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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

三 大島・伯方島・大三島の柑橘(1)

 越智郡島しょ部の土地利用の変化

 越智郡島しょ部の土地利用は、普通畑が卓越し全耕地面積に対する割合は七〇%(昭和一○年)であった。主作は藩政時代から裸麦・甘藷で、甘藷は正徳三年(一七一三)以後に導入栽培された。明治末年から大正に入り、除虫菊が導入され年とともに栽培面積が拡大した。昭和二七年の土地利用状況をみると(表5-4)、普通畑率はいぜんとして高く西伯方村(現伯方町)・魚島村の九八%を筆頭に殆ど四割以上で最低は関前村の三二・三%である。果樹園率はまだ低く、関前村の六七%が最高である。岡山村(現大三島町)五四・七%、旧伯方町四〇・七%、宮窪村(現宮窪町)三三%が比較的高く、他はそれ以下である。しかも島特有の地形的制約が著しく、急傾斜地率は五〇%以上である。
 第二次大戦後の食糧事情の好転と、昭和三〇年代のみかんブームは温州みかんの栽培熱を高めて急速に伸び、農業構造改善事業はこれに拍車をかけた。補助金制度を背景に果樹振興の政策拡大に便乗して、またたく間に普通畑は姿を消しみかん島に変貌してしまった(表5-5)。


 大島の果樹
 
 大島は大三島の一〇六七haに次ぐ栽培面積七三三haの果樹栽培の盛んな島である。栽培の中心果樹は温州みかんで、吉海町は八二・七%、宮窪町は七九・五%が温州みかんの単一耕作の島である。昭和五八年の吉海町の温州みかんは二二二・七haで早生温州が五二・三ha(二三・五%)、宮窪町は二四三haで早生温州四二ha(一七・二%)である。
 吉海町名駒の大谷には「名駒みかん」という小みかんの巨木群がある。愛媛県指定の天然記念物で、樹齢三〇〇年以上という古木は、みかん産地の歴史の古さを物語っている。
 大島の果樹栽培の始まりについて、『吉海町史』は次のように記している。

明治二六年(一八九三)南予の立間から宮窪村友浦に導入した。宮窪ではこれより先に俗称慶治さんの開墾したけいじ畑に安政頃紀州みかんを植えたのが最初である。明治末大山村泊の重松良太郎が和歌山県までみかん栽培の研究に行って帰村後、大規模栽培を開始しその後、岡部落の重松寅五郎が泊の相田に農工銀行の融資を受け、三町歩にわたるみかん園を経営した。

 村上節太郎の論文によると、泊のみかんの起源は、明治三六年(一九〇三)重松禰平が漆器行商で、北宇和郡吉田町立間へ行ったおり、みかんの有利なことを知り柚砧温州苗五〇本を導入し、一反歩植えて嘲笑されたという。次いで、重松良太平は大長(現広島県豊町)のみかん商大亀に頼んで一・六haの山林を開いて開園した。
 ネーブルは明治三八年(一九〇五)津倉村(現吉海町)八幡の片山新太郎が八幡山麓に栽植した。昭和五年津倉村にみかん出荷組合がつくられ、共同選果を行い市場に出荷するようになった。夏柑は明治一八年(一八八五)に導入している。宮窪町友浦では、戦後も一一haの苹果を栽培していた(表5-6)。友浦の苹果は明治三九年(一九〇六)杜氏の青野太郎吉と越智友吉の二人が、温泉郡興居島村(現松山市)泊の造り酒屋へ出稼ぎに行ったとき、綿虫の害で捨てられた苹果苗一三本を持ち帰ったのがはじまりである。その後、宮窪の苹果も綿虫の害と昭和三〇年代のみかん景気に刺激され、温州みかんに転換してしまった。
 かように、大島は早くから果樹が導入されたにもかかわらず、みかんの専業的栽培がおくれたのは、宮窪町は宮窪杜氏の出身地で若者が県内外に出稼ぎしたこと、吉海町は大島石の切り出し作業や津倉塩田の浜子など現金収入が多かったからである。しかも、大正から昭和の戦前にかけ除虫菊・たばこ・甘藷など有力な換金作物があったためである。したがって、温州みかんが本格的に栽培されるようになるのは、昭和三〇年代以降のことである。表5-7の如く、温州みかんが基幹的品種であったが、その後柑橘類の品種構成の多様化がすすみ、晩生柑橘への更新が展開した。


