データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

一〇 越智諸島の塩田

 製塩方式の発達
         
 瀬戸内海の製塩方式は、周知の如く、弥生時代ころには概して、製塩土器の発掘で判るように天日直煮式であった。奈良朝時代には藻塩焼く式、中世には揚浜塩田式、近世から明治大正、昭和初期には入浜塩田方式であった。太平洋戦争の末期には、労働力不足と施設不充分のため食塩が欠乏を来たし、自家製塩を許した。戦後昭和二九年からは、流下式や枝条架方式など技術が進み、塩の生産量は倍増した。しかし一トンの生産費は、まだ一万二五〇〇円を要した。昭和三四年の第三次塩業整備で、愛媛県の塩田は、地方はもちろん、島方も伯方島と大三島の宗方を除いて全部廃止した。
 昭和四〇年にたり、旭化成・徳山曹達・旭ガラスなど大資本のイオン交換樹脂膜方式を採用し、一トン生産費七五〇〇円で七工場で一プラント当たり一五~二〇万トンを造り、日本の食塩を自給することになった。七工場とは①いわき市小名浜の新日本化学工業、②赤穂市の赤穂海水化学工業、③岡山県邑久町の錦海塩業、④岡山県東児町の内海塩業、⑤鳴門市の鳴門塩業、⑥坂出市の讃岐塩業、⑦長崎県崎戸町の崎戸塩業会社である。
 日本の製塩業は今や水産業部門から工業部門に移り、一五万トンの塩を造るのに、塩田の一〇〇分の一の敷地と四分の一の人員で用を達し、入浜式塩田時代の重労働は昔話となった。先進国で塩の専売制は日本とイタリアだけである。昭和四六年政令一二四号の「塩業の整備及近代化」の法令により、全国の塩田は記念物と特殊用塩を除いて全部閉鎖した。当時愛媛県にも、赤穂や鳴門や坂出のように「塩の博物館として伯方塩田」を残さなかったのは残念である。
 表5-40は明治一七年(一八八四)の越智郡の塩田一覧表である。表5-41は専売前の明治三六年の町村別の塩の統計であり、表5-42は専売制下の昭和八年の町村別の資料である。


 津倉塩田

 旧今治藩の大島の津倉塩田は、『香川県愛媛県の塩業組合(会社)沿革史資料』(昭和三一年)によれば、前堀・後(中)堀・向堀の三つに分かれ、次の如く順次に開発され、表5-43の如く一一浜より成る。
 前堀四浜は元禄一三年(一七〇〇)九月九日、後堀(中堀)三浜は明治五年(一七六八)九月七日、向堀四浜は寛延元年(一七四八)三月七日に、それぞれ開発が始められている。
 表5-43は津倉塩田一一浜の名称と面積と、明治三七年(一九〇四)三月二六日、塩の専売制施行前年の当時の浜別の生産高である。『吉海町史』(昭和四六年発行)二五五頁には、前堀塩田五軒とある。これは④番浜の竹浜と梅浜を別々に数えたためである。また後堀塩田も『吉海町史』二五六頁は四浜に勘定している。
 享保一一年(一七二六)に越智郡大島津倉湾の大石川、前田川が、石川尻に流れていたのを、水門口に付け替えた。寛政元年(一七八九)に、仁江川は、それまで幸新田に流れて海に注いでいたのを、福田村に付け替え工事を行った(昭和一〇年河本繁吉篇『津倉村史材』による)。
 向堀塩田は津倉湾の東に位置し、大字本庄に属するが飛地である。明治二二年(一八八九)一月町村制実施に当たり、歎願書を出し、再確認している。明治一四年一二月、本庄村(後に八幡・幸新田・仁江と合併して津倉村となる)が作成した『塩田地券台帖』によると、前堀塩田五筆で面積八町六反二六歩、後堀塩田三筆で七町二反六畝一四歩、向堀塩田四筆で八町二反二畝一歩となっている。
 一二筆の塩田地主は、泊村一人、今治片原町一人のほかはすべて地元の大字本庄の人である。本庄の塩田地主の多いのは本庄の人は酒屋の杜氏などの出稼ぎで、勤勉に働き金を有していた。今治藩が明治維新で、塩田を手放すとき、野間信煕・野間仁根・重松富貴夫の先代の資産家が引受けた。大島出身者は全国に約一二〇戸塩戸を有していた。
 津倉塩業組合の二一・三haの塩田は、第三次塩業整備で廃止され、暫く放任されていた。前堀跡に昭和四八年一月波止浜造船大島工場の扇寮が建てられた。また昭和五一年には、羽倉民典経営の車えび養殖場ができた。
 図5-19は津倉塩田の位置を示す。前堀が北で、後堀が南で、向堀が東である。


 宗方の塩田

 宗方村は松山藩領で、塩田は天保一〇年(一八三九)に起工し、弘化二年(一八四五)に竣工した。面積は五浜で、九・九五一ha、約一〇町歩である。『香川県愛媛県塩業組合(会社)沿革史資料』(昭和三一年)によれば、これが埋め立てに要した多量の土は、シリキ谷の数反歩の畑及び肥島荒神社の沖にある砂州から採取したとある。
 昭和四一年まで宗方塩田は枝条架流下式で、製塩していた。昭和四八年から車えび養殖場に変わった。宗方塩田の所有者は表5-44の如くである。
 図5-20は宗方塩田と口総塩田の位置を示す。


