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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

七 大三島のはげ山の形成と植林

 はげ山の形成

 越智郡の島しょ部の五万分の一の地形図の初版は明治三一年に測図され、同三五年に製版されている。この地形図をみると、大三島をはじめ、岩城島・生名島など越智諸島から上島諸島にかけての山地には、流土・崩土の記号や、はいまつ地の記号が到るところに見られる。これらはいわゆるはげ山であり、当時樹木を欠く白い島として瀬戸内海を航行する船の目印になったほどである(写真5-15)。
 はげ山は明治末年に頂点に達していたが、その形成要因は樹木の乱伐と花崗岩からなる地質構造に求められる。瀬戸内海沿岸の島しょ部の自然植生は、しい・かし・やぶつばきなどの常緑広葉樹の優占する照葉樹林であった。大山祇神社所蔵の鎌倉時代の古図には、樹木がうっそうと繁茂している様子が描かれているが、当時は現在の同神社境内にみられるような常緑広葉樹が繁茂していたものと思われる。この常緑広葉樹は薪炭材や製塩用の燃料などに伐採され、次第に消滅し、その跡に二次林としてのあかまつが繁茂してきた。このあかまつも、薪炭材・製塩用の燃料、さらには造船材などに伐採され、次第に貧弱な林相にと変わっていく。特にあかまつは伐採後切株が腐敗すると、そこが洞穴となり、地盤崩壊の原因となりやすい。特に岩石の崩壊の著しい花崗岩地帯などでは、その伐採には細心の注意を払う必要があるといわれている。はげ山は二次林のあかまつが乱伐された後に形成されたものであるが、その起源は判然としない。元禄元年(一六八九)土砂流出防止用松苗植え付けのため、松山藩奉行林太源兵衛が大三島に来島していたり、同一五年頃に、大三島の百姓衆が松苗植樹の願書を藩主に提出しているところから、江戸中期には山地の荒廃がかなり進んでいたものと推察される。
 しかしはげ山の形成が加速度的に進行したのは、林野利用に対する統制のゆるんだ明治維新以降ではないかと考えられる。明治四四年(一九一一)編さんの宮浦村(現大三島町)郷土誌には、近年宮浦本川の土砂の流出がおびただしく、川床が高まり天井川化の著しいことが記されており、上浦村井口の井口本川においても、土砂の流出が急激に増加したのは明治年間においてであると古老が伝えている。
 はげ山の形成は、くり返し行われた山林の乱伐によってなされたものであるが、また地質構造と関連する点も大である。明治末年にはげ山の形成されていた大三島・岩城島・生名島などはいずれも花崗岩からなる山地である。花崗岩は風化・崩壊されやすい岩石であるので、ひとたび樹木を欠くと、表土が流出し、はげ山化したものと考えられる。大三島においてもはげ山の形成の著しいのは鷲ケ頭山を中心とした島の中央部の花崗岩地帯であり、その南西と北側のホルンフェルスの地帯では、はげ山は見られなかった。このように見てくると、はげ山の形成は、風化・崩壊の著しい花崗岩地帯において、樹木の乱伐によってひきおこされたことがわかる。


