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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

二 越智諸島の葉たばこ

 黄色種葉たばこの導入

 愛媛県における葉たばこ栽培の歴史は古く、宇摩郡の銅山川流域では阿波国(徳島県)山城谷村の影響で、慶長年間(一五九六~一六一五)に阿波葉の栽培が伝わったという。明治中期には県内各地で作られるようになり、宇摩郡の阿波葉のほか、周桑郡の桜樹葉、温泉郡・伊予郡の砥部葉、喜多郡の大洲葉などが知られる。
 これらは一般に在来種とよばれるもので、現在県内で栽培されている葉たばこは黄色種が中心である。明治三四年(一九〇一)アメリカから黄色種(ブライトイエロー)が輸入され、神奈川県で試作された。同種は翌年兵庫県、三六年(一九〇三)には広島県でも試作され、大正元年(一九一二)に広島県大崎島・生口島に初めて導入された。
 県内における黄色種の栽培は大正二年(一九一三)大三島町で作られたのに始まるが、これが四国における黄色種葉たばこ栽培の最初である。その後、大正八年(一九一九)には伯方島に(写真5-2)、同九年には三津浜に普及し、のち南予地方にも拡大した。大洲・内子地方では昭和一五年には黄色種が導入されると、土質や気候条件に恵まれて急速に広がり、今日では県内における葉たばこ栽培の中心地となっている(地誌『南予編』・内山盆地の葉たばこ栽培参照)。