 口総塩田

 大三島の口総塩田は、表5-40の如く明治一七年(一八八四)には、三塩戸で、面積九町一反○二五歩である。『香川県愛媛県塩業組合(会社)沿革史資料』(昭和三一年)によれば、「口総塩田は沖より、一番二番三番四番の順で、四浜あり、文政時代に漸く五浜の竣工を見る」とある。郷土史家の宗方の大内亨宅に、文政三年(一八二〇)の口総塩田の彩色の絵図があり、口総村と浦戸村の庄屋・組頭や塩浜方新地の代表者三名の署名捺印がしてある。経営は松山藩の藩営に近いものであったとある。戦後宗方塩田と口総塩田を合して、岡山塩業組合をつくり、塩戸数は九塩戸で、公称資本金二八八万円、採鹹地合計一八・四haで、組合理事長は岡田良一であった。
 口総塩田は製塩廃止後四~五年遊んでいた。浦戸の田坂忠重らが香川県坂出の海岸の遠浅に、石炭がらを入れ、みかん園化しているのに、ヒントを得て、口総塩田のみかん園化を計画した。塩田地主は村上直吉・柳原一雄・小川重信・奥村鉱章の四人で、何れも大島の人である。


 塩田跡地のみかん園

 瀬戸内海の塩田は、イオン交換樹脂膜方式転換により、昭和四六年一二月を以て、すべて廃止された。当時塩田跡を何に利用するかは、大きい問題で筆者も報告書を出している(村上節太郎「瀬戸内海臨海地域の開発―塩田の開発と転用」愛媛大学一九七三年三月)。
 大三島町大字浦戸の人二二人が、隣接する口総塩田跡九・一haを四〇〇万円で購入した。当時は昭和三〇年代で、みかんブームで、経済高度成長期で、折から農業構造改善法案が出た。そこで低利子金を借りみかん園工事に着手したのが昭和三七年六月二七日、竣立したのが同三九年一月一〇日である。国からの融資は三年据え置き一五か年償却であった。九haを平均四反で等分した。二二人のうち非農家は電気屋一人で、あとは経営拡大であった。
 折角植えたみかんが、数年後、傾斜地に比し生育が悪く一部枯死した。付近の山の土を厚さ一・五mも入れたが、旧塩田のため、半分が海面以下であった。原因は塩分を含んだ地下水のためか、それとも冷気湖のためか、研究問題であった。代表者田坂忠重や町役場の依頼を受け、早速小気候専門の吉野正敏博士を招いた。愛大の地理学専攻の学生一〇余名を動員して、昭和四七年一月八日、前夜から午前五時まで徹夜で同時観測を行った。観測の結果と冷気湖のみかん栽培の対策(ウンドマシン・防霜林)については次の文献に詳しく報告している。「大三島浦戸における塩田跡地みかん園の冷気湖」(吉野通敏・村上節太郎『農業気象』第二九巻二号 一九七三年九月号)
 塩田跡地のみかん園は、二〇年後の今日、少しはみかんが残っている。しかし園地の中央には大三島町の昭和五四年度の「緑の村の整備事業」として、「緑の村運動広場」となり、立派な体育館などが建っている。


 盛口塩田

 盛口塩田は表5-40の如く、鶴亀松竹の四浜の塩田である。南から①②③④の四浜があり、合計八・四五六haある。中央を南北に国道が走っている。④浜の北に大三島生コン㈱が立地し、その北に井口港がある。④の西半部は農地である。旧塩田の大部分は埋め立てられ、廃棄物処理場である。
 盛口塩田は旧井口村分で、松山藩領であった。専売局時代は広島県瀬戸田塩業組合の傘下にあった。
 盛口塩田はいつ開発されたか、明確な文書をまだ見ていないが、ケンペルの『江戸参府紀行』の鼻繰瀬戸通過の記事に、製塩小屋のことを書いている。この紀行は元禄四年(一六九一)のことである。当時すでに井口の好味に九〇の塩釜があった証拠である。
 東洋文庫303平凡社、『ケンペル江戸参府旅行日記』一〇二頁に次の如き文章がある。

左手の海岸に鼻繰村というのがあり、われわれはそこで新しい水を補給するために、約一時間停泊していたが、その間にもたくさんの帆かけ船が通り過ぎて行った。鼻繰村は戸数六〇で、二つの山の麓にある。それゆえにこの名がある。なぜなら鼻繰というのが鼻の穴のことを意味し、その地形からこの名がある。塚のように藁を積み上げた九つの小屋があって、その中で海水から塩を作っていた。云々(斉藤信の訳)


 伯方塩田

 旧今治藩であった伯方島には、古江浜・瀬戸浜・北浦浜の三浜がある。『続今治夜話』(服部正弘著、明治三八年刊行)によれば『伊予史談会双書』2の一〇九~一一〇頁に次の如き記述がある。

