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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

六 越智諸島の畜産業

 越智諸島の畜産業の特徴

 今治・越智地方は藩政時代から牛馬の名産地として知られており、数々の名馬等を産したと伝えられている。この伝統は明治以後も続いており、越智郡の牛馬飼養頭数は東・中予地方の中では最も多かった(表5-31)。牡・牝の割合は地域によって異なるが、越智郡の場合には牛・馬とも牝の割合がきわめて高くなっている。明治四四年(一九一一)には、当時の越智郡長であった片野淑人等の尽力により越智郡牛馬組合が設立されるなど、当地方の畜産に対する取り組みには関係者の強い熱意が表れていた。こうした結果、我が国の和牛界で高い評価を得ていた「伊予牛」の代表的なものとして御荘牛・三崎牛とともに大島牛の名もあげられるようになった。
 越智諸島の畜産業の中心は牛飼養であったが、その飼養形態は島によって異なっていた。昭和一〇年の町村別牛飼養頭数は大三島町・上浦町・吉海町・伯方町では五〇〇~六〇〇頭であるが、関前村や宮窪町では二〇〇頭以下となっている。また牡・牝牛別に見ると、上浦町・吉海町・宮窪町・伯方町では牝牛の比率が高く、大三島町・関前村では牡牛の比率が非常に高くなっている。戦後、上浦町で牡牛の比率が高くなっており、戦前とは異なった傾向を示しているが、他の町村では戦後も戦前と同じ傾向を示している。二四年の牡・牝牛の飼養状況を見ると、旧松山藩領の地域(大三島町・上浦町・関前村)では牡牛を中心とした飼養が行われ、旧今治藩領の地域(吉海町・宮窪町・伯方町)では牝牛を中心とした飼養が行われている(表5-32)。しかし、このことが藩の方針によるものかどうかを判断する具体的な根拠は見あたらない。島による飼養形態の相違は、各々の島の生活習慣と深く関係しており、大島・伯方島・岩城島等では子牛の生産を目的として牝牛の飼養が盛んであり、大三島・岡村島等では肉牛の生産を目的として牡牛の飼養が盛んであった。
 大三島では大正時代より越智徹等のように大規模経営を行う家畜商が出現し、尾道の牛市(毎月一、一一、二一に開催)から子牛を購入し、これを島内の農家に預け、六か月から一年間育成した後今治の牛市(毎月七、一七、二七日に開催)で販売する方法が行われていた。牛の運搬には越智丸(二〇頭乗り)や金比羅丸(五〇頭乗り)が用いられ、農家は出荷利益の六割を受け取り、四割を家畜商が受け取っていた。戦後はほとんどの農家が牛を飼養していたが、三〇年代後半から水田が減少しミカン栽培が盛んになると、農耕牛としての牡牛飼養の意義はなくなり、また自家飼料である稲わらも不足するようになった。この結果、飼養頭数・戸数とも急激に減少し、五九年にはわずか一戸のみとなった。伯方島でも三〇年代後半までは、専業農家には少なくとも一頭は飼養していた。同島の場合は、子牛を生産し、これを換金することを目的として牝牛を飼養していた。この伝統は乳牛飼養に引き継がれていった。生乳は渡海船で今治市の河南酪農に運ばれていたが、四〇年代初め頃より急激に減少し、現在では牛の飼養はまったく見られなくなった。


 吉海町の畜産

 越智郡の島しょ部のうち、現在もある程度畜産業が盛んな地域は吉海町のみであるが、同町の場合、かつて「大島牛」の生産が盛んであったことや、津倉市場が開設されていたなど畜産に対して積極的に取り組む風土が大きく影響している。
 吉海町の場合、大正末期までは牡牛の飼養が盛んであり、旧津倉村だけで約二三〇頭の肥育牛(大島牛)を飼養していた。これらの牛は島の農閑期には越智郡竜岡村、鈍川村・九和村の農家へ預けられていた。このような預け牛の風習の背景には、島には年間を通して牛を飼養するだけの十分な飼料がなかったことがあげられる。しかし、その後島民の間から牛を年間を通して飼養しようという気運が高まった。年間飼養を可能とするために、牝牛を飼養して子牛を生産し、その販売代金で稲わら等の飼料を購入する方法が考えられた。子牛の生産が盛んになると、流通を円滑にするために市場を開設することが必要となってきた。こうして、昭和五年頃から津倉子牛市場が開かれるようになった。出荷された牡子牛は上浮穴郡久万町の野尻市場向けに買い取られることが多かったが、その他には今治市や越智郡の陸地部等へも買い取られていった。牡子牛の売買価格は昭和一〇年頃には二〇~三〇円、二一年頃には約七〇〇円、三〇年代には二~三万円、四〇年代には約三〇万円と推移している。なお津倉子牛市場に深くかかわった家蓄商には渡辺秋義・八塚伊之助(亀山村)、大谷金弥・村上角一・松本喜代松(乃間村)、重松一政(大山村)、谷本亀一(宮窪村)、長野貞造(大井村)、岡野誉平(弓削村)、長井伊太郎(今治市)などがいたが、この他にも伊予郡等から津倉市場へ来る者もいた。
 吉海町の牛飼養頭数は二四年には八四〇頭に達していたが、三八年五一〇頭(飼養戸数は四七〇戸)、四〇年三四四頭(同三〇四戸)、四五年一九六頭(同一五六戸)となり、五〇年にはわずか四五頭(一八戸)にまで減少してしまった。こうした中で町や県はかつての牛飼養の経験を活用して畜産業を振興させるとともに、高齢者の福祉を向上させることを目的として「高齢者等肉牛飼育事業」等を五二年から始めた。この事業は高齢者の生きがい対策としての効果とともに地域の畜産業の振興にも大きく貢献しており、五九年には一一二頭(二一戸)に増加している。


表5-31 愛媛県における明治時代の郡別牛馬頭数

表5-31 愛媛県における明治時代の郡別牛馬頭数


表5-32 越智諸島の町村別牛頭数

表5-32 越智諸島の町村別牛頭数