 越智諸島における葉たばこ栽培の発展

 大正二年に大三島の宮浦村・岡山村・鏡村(現大三島町)と盛口村(現上浦町)に黄色種葉たばこの栽培が導入された。大三島における従来の畑作物は麦・さつまいも(甘藷)が主で反収は一二円ほどであったが、葉たばこは反収一五〇円前後もしたため換金作物として急速に拡大した。当時は麦畑のあぜ間を少し広くとってたばこを栽培する方法がとられた。これをたばこ麦とよび、麦の収穫も確保できるので広く普及した。葉たばこ栽培の普及は当時の村長など村の指導者の努力に負うところが大きく、上記四か村には導入と同時にたばこ耕作組合が創立された(表5-2)。
 大正五年(一九一六)には同じ大三島の瀬戸崎村(現上浦町)でも葉たばこ栽培がはじまり、瀬戸崎たばこ耕作組合が設立された。宮浦・岡山・鏡の各村のたばこ耕作組合は、広島地方専売局竹原出張所管内の竹原たばこ耕作組合連合会に加入し、盛口村は広島地方専売局瀬戸田出張所管内の瀬戸田たばこ耕作組合連合会に加入した。また瀬戸崎たばこ耕作組合も瀬戸田たばこ耕作組合連合会に遅れて加入した。
 大三島ではじめられた葉たばこ栽培は、大正七年(一九一八)には弓削村・岩城村に普及し、それぞれにたばこ耕作組合が作られて瀬戸田たばこ耕作組合連合会に加入した。さらに大正八年(一九一九)には東伯方村・西伯方村でも葉たばこ栽培が始まり、翌九年(一九二〇)には大島の津倉村・亀山村・渦浦村(現吉海町)及び宮窪村・大山村(現宮窪町)にも広がった。伯方島と大島の各村でもたばこ耕作組合が設立されたが、いずれも単独のままであった。
 伯方島・大島の各村のたばこ耕作組合は、大正一一年(一九二三)東伯方村役場内に伯方・大島たばこ耕作組合連合会を設立して加入した。同連合会の初代会長は岡田喜一郎東伯方村長、副会長は西部惣平津倉村長で、評議員には渡辺房右エ門(西伯方)、矢野有志夫(宮窪)、重松喜惣太(大山)、村上揚作(亀山)、塩見督(渦浦)の各村長が就任した。
 大正初期の葉たばこ栽培は、農民が広島地方専売局に耕作を願い出て、煙草耕作許可証を受けなければならなかった。この許可証は専売局臨検の際はいつでも提出できるよう保管が義務づけられ、また耕作許可条件の変更を申請する場合も提出が求められた。
 専売局は農民に対し細かい指導を行ったが、この許可証の注意書にも播種期や移植期が品種別に記されていた。それによると、播種期は三原葉・米国種が二月一日~二月一五日、備後葉二月二五日~三月二〇日で、移植期は三原葉が五月一〇日~五月三一日、米国種五月五日~五月二五日、備後葉六月一日~六月三〇日であった。また、「移植後苗床に残存せる煙草苗は直ちに廃止すべし」とか、「一か所の植え付けを終わりたるときは直ちに株数明細票を調整し指定期日に検査官に提出すべし」・「耕地一か所毎に許可番号、字、地番、段別及住所氏名を記載したる目標を五尺内外の竿頭に附着建設すべし」などの注意が記されている(『上浦のこみち』による)。
 さらに広島地方専売局は大正四年(一九一五)に『黄色煙草の耕作法』を発行し、苗床、移植期、施肥法、肥料や畦株間、収穫期と手入れ、成熟乾燥、貯蔵調理、種子輪栽法、病虫害などについて詳しく説明し、農民の指導にあたった。大正一〇年(一九二一)盛口村では耕作者が一七〇人、栽培面積二七町歩に達し、三万八〇〇〇円の賠償金を得ている。この年の反収は約一四一円であった。
 昭和に入ると、まゆ価格の暴落や社会情勢の変化などにより島しょ部においても養蚕が減少し、畑作物として安定している葉たばこ栽培が拡大した。島しょ部の桑畑面積は昭和四年の八九町歩から一六年には一七町歩に減少している。また、葉たばこの花粉が桑の葉につくと蚕に被害を及ぼすので、桑と葉たばこを隣接した畑では作らず、家の近くの良い畑には葉たばこが栽培され、遠くの畑に桑が残った。広島地方専売局『昭和五年煙草耕作実績』によると、岡山村が最も盛んで耕作人員三六九人、栽培面積一〇一町歩に達している(表5-3)。大三島は葉たばこ栽培の導入が早かったため技術が進み、農民の中には専売局から耕作指導員として九州へ派遣される人が出た。井口や盛から鹿児島へ派遣された人もあり、指導員の月給一〇五円は盛小学校長の七五円に比べてもかなり高給であった。
 越智郡島しょ部における葉たばこ栽培は、昭和一三年までは広島地方専売局管内で取り扱われた。また越智郡陸地部は坂出地方専売局、宇和四郡は福岡地方専売局の管内におかれていた。一三年に伯方島・大島の各村は坂出地方専売局管内に移り、一八年から高松地方専売局の管轄となった。伯方島には専売局の伯方出張所(写真5-3)、大島には津倉取扱所がおかれて葉たばこの収納にあたった。大三島は、はじめ竹原取扱所に収納していたが、昭和初期に浦戸取扱所が設けられ、上浦側には盛口臨時取扱所がおかれた。また宮窪村ははじめ伯方出張所が直轄して取り扱っていたが、昭和二〇年に宮窪臨時取扱所が設けられ、岩城村には重井臨時取扱所がおかれた。
 昭和一八年に専売局の機構改革が行われ、行政地区ごとに局所の統合が行われた。これにより伯方出張所は高松地方専売局に移管し、大三島の葉たばこ栽培も同専売局の管轄下におかれることとなった。これを機に伯方・大島たばこ耕作組合連合会は、任意組合の伯方たばこ耕作組合と改称し、大三島の五か村および岩城村・弓削村の各たばこ耕作組合も、それまでの竹原たばこ耕作組合連合会や瀬戸田たばこ耕作組合連合会を脱してこれに統合した。
 同年八月の役員改選により組合長(岡田喜一郎伯方町長)・副組合長(西部惣平津倉村長)が再選され、評議員には赤瀬幸一(西伯方)、藤井亮(宮窪)、山田保一(大山)、池田頼道(亀山)、古川貞一(渦浦)の各村長が選出された。さらに翌一九年四月の改選で西伯方村長が赤瀬達一に、宮窪村長が御堂政逸に代わったほか、新たに大三島から菅豊一(宮浦)、菅常一(岡山)、横山武市(鏡)、藤原始信(瀬戸崎)、藤井義光(盛口)の各村長および稲本早苗岩城村長が評議員に加わった。
 坂出地方専売局の『昭和一三年煙草耕作実績』によると、伯方島・大島の各村のうち東伯方村が栽培面積三四町七反で最も多く、次いで西伯方村(二〇町一反)、亀山村(一九町三反)、津倉村(一六町九反)などが多い。この年の各村の反収は平均一九一・五kgで、反当たり賠償金は二五〇~二六〇円であった。大三島の葉たばこ栽培が高松地方専売局で記録されるのは昭和一八年以降で、それによると先進地域の岡山村が五六町歩、盛口村が四八町歩で群を抜いて多い。耕作者も盛口村一六五人、岡山村一三九人で、西伯方村・亀山村は八九人でこれに次いでいる。戦時中は物資不足が深刻になり、一九年一一月からたばこ配給制が実施された。