 天井川の形成と防災組織

 明治末年の写真をみると、大三島の宮浦・井口・甘崎・瀬戸などの花崗岩地帯の山地は、その  中腹以上のところは、ほとんど樹木を欠いたはげ山であり、樹木は谷底や中腹以下の山地にしか見られない。明治年間には貧農は朝の暗がりからモッコをかついで、一日分の焚き物を山に取りにいくのが日課であったという。山林を所有しない貧農に許された焚き物の採取は、枯れ木と落ち葉、松かさなどに限られていたので、山地には落ち葉はほとんどなく、極度のやせ地になっていたという。一〇mより長いしだは、立木地内には皆無であったという。
 樹木を欠くはげ山からは、豪雨のたびにおびただしい土砂の流出があり、その土砂が川床に堆積しては、川床が平野面よりも高い天井川が形成されていった。大三島町の宮浦本川・明治川・台本川・野々江本川・明日本川、上浦町の井口本川・井口古戸川などはいずれも天井川であるが、この中でも宮浦本川・井口本川などは河床が平地よりも五m以上も高くなっていた。天井川ははげ山化が著しくなった明治以降に、その高さを急激に高めていく。川床に土砂が堆積するたびに、付近の住民が川床の土砂をその両側の堤防に積み上げ、天井川は成長していく(写真5-16)。
 天井川はひとたび決壊すると、その周辺の水田や集落に甚大な被害を与えるので、その管理は住民の重大な関心事であった。天井川の管理には、川ざらえと、堰止めの二つの方法があった。川ざらえは川床に堆積した土砂を除去する作業である。川床への土砂の堆積がすすみ、その両側の堤防との比高が小さくなると、溢流の恐れがあるのみでなく、また堤防決壊の危険性もはらんでくる。川ざらえはその防止策としての作業である。川ざらえは年間二回、集落住民総出の出役によってなされた。六月と九月の適度に出水した時に流水を利用して川床の砂を流したり、また両側の堤防に砂を盛り上げたりしてなされた。出役のみで作業が完了しないときは、割坪といって、各戸に一定の区域が割り当てられ、川床を掘り下げることが義務づけられた。堰止めは、出水によって天井川の川床が掘れすぎたとき、その天井川の堤防の決壊を防止するため、竹やもろ木(雑木)を用いて、川の中に堰を築き川床に土砂の堆積を促すことである。これまた集落住民の出役によってなされた。
 川ざらえや堰止めは、集落を統轄する総代の指揮下に実施された。また水害の危険を察知したときの水防や、水害後の災害復旧も総代の指揮するところであった。総代は水防に備えて、スコップ、空俵、縄、鋸を保管していた。第二次大戦後には、宮浦や井口では水防倉庫が設置され、これらの道具を保管していた。大三島町の宮浦や台では、総代は冠婚葬祭から土木工事に至るまで、集落内のことをすべて統轄していたが、上浦町の井口や瀬戸では、総代には人民総代と土木総代が各二人ずついて、水防や土木工事に関することは、すべて土木総代の管轄下にあった。人民総代と土木総代では土木総代の方が地位が高く、人民総代を終えたものが土木総代をつとめるのが通例であった。このように土木総代に高い地位が与えられていたのは、天井川の管理や水防が集落住民の最大の関心事であることを示しているものであった。なお、昭和三〇年の町村合併後は、土木工事は県や町村などの行政当局によってなされることが多くなったので、土木総代の任務は相対的に低下している。
 このように天井川の管理には細心の注意を払ったが、保水力のないはげ山から流下する鉄砲水は、しばしば天井川を決壊し、集落住民に甚大な被害を与えた。その最大の災害は明治三八年(一九〇五)一〇月の豪雨をともなう宮浦本川や井口本川の決壊であった。宮浦村では大小河川ことごとく決壊し、家屋の流失埋没一七棟、田畑の流出二四町歩を数えた。
 大正・昭和年代になって、はげ山の植林が進展するにつれて、水害の被害は減少したが、天井川の決壊は住民をしばしば悩ますものであった。


