日だったが、昭和四七年から町内の祭りを統合して一〇月一〇日に行われることになった。菊間駅の東約一㎞のところにある加茂神社は、寛治四年(一〇九〇)に京都の加茂別雷神の分社として創立されたものである。
 菊間の地は古く「菊間荘」・「佐方保」として京都賀茂別雷神社の荘園であり、上賀茂神社で行われる有名な競馬会の費用を拠出していた。領主であった上賀茂神社との関係などから「葵祭」をまねたお供馬の行事が続けられたものと考えられる。昭和四〇年一二月二四日付で愛媛県無形民俗文化財の指定を受けた。
 お供馬は、例大祭当日に境内で行われる走り馬の行事に参加する馬と乗り子が神輿渡御に供奉し、お旅所へ行き、宮入りの後に社頭で解散するところからこのように呼ばれる。
 祭り当日の加茂神社は大勢の人々と華やかな色どりに包まれる。早朝より、氏子内で飼育されて装飾具で飾られた牝馬に、七日間の「みそぎ(潮垢離)」を経て白衣の上に平袖の長襦絆、白はちまきにエドソの白たすき姿の乗り子(三歳から一五歳の子供)が、紙のボンデンをつけた竹根の鞭を持ってまたがり、ロ引きの大人の介添えとともに集まってくる(写真4-8)。乗り子たちはそれぞれに鞭を入れて、次々と鳥居から神社脇まで幅約九m、長さ三〇〇mの直線の参道を神社脇めがけて一気に走り込む。昔から信仰に基づく自発的奉仕なので参加の頭数は年々一定していない。大正末頃までは一〇〇頭以上の参加で、明治一四年(一八八一)には一三〇頭、大正一一年(一九二二)には一二八頭の記録があるが、年々減少し、最近は二〇頭程度になっている。
 大勢の参詣者に見守られながらお供馬の「走り込み」が行われている間を縫って、獅子、太鼓台(ダンジリ)、牛鬼、屋台が次々と境内へ集まってくる。獅子組は午前八時頃社頭に姿を現し、石段下で「継ぎ獅子」などいろいろな演技を公開する(写真4-9)。牛鬼は東予地方ではここだけの珍しいもので、竹で胴体をつくり、布の胴着でこれを覆い、その中に入って担ぐもので、その大きさは長さ八m、幅二mあまり、首は伸縮自在で長さ四m近くある。その巨体をくねらせながら参道を練り歩く。
 昼前になると渡御式が始まり、それまで「お供馬の走り込み」が繰り返されていた参道は、二体の本社の神輿のほか、早朝より渡御してきて社殿内で待っていた四体の末社神輿と、大小多数の子供神輿の金色と赤と輿丁の白いハッピ姿で埋めつくされる。


 お供馬と畜産
        
 お供馬に伴う馬の飼育について菊間町の資料から紹介しておく。
 県下の市町村を単位として馬の飼育頭数の多いのは、昔も今も菊間町が第一位である。農耕作業や山林経営の上に是非馬が必要という立地条件は取り上げるほどのものではない。飼育頭数の多い原因として次のようなことが考えられる。一つは、毎年行われる秋祭りのお供馬に氏子の農家が奉仕することに誇りと喜びを感じ、競って参加する慣習があった。次に、菊間町の地場産業である古来から菊間瓦とその名を嘔われている製瓦業では、トラックや荷馬車などのない頃は専ら人の肩と馬の背によって製瓦の燃料が運ばれていた。山林の伐採が終わると「木出し」といって馬を引いた若者が続々と山に入り「大束」をつけた馬が列をなして瓦屋へ運んでいた。この木出しによる農家の収入は、農閑期でもあり大きな魅力であった。この二つの理由が馬に対する関心を高め、引いては馬匹改良や飼育について先進地として認められることとなったものであろう。
 郡制の敷かれていた頃は、越智郡役所及び畜産組合よりお供馬の行事に奨励金が供進されており、事故にそなえて獣医が派遣されていた。支那事変以来、境内は軍部の徴発馬の集合所となり、高知種馬所が行うこの地方一帯の馬疋検査場にあてられていた。


 その他の観光資源

 菊間町には、県指定天然記念物として賀茂の大くすのき、客神社社叢があるほか多くの史跡、名勝がある。
 歌仙の滝 菊間川の上流にかかる滝で幅五m、高さ六七m、春は桜、秋は紅葉が美しい。かたわらに十一面観音を祀る観音堂があり、春の彼岸が縁日で「お滝参り」の人々が訪れる。
 遍照寺(厄除大師) 毎年節分に厄除の法要が行われ、四二歳の厄除の男が瓦製鬼みこしを担ぎ、六一歳の厄年の男が「福は内、鬼も内」の掛声とともに豆やもちまきを行う。七〇〇年の伝統産業菊間瓦の繁栄祈願をこめた掛声でもある。