 戦後の葉たばこ栽培の盛衰

 終戦当時の県内の葉たばこ栽培は、松山平野、東予地方の平野部と並んで、越智郡島しょ部が  主産地であった。やがて伊予郡・喜多郡の中山間地帯や東宇和・北宇和・西宇和の各郡でも、桑にかわって葉たばこの栽培が拡大した。昭和二二年の臨時センサスによると、越智郡島しょ部の葉たばこ栽培面積は約一九三町歩で、県内の二二%を占めている。特に大三島の岡山村・盛口村が盛んで、次いで鏡村・伯方村・西伯方村が多い。二四年に日本専売公社法が施行され、たばこ専売事業は専売公社に移管された。この年は島しょ部における黄色種たばこ栽培三〇周年にあたり、記念式典が行われた。
 島しょ部における葉たばこ栽培の全盛期は昭和二九~三一年で、二九年の栽培面積三二五・五町歩は県内の一六・九%、収納代金では一七・八%を占めた(図5-6)。また耕作者数は二二年が二六二〇人、二三年が二六七七人で最も多く、三〇年は一八〇七人で以後しだいに減少した。
 このような情勢のなかで伯方たばこ耕作連合組合は、各町村ごとの単位組合を統合して三一年に伯方たばこ耕作組合と改称し、組合長には田窪宇一伯方町長が就任した。同組合は三三年九月のたばこ耕作組合法の制定により法人組合となった。また三六年からたばこ乾燥用燃料としてコークスが用いられるようになり、薪を割る労力と燃料経費が節減された。また葉たばこの栽培技術も進歩し、専売公社は作業の簡易化、省力栽培法を指導し始めた。例えば播種では点播から撒播になり、中耕、間引き、追肥などの苗床管理が不要になった。また移植後の中耕や土寄せも、従来の四~五回から二回に減り、芯止め後の腋芽かぎも一回ですむようになった。
 このように省力化が進んだが、他の作物に比べるとなお多くの手間がかかり、特にたばこの乾燥は最も神経を使う作業であった。たばこの乾燥室は初期には集落ごとに建てられ、一室を数人が組になって協同利用していたが、昭和一六年頃からしだいに個人所有が増えた。個人持ちにすると四反~六反栽培しないと満室にならないので許可をうけて耕作地を増やしたため栽培面積が増加した。また燃料もコークスにかわって三八年からガスバーナーや重油・灯油バーナーがコスト高にもかかわらず導入された。
 昭和三四年から専売公社が葉たばこ栽培の減反を始め、三七年には増反に転換したが、三〇年頃から島しょ部に普及してきたみかんの好況に刺激されて、島しょ部の葉たばこ栽培面積は二九年の三二五haをピークに年々減少した(図5-7)。また造船業や石材業などの発達による労働力の減少も大きく影響し、三九年の栽培面積は一七二haで県内の八・二%になった。葉たばこ栽培は連作が困難なため二倍の畑が必要で、耕作者は借地をして栽培する者も多かった。しかし柑橘栽培の増加により普通畑が減少して小作地の確保が困難となり、また圃地の老朽化もたばこ離れを促した。
 こうして四六年には栽培面積が前年の九一・九haから五〇・一haになり、四七年には二五・九haと年々半減し、県内における葉たばこの主産地としての地位を失った。葉たばこの収納所も三二年までは伯方出張所の直轄(伯方町・弓削町・岩城村)のほか、津倉取扱所(宮窪町・吉海町)、浦戸取扱所(大三島町)、盛口臨時取扱所(上浦町)があったが、三三年に浦戸取扱所と盛口臨時取扱所が合併して宮浦取扱所となり、津倉取扱所は三六年に吉海取扱所と改称した。さらに四三年には上浦町、四四年には弓削町で葉たばこ栽培が消滅し、直轄取扱所の管轄は伯方町と岩城村のみとなった。四六年には大三島町の宮浦取扱所を廃して直轄取扱所の下においたが、伯方町の葉たばこ栽培も四六年の四・二ha(耕作者一三人)を最後に消滅したため、伯方出張所の業務も同年で幕を閉じた。四七年からは今治出張所吉海取扱所(岩城村・大三島町・宮窪町・吉海町)となったが、この四町村の葉たばこ栽培も四九年に今治出張所の管轄下に編入された。
 四七年における耕作者は七〇人、栽培面積は二六haで、そのうち吉海町が四六人、一五haで最も多く、次いで大三島町一二人、五ha、岩城村五人、三・五ha、宮窪町七人、二・五haである。吉海町では平田・上所・養老・田浦・田居・下田水・椋名の七地区、大三島町では宮浦・大見・肥海、宮窪町では早川・鵜島・大窪の各地区で作られた。五九年にはさらに減少し、栽培面積は七・六ha、耕作者もわずか一一人にすぎず、盛時の面影をかすかに残しているのみである。

表5-2 越智諸島の創立時のたばこ耕作組合

表5-2 越智諸島の創立時のたばこ耕作組合


表5-3 越智諸島の昭和初期の葉たばこ栽培(昭和5年)

表5-3 越智諸島の昭和初期の葉たばこ栽培(昭和5年)


図5-6 越智郡島しょ部の最盛期の葉たばこ栽培(昭和29年)

図5-6 越智郡島しょ部の最盛期の葉たばこ栽培(昭和29年)


図5-7 越智郡島しょ部の葉たばこ栽培の変遷

図5-7 越智郡島しょ部の葉たばこ栽培の変遷