 保安林の設定とはげ山の植林

 明治三八年の大災害は、島内の住民に、はげ山の治山なくしては、災害の防止策はないとの認識を深めさせた。県当局もまた、この災害を重視し、同四〇年九月大三島のはげ山地帯を土砂打止保安林に指定し、林地使用の制限を行う。明治四〇年当時、大三島のはげ山は宮浦村に二八一町歩、瀬戸崎町に九三町歩、盛口村に八九町歩あり、ほかに樹林地といえども植生の極めて貧弱な山林が多数あった。
 保安林の造林は明治四二年(一九〇九)からはげしばりを植樹することによって試験的に行われる。明治四五年には宮浦村・盛口村・瀬戸崎村に施業森林組合が結成され、国と県の補助金を得て地盤保護工事と植林が本格化する。森林組合が結成されたのは、小地片の山林が分散所有される大三島では、個人ごとに土砂打止工事を施し、植林を行うことは不可能であり、はげ山地帯に山林を所有するものが組合を結成し、統一的に施業する以外に造林を推進する方法がなかったことによるものである。
 工事はまず急斜面の山腹に人の通れるように道をつけることから始まる。次いで地盤保護工事として、山腹斜面に上から目どおりの高さに階段状にテラスを造成していく。これらの工事はつるはし一本で行われたので、山中には、つるはしを修理する鍛冶屋も常駐している有り様であった。またテラスに対しては斜めに水路を掘り、土砂の流出防止をはかった。テラスには筋芝をはり、土砂の流出を防ぎ、そこに一尺五寸に一本ずつはげしばりの苗を植え、その間に一間に一本あて黒松を植えた。地盤保護工事は一二月から翌年の三月にかけて農閑期になされ、春先の三月から四月にかけては筋芝はりと植樹がなされた。宮浦村では地盤保護工事や植林には農家が自主的に参加し、森林組合から賃金の支給を受けるものであったが、盛口村の井口においては、大正三年(一九一四)と四年の両年に各戸から一人ずつの出役が義務づけられた。
 各森林組合での工事の進捗状況を見ると、宮浦村では大正二年から同一〇年の間に地盤保護工事(植林も付随する)が四八町歩、植樹が八・七町歩なされ、盛口村では大正二年から同一〇年の間に地盤保護工事が六八町歩、植樹が一一町歩なされ、瀬戸崎村では大正元年から一〇年の間に地盤保護工事が八六町歩、植樹が二三町歩なされた。


 保安林の管理と利用

 人海戦術で植林を完了した山は、一〇年後には緑につつまれ、はげ山は次第に姿を消していった。緑の樹木におおわれた山林は保水力も高まり、鉄砲水は出なくなり、灌漑水や飲料水の不足も解消されていく。緑におおわれた保安林はやがて昭和五年頃から伐採許可がおり、住民に薪炭材を供給するようになる。
 大三島町の山林は明治末年以降、おか山と呼ばれる普通林と、伐採の制約された保安林とに区分された。普通林は所有者が立木を伐採し、薪炭材や建築材を得るのは自由であり、また山林を所有しない貧農が枯れ枝や落ち葉・松かさなどを採取するのは制限されていなかった。一方、保安林は植林後も入山が厳しく制限され、落ち葉・枯れ枝も採取が禁じられていた。保安林の伐採は県に伐採申請を出して、その許可を得てから伐採が開始された。
 盛口村大字井口施業組合に例をとって、どのように伐採されてきたかをみると、以下のごとくである。井口施業森林組合が明治四五年(一九一二)に結成されたとき、その管轄する山林面積は二六一町歩、山林を所有する組合員は一八八名であった。組合員は地区的に一八に区分され、それぞれ組を構成した。各組は山林所有者一〇名程度によって構成され、多い者で二〇株(一株は平均三反程度)、少ない者で一株の権利を所有し、一組あたりの株数は五〇程度であった。組合の管轄する山の伐採許可がおりると、その伐採地区を一八に平等に区分し、各組ごとに入山者を募り、立木の伐採と薪炭の生産に従事させた。入山者の生産した薪炭は組合との間でその収益を分収したが、便利の悪い山で六〇%、便利の良い山で四〇%程度が入山者の収益となった。組合への収益は、必要経費を差し引いたのち、組合員にその所有株数に応じて分配された。保安林は一〇年に一度程度伐採されたが、はげしばりと雑木は皆伐され、松は三分の一程度が択伐された。それは、はげしばりと雑木は萌芽更新によって、すぐに再生されるが、松を皆伐すると、また以前のようなはげ山と化するのではないかということを恐れた措置であった。
 保安林の伐採は昭和四七年頃までなされたが、以後薪材の販売が不振となったので、その後は伐採されていない。現在の保安林は、あかまつがマツクイ虫によって食い荒らされ、無残な枯れ木を残すのみで、灌木の生い茂る山林に変じ、経済価値はほとんど持っていないといえる。