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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

四 岡村島の大長出作りのみかん園(2)

 岡村島への入耕作

 越智郡関前村には、現在大長(現広島県豊田郡豊町)からの入耕作農家九九戸が七六・五haのみかん園を入耕作(渡り作)している。農地改革でも小作地でなかった関係で影響はなかった。その当時は大長から九八戸・御手洗町から三戸の計一〇二戸がモーター付き農船で海を渡って耕作に通った。こうした渡り作の始まりは詳かでないが、大長人の岡村島への進出の初めは、多武保元治(文化五年~明治二二年一八〇八~一八八九)で、明治維新以前らしい。村上節太郎の調査では次のごとくである。
   
関前村役場の明治二一年(一八八八)起こりの土地台帳で一筆ごとに調べてみると、明治二三年~三二年(一八九〇~一八九六)頃、明治三一年~三二年(一八九八~一八九九)頃、大正三年(一九一四)頃、大正一二年~一三年(一九二三~一九二四)頃、昭和八~九年・一四~一五年に登記したものが多い(図5-16)。

 それでは、どうして関前の人はいとも簡単に大長の人に土地を売却し譲渡してしまったのか、その理由について村上節太郎は『愛媛大学紀要』で次のように述べている。

 岡村の人よりも山林や普通畑を高価に買ったこと。それは、大長は農工銀行から一〇〇万円の融資を受けて村外に土地を求めた時代である。大長村は人口過剰の対策を出稼ぎや都市集中に求めず、二、三男対策を早くから村是として果樹栽培の分村計画を個人的に行ったわけである。それで、大長村は現在自村に三〇〇haの土地を所有している。
 岡村島にとって、当時船員、都市工場、石灰山、炭鉱、杜氏、塩田などに出る方が、段々畑を開墾してみかんを栽培するより有利と考えた。従って山林や僻地を売却して預金利子で食べた方が得策であった。之を関前村の人は大長の「ボーラン(南瓜)」といって馬鹿にした時代であった。

 関前村のみかんの四分の一は、こうした大長の入作経営者によって栽培されている。


 経営規模の拡大とみかんの単一耕作

 関前村は岡村・小大下・大下の三島からなる村で、地形的制約が大きく、昭和二七年には耕地率二六・八%、水田は一・二haで果樹園率六七%であった。その後、昭和三〇年代のみかんブームによる経営規模拡大によって、残存していた山林は開墾されみかんの人工林と化し、水田のみかん園転換などで昭和三五年村内に一haあった水田も完全に島から姿を消した。僅かの水田は雀の集中攻撃を受けて収穫できないからである。
 関前村の果樹経営規模別農家数をみると(表5-22)、昭和五一年果樹基本調査では、〇・五ha未満が五四・四%という零細経営規模である。一ha以上の比較的大規模経営農家は五七戸一六・八%にすぎず、みかん専業の島(村)としては経営規模は極端に小さい。しかも、規模拡大をはかれば必然的に園地の拡散は免れず、表5-23の如く零細耕地の分散化によって拡大がはかられ、六か所以上に園地を分散経営している農家が三八・九%も占めている(写真5-11)。昭和五年のみかん園は温州が一一〇ha、早生温州が一〇ha、経営規模は美藤運平の一・六ha・美藤倉蔵の〇・八ha、美藤蔦次〇・七haが大きい方であったが、平原元夫など四ha以上の大経営園主もあらわれた。
 島別に規模をみると(表5-24)、村全体では一ha未満が七二%も占める中で、大下島は二ha以上の大経営者が六戸もあり、四〇%を占めている。一ha以上になると二九戸、村全体の六割を占めるのに対し、岡村島は栽培農家戸数の六六・五%が集中しているが、一ha未満の経営者が七二・四%もあって村内での地域較差が大きい。
 さらに表5-25により専業農家の推移をみると、みかん景気の全盛期に四一%も占めた専業農家がみかん不況とともに減少し、昭和五五年には二九%になる一方で兼業化が進行した。大下島は一四五戸中、農家が一一一戸で漁家は一戸もなかった。これは、宝永年間(一七〇四~一七一〇)に、浄土真宗西本願寺派法珠寺が建立され、浄土真宗が伝えられその門徒となった島民は、不殺生の戒律を守り漁業を捨てた。漁業権は岡村島の漁民一一一人が持っている。
 関前村の柑橘類の品種は、大長の影響をうけて早生温州が多い。表5-26は、最近の品種別生産推移を示したが温州みかんの偏重が著し。他産地が品種更新に積極的に取り組み、産地のさまがわりが激しく進行しているなかで、温州みかんの専作地として、瀬戸内海のみかん島の伝統をかたくなに守り続けている(写真5-12)。昭和五八年産の栽培状態をみると、温州みかんの栽培面積二一六・五haは、柑橘類の総面積二二九・五haの九四・三%を占める。まさに温州みかんのモノカルチャー(単一耕作)の島(村)である。栽培面積は普通温州一一八・三ha(五四・六%)、早生温州九八・二ha(四五・三%)の割合で四二三五トン(昭和五八年)を生産した。内訳は普通温州二三七〇トン(五六%)、早生温州一八六五トン(四四%)の割合で、全生産量の九九%が温州みかんという典型的みかん島である。
 柑橘はその品種により栽植に盛衰が著しい。そして、その傾向は各生産品種の商品性の大小、近代的か伝統的かの区別に対応していることがわかる。柑橘類は商品化率は総じて高く、いわゆる換金作物の典型的なものであるが、それだけに市場需要の趨勢に影響されるところが多く、栽培農家は先ず栽培品種について功利的計慮をめぐらさざるを得ない。柑橘は一年生作物のように簡単に品種を転換するわけにはいかないのである。

図5-16 大長村民が関前村に土地を購入した年代(明治20年(1887)以降)

図5-16 大長村民が関前村に土地を購入した年代(明治20年(1887)以降)


表5-22 関前村の果樹園経営規模別農家戸数

表5-22 関前村の果樹園経営規模別農家戸数


表5-23 関前村の園地箇所数別農家戸数

表5-23 関前村の園地箇所数別農家戸数


表5-24 関前村の経営規模別農家数(単位:戸、a)(昭和58年)

表5-24 関前村の経営規模別農家数(単位:戸、a)(昭和58年)


表5-25 関前村の専業農家の推移

表5-25 関前村の専業農家の推移


表5-26 関前村の果樹栽培面積の変化

表5-26 関前村の果樹栽培面積の変化