 伯方町の八朔

 伯方町のみかん栽培が本格化するのは、昭和三〇年代以後のことで、それ以前は普通畑が急傾斜地にひろがり、普通畑率が旧伯方町七五・一%、西伯方村六六・〇%を占め、果樹園率は前者が四〇・七%、後者は九・〇%であった(表5-4参照)。主作物は裸麦・甘藷で大正に入ってから除虫菊・たばこが導入された。みかん栽培がおくれたのは、除虫菊や戦後しばらくはやったゼラニウムなどの有力な商品作物が普及していたからである。したがって柑橘栽培が急増するのは昭和三四-三五年から後のことである(表5-8)。
 伯方町の柑橘栽培の特徴は、昭和四〇年以後急増してきた八朔の栽培である(表5-9)。昭和五八年の愛媛県における八朔栽培面積は、一一六四・二haでそのうち越智郡が六四六・五ha(五五・五%)を占めている。郡内では県内最大産地の上浦町一五一ha(一三%)に次いで、伯方町は八六ha(七・四%)県下でナンバー二の八朔産地である。伯方の柑橘栽培面積四八六・七haのうち、温州みかん五四・六%に次いで八朔が一七・八%を占め、伯方町の特産物と化した(写真5-4)。
 八朔の起源および原産地は、万延元年(一八六〇)広島県因島市田熊町中区の恵日山浄土寺の寺領で、自然実生の八朔樹が発見された。住職の小江恵徳上人が「旧暦の八月朔日になると食べられる」といわれ八朔と名づけたという。自然実生樹に黄金系の夏柑型の果実が結実し、その味は夏柑に比較して酸味が少なく風味良好で田熊を中心に栽培がふえた。
 こうして、因島を中心に栽培された八朔が、昭和に入ってから広島県御調郡や豊田郡にひろがり、その後次第に他府県にも栽培されるようになった。昭和四七年の致命的ともいうべき温州みかん価格の暴落不況から、原産地に隣接している関係で、積極的な温州みかんの高接更新による八朔の特産地づくりをめざしている。


古いみかん島の大三島

 愛媛県における最初のみかん産地は越智郡大三島である。大山祇神社の大祝館所蔵の古文書『三島文書』に室町時代の三島大祝家より「態御状喜悦候、殊みかん御状のまま到来候」と、伊予国湯月城主河野通直にみかんを贈進した記録がある。みかんに関する古文書としては、日本最古のものという。

「該文書の年号を、通直晩年の天文十年(一五四一)頃としてなおみかんの栽培を五〇年前と假定すれば、大三島は関西におけるみかん栽培の権興たるべ理なり。」

と菅菊太郎は『伊予史談』第一巻第四号「伊予における古き蜜柑の栽培地」に記している。

 上浦町盛口の菅道久宅の小みかん・大島の吉海町椋名字名駒の大谷にある名駒みかんの小みかん古木群は、いずれも樹齢二〇〇-三〇〇年を経た老木で、県指定の天然記念物としてその古さを物語る証である。起源は倭寇が華南から持ち帰ったものともいう。
 しかし、柑橘類が商品作物として栽培されたのはもちろん明治以降である。大三島の温州みかんは、明治一七年(一八八四)盛口村(現上浦町)の松岡梅吉が広島県から苗木を購入したのが最初である。鏡村(現大三島町)では越智郡農会がみかん栽培を奨励したが、実を知らず大長村(現広島県豊町)を視察してから、大長の苗木商の斡旋で尾張と泉州から一本八銭(米一升九銭当時)で一八〇本購入したのが初めである。昭和五年には鏡村に一八haの柑橘園が開かれ、大見の加藤幸市が五〇アール、明日の谷口数太郎が六〇アール、肥海の羽柴槇一の五〇アールなどが主な栽培者であった。
 大長村(現広島県豊町)の越智滝三郎が、岡山村浦戸(現大三島町)に入作してみかんを植え付けたのが明治四三年(一九一〇)で、岡山地区における温州みかん栽培のはじまりである。鏡村肥海(現大三島町)に大長人が入作したのは、大正一〇年(一九二一)頃からである。そんな関係で、越智郡島しょ部の柑橘は広島県豊田郡・御調郡の系統に属する。
 盛口村盛(現上浦町)にみかんが導入されたのは明治三五年(一九〇二)である。土井兼四郎・大岡寅一郎の二人が苗木を植えたのが始まりで、明治三八年(一九〇五)日露戦争の戦勝記念に一〇アール植えた。森光繁は『教育に生きる』に次のように記している。