伯方島木浦村古江浜へ塩田開拓之儀、定保公御代御見込之アリ、弘化元年(一八四四)甲辰四月三日、土地見分ノタメ、家老服部外記正弘・岡部直記約両人出張仰付ラレ、郡奉行・目付壱役壱人宛付添出張ス。同丙午年(一八四六)四月二七日、砂入手始メ仰セ出ラレ、家老服部正順出張仰付ラル、大目付・郡奉行・目付・勘定目付、一役一人宛、並ニ御用聞キ、開発掛深見利兵衛正広付添出張ス。万延元庚申年(一八六〇)八月一九日塩田築留見分ノタメ家老席出席ス、久松彦兵ヱ長世出張仰セ付ケラル、郡奉行・目的・勘定目付、壱役壱人宛並御用聞キ、塩田掛深見利兵ヱ付添出張。文久元辛酉年(一八六一)一二月一五日、塩二三浜落成、見分ノタメ家老服部外記正弘・久松彦兵ヱ長世両人出張仰付ケラル、大目付・郡奉行・目付・勘定目付・壱役壱人宛、井ニ塩田掛リ深見利兵ヱ付添出張、積功一八年ニテ成就、大造成普請卜云フ。

 伯方島の塩田地主は表5-45の如く、大島の人が多い。
 図5-21は伯方塩田の位置を示す。瀬戸浜は現在エヒメ水産が南部と西部、マルウ水産が東北部を養殖に利用している。古江浜の東部は村上水産、中央は北木水産、北西部は藤田水産の養殖場である。北浦の塩田跡は真中から東は藤田、真中から西は北木水産が活用している。
 エヒメ水産は、現在とらふぐ・まだい・いしがきだい・かに・えび・ひらめなどの種苗生産に成功し、主生産品目のとらふぐやまだいの人工種苗は全国シェアーの六〇%を占めるという。養殖期間を半減し、歩留まりが高く、有名である。経営陣は馬越伊右ヱ門会長、上原鉄造社長、星屋康夫専務、藤井暉巳常務で、昭和四八年五月創業、作業員二三名である(松山商大原田満範の『愛媛の企業』(26)愛媛新聞一六八六年六月一〇日記事)。


 伯方の塩

 伯方の塩は、日本自然塩普及会(松山市の菅本フジ子代表)の人びとの努力で、流下式塩田を残すことはできなかったが、専売公社の特殊用塩の中に入れられ、メキシコやオーストラリアからの輸入海塩(天日製塩で工業塩)のうち、二六〇〇トンを食用に供する許可枠を得ている(生産能力四五〇〇トン)。
 伯方塩業㈱は昭和四八年創立、社長高岡正明、専務松本永光、工場長丸本執正で、本社は松山市萱町四ノ四ノ九にあり、工場は伯方町瀬戸浜の専売公社伯方出張所跡(二四〇〇坪)を利用し、水陸の便はよい。
 「伯方の塩」は、「公社のイオン交換膜塩」に比し、一kg袋七五円に対して三二〇円で高い。小規模で、天日海塩を清浄な地下水に溶解し、砂で濾過し、煮つめて結晶させ、脱水乾燥し、除鉄機にかけるのと、流通経費が割高のためである。公社の塩は塩化ナトリウム純度九九・五%以上で高いのに対し、伯方の塩は九四%である。PHが公社のは一〇・六で強アルカリに対して、伯方のは七・七で中性である。公社の塩は、蒸留水、白砂糖、白米のようなものであるに対して、伯方の塩はミネラルウォーター、三温糖、七分揚米のようなものである。苦汁などを適量に残し、味がまろやかで、うまみ、こくがあり、漬物がおいしいので歓迎されている。
 伯方島にはまた、旧塩田地主の重松富来夫が昭和五二年に、伯塩産業㈱を分離独立し、「調理の塩」として、売り出している。無漂白、無添加、ニガリのある昔ながらの塩と称す。伯方町木浦にあり、営業部長は重松昌彦である。

表5-40 越智郡塩田浜名、面積、営業人、工数、製造高、価格

表5-40 越智郡塩田浜名、面積、営業人、工数、製造高、価格


表5-41 越智郡の町村別塩生産高

表5-41 越智郡の町村別塩生産高


表5-42 越智郡の町村別塩生産高

表5-42 越智郡の町村別塩生産高


表5-43 大三島町津倉塩田の内訳

表5-43 大三島町津倉塩田の内訳


図5-19 吉海町津倉塩田の位置

図5-19 吉海町津倉塩田の位置


表5-44 大三島町宗方の塩田

表5-44 大三島町宗方の塩田


図5-20 大三島町宗方塩田と口総塩田下の浜の位置

図5-20 大三島町宗方塩田と口総塩田下の浜の位置


表5-45 伯方島の塩田所有者

表5-45 伯方島の塩田所有者


図5-21 伯方島瀬戸浜・古江浜・北浦浜の位置

図5-21 伯方島瀬戸浜・古江浜・北浦浜の位置