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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

一 大島の石材

 大島石の特色

 瀬戸内海沿岸から山陰一帯に分布する花崗岩は、今から八〇〇〇~四〇〇〇万年以前の白亜紀~新生代初期に生成した貫入岩体であり、日本における最大の花崗岩分布地域となっている。瀬戸内の島々の基盤をなす花崗岩は、この火成活動の初斯から中期にかけてのものであり、領家および山陽花崗岩体に属する。一般に花崗岩は、石英・斜長石・アルカリ長石などの無色(白色)鉱物、黒雲母・角閃石などの有色(黒色)鉱物から成りたっているが、花崗岩マグマの化学組成、あるいは生成条件などの相違により、前記の構成鉱物比、粒度、ち密さなどに違いが生じる。このため、同じ花崗岩類でも各産地特有の石材を産する。
 大島石は、大島の北部地域を中心に分布しているが(図5-22)、大三島・伯方島の一部にも見られる。正確には花崗閃緑岩であり、標準的な花崗岩と比較すると、有色鉱物、あるいは斜長石に富んでいる。さらに大島型として分類されることもある。大島石の特徴は、灰黒色、細粒~中粒(五mm以下)質であり、ち密・堅硬であること。また、古くから「青みかげ」と呼ばれてきたように研磨面が斜長石のため青味をおびていること、細粒質であるため風化に強く、堅くて光沢が落ちにくく、変色しないこと(石材の三要素)。岩体に割れ目が少ないために新鮮で巨大なブロックが採掘できることなどがあげられる。粒の粗密で細目・中目・荒目の三ランクに格付けされており、細目は墓石用材として最高品とされている。
 かつて橋、石垣、護岸、建築用材にと幅広く使われたが、戦後のセメント産業の隆盛により、用途は次第に狭まり、現在は墓石用を中心に生産されている。昭和五八年の大島石の生産(製品重量)は墓地関連用品向けの切石がほとんどを占め約二万八五〇〇トンである。しかし、採石法施行規則第一一条報告によらない割ぐり石、魚礁、防波堤用築石等は約三〇万トンにも達している。大島石協同組合調べによる昭和五六年の品種別生産割合をみると(表5-46)、高級品の墓地関連用の細目が五六%、次いで、墓地、石碑、神社関連用の中目が四二%を占めており、大島石はその用途のほとんどが高級な墓地関連用品であることを物語っている。


 生産のあゆみと発展要因

 大島石は、藤堂高虎が完成させた今治城(慶長九年)を築城するときに用いられたと伝えられていて、採石の歴史は古い。企業的な生産が始まったのは明治初期で、明治六年(一八七三)に皇居改築礎石として積み出したといわれている。大量生産のきっかけは日清戦争(明治二七・八年)に備えて呉軍港基地築造工事用に出荷した時期である。明治二九年に木原正博により石材運搬道路が整備されて石材採掘は益々盛んになり、御常山には丁場小屋が建ち、寝泊まりするようになった。明治三九年(一九〇六)には、今治蔵敷の長井兼太郎が資本金三〇〇〇円を投入して、道路の改良や埋め立てにより波止場を築造して船積みの便をはかった。彼はまた、京阪神・東京方面へ大島石の販路開拓に努め、全国的にその名を広めた。一方、余所国三者協業組合(販売組合、明治四〇年代)は、京阪神において長井との間に激烈な販売合戦を展開し、大島石の値くずれ防止のため販売価格協定を結んでいる。
 大正初期にはレールを敷いてトロッコ運搬を始めたが、死亡事故が続いて中断後は荷馬車運搬となった。ここで長井家の納入記録の主なものをあげると、海軍省(明治二七年)、奈良帝室博物館(同二八年)、大阪心斉橋(同四一年)、京都四条・七条大橋改築用、三井銀行大阪支店改築用、九州明治専門学校建築用(各同四四年)、大阪新浪波橋改築用、三井物産神戸支店建築用(各大正五年)などがあり、年月不明の主なものには道後温泉、赤坂離宮、満州大連湾埠頭、出雲大社・石鎚神社、大阪朝日及び毎日新聞社、大阪住友銀行、東宮御所などがあげられている。戦前における大島石の最盛期は昭和一四年頃までで、良質材が出にくくなったのと、戦時色と共に人材と食糧事情の悪化により規模縮小を余儀なくされた。
 この間、昭和二〇年代までは、のみとつちでこつこつと石を切り出した手掘りの時代で、採石量も年産五〇〇〇~六〇〇〇トンであった。ところが、三一年から三三年にかけて製紙用ローラー二二本の注文を織田要治が受け、ソ連を始め、ビルマ・フィリピン・スイスヘ積み出し、大島石の名を世界に知らせた。さらに、三〇年代後半には墓石の需要が急増した。それは、大都市への人口集中により住宅取得と定着化が進んだこと、都市の整備により墓地の移転・霊園の造成が活発におこなわれたこと、核家族化が進み、墓地の数が増加したこと、所得水準が向上し、高級品指向が高まったことなどによった。また、記念碑や石造芸術への関心が高まり、実用物から文化面への需要の高まりもみられ、大島石はその材料に適しており、需要増となった。これに対して採石業者では、大のみはエアー工具(削岩機・チュービングハンマー)に、火薬爆破はジェットバーナーに、滑車はケーブルクレーンにそれぞれとってかわり、ブルドーザーやパワーシャベルなどの重機械の導入もはかられた。加工業者も切断・切削・研磨などの加工機械の導入を積極的にすすめ、ともに生産性の向上がはかられた。
 大島石の場合、供給能力増大には次の二点が大きく貢献している。一つは昭和三〇年の削岩機、四三年のジェットバーナー(切削機)、四八年のバックホーの導入などにみられる積極的な機械化である。これらにより可採範囲が深くなり、量的拡大がもたらされた。二つには原石運搬を容易にすることに業界が努力したことである。採掘機械・採掘技術の進歩は、地表から五〇m以上の深さにまで採石現場を掘り下げた(写真5-20)。深い採石現場から切り出された原石の搬出には長大なケーブルクレーンの導入がはかられた。海抜五〇~三〇〇mの丁場(採石場)から急斜面を港まで運ぶのにかつてはマタギやトロッコ・荷馬車にたよっていた。これらがトラックにとってかわり、石船はトラックを直接積み込むフェリーボートに替わった。なかでも三八年の下田水~今治間のフェリー化と五一年の宮窪~余所国間の農免道路の開通は画期的なできごとであった。これにより、丁場でトラックに荷積みされれば途中での積み替えなくして直接各地の加工場まで輸送が可能になったのである。また、四六年に設立された大島石協同組合(現在小田順重理事長)の事務代行に加えて工具の共同購入、原石の販売斡旋および割石の共同販売などの積極的な共同事業の推進は、当業界発展に多大の貢献を果たしている(採石業者四九人、五六事業所が加入)。さらに五〇年度には公有水面の埋め立て(一九八三・五平方m)により、雑石置場と船舶接岸用地の確保がなされ、廃土石の有効利用とあわせて業界発展に寄与した。