村の先覚者土井兼四郎が初めてみかんに着手したとき、香物なんかを作るといって部落の人達は皆笑った。それのみならず彼の老父は、あの上畑へあんなものを作って一体どうするつもりだといってカンカンになる。そして遂にその苗を引き抜く、彼はそれを丁寧に植える。何回小言を並べても引き抜いても何事も言わないで植えていく息子を見て、さすが老父も引き抜く元気がなくなった。しかし、その畑へはそれ以来足を運ばなかった。

 金子村蔵の記録には、瀬戸地区(現上浦町)が明治四二年(一九〇九)みかん苗木八五本を一円九五銭で購入したとある。苗木は福岡県遠賀郡から取り寄せた。
 こうした先覚者によって導入された果樹園芸農業が、越智郡島しょ部へ展開する動機と考えられる先駆的な商業的農業は、工芸作物農業である。柑橘の普及する以前においては、普通畑(いも・麦)の転換にとって除虫菊・たばこなど工芸作物が広い範囲に作付けされ、一部に柑橘も若干導入されたとみられる(表5-10)。昭和三〇年代になって、除虫菊・たばこなどの工芸作物が漸次衰退していき、昭和三五年頃から柑橘栽培が支配的になってくる。
 柑橘園開園の資本源泉としては、主として工芸作物収入であるが、出稼ぎや関前・宮窪の杜氏、盛口の船員などの兼業収入も島しょ部果樹農業展開の資本源泉としてみのがせない。盛口村(現上浦町)の場合、柑橘栽培の口火を切ったのは大自作層の一部であり、明治二〇年(一八八七)頃、苗木商の勧めにより近隣の古いみかん村として知られる大長村(現広島県豊町)の影響のもとに導入をはじめた(表5-11)。
 しかし、大部分の農家は当時いも・麦を主体に工芸作物を現金収入源とする経営を営んでおり、更に兼業(船員などの出稼ぎ)を行って生計を維持していた。ところが、柑橘がこれら工芸作物に比べて相対的に有利と認められたことから、昭和に入って漸次柑橘に切り替え普及段階に入っていった。

表5-4 越智郡島しょ部の旧町村単位別土地利用状況

表5-4 越智郡島しょ部の旧町村単位別土地利用状況


表5-5 大島・大三島・伯方島の町村別土地利用の推移

表5-5 大島・大三島・伯方島の町村別土地利用の推移


表5-6 愛媛県のりんごの栽培状況

表5-6 愛媛県のりんごの栽培状況


表5-7 越智郡島しょ部の町村別果樹の品種別栽培面積

表5-7 越智郡島しょ部の町村別果樹の品種別栽培面積


表5-8 大島・大三島・伯方島の町別果樹栽培面積の品種別変化

表5-8 大島・大三島・伯方島の町別果樹栽培面積の品種別変化


表5-9 伯方町の八朔栽培面積と収穫量の変化

表5-9 伯方町の八朔栽培面積と収穫量の変化


表5-10 越智郡の旧町村別みかん栽培面積と実収高

表5-10 越智郡の旧町村別みかん栽培面積と実収高


表5-11 上浦町盛口の柑橘農業成立過程

表5-11 上浦町盛口の柑橘農業成立過程