 生産と流通

 大島石の生産量は、昭和五五年の三・六万トンをピークに、最近は二・六万トンで安定している。なかでも墓石用中心の切石は生産量の約四分の三を占め、大島石の中心をなしている(表5-47)。五一年を一〇〇とした指数では間知石・割石は二五、割ぐり石は六二であるのに対し、切石は一二八と増加しており、需要の伸びを示している。
 昭和六〇年末で採掘が行われている丁場は五五か所ある。その分布は宮窪町四四(余所国二三、宮窪二一)、吉海町一一(早川五、泊四、田ノ浦二)となっていて、大島の北部の念仏山東斜面に集中している(図5-23・表5-48)。図5-23は五五年時点の丁場である。表5-48の中には六〇年末には廃業してしまった業者が八、その間に新規または事業主が変更になった事業者が一〇もあり、大島石業界の浮き沈みの激しさを示している。総生産額は原石で約四〇億円、加工約一〇億円といわれ、島しょ部の重要産業となっている。良質の石材の出る範囲は限られるため、事業主の変更も多く、採石業者の中には地主から採掘権を得て採掘料を払って採掘している者も多い。採石事業所の規模は零細で、従業員五人以下が五六%、六~一〇人が三三%である。
 大島石の流通経路は次の二つに大別される。一つは、加工、販売店向けで「原石販売」と称され、県内を中心に中国・四国・阪神の加工、販売店へ販売される経路である。これの取り扱いの大半は仲買業者が仲介する。この経路での取り扱い品は細目の半数弱と中目・荒目の大部分である。二つ目は、加工業者向けで「製造卸し」とも呼ばれ、原則として仲買業者を通じて加工産地の製造卸しメーカーに送られる経路である。この経路で取り扱われる原石の約五〇%は岡山県の北木へ、約四〇%は香川県の庵治・牟礼へ出荷され、残りの約一〇%が地元で加工されている。取り扱い品は細目の中でも特に良質のものに限られ、加工産地で製品化されたものは、その大半が京阪神地区の卸・小売店へ流れ、「大島石」の名声を高めている。なお、大島石の場合、その約八〇%は仲買業者の手を経ており、流通の主役をになっている仲買業者は大島の人が大半を占め、その数は四〇人を超えるといわれる。こうした大島の仲買業者は、需給の仲介機能だけでなく、運輸機能、金融機能をも果たしており、大島石の流通において重要な役割を担っている。仲買業者は、トラック一台で手軽に事業を始められることから新規参入が多く、近年乱立気味である。


 石材加工の発展

 大島石の埋蔵量の推定は困難だが、少なくともあと数十年掘り続けても大丈夫だといわれている。しかし、限りある資源という認識は産地全体に強く、乱掘を慎み、原石により付加価値を付けるため製品加工・販売に力を入れる業者が増えつつある。採掘と加工を兼ねる業者は五、加工のみを専門とする業者は九で零細である。これら一四業者はいずれも何らかの形で採掘業者とつながりがあり、なかでも大島石材・邑偉石材・大光石材・愛媛石材・オリタ総業などは原石採掘から高級墓石関連製品の加工・販売までの一貫化・総合化をめざす当産地の加工の中心的企業である。
 大島石の島外への製品販売を目的とした加工業の歴史は浅く、大島石材の昭和四一年が最初である。そのため地元で加工される割合はまだ二割程度にすぎない。加工への取り組みが他産地に比べて遅れたのは、埋蔵量が豊富で、採掘業の経営が順調であったためといわれる。また、巨額の設備投資と緻密な管理を必要とする割には、利益率が低い加工業に経営的魅力が乏しかった。そのため庵治や北木などの瀬戸内沿岸の先進地に比べ、加工産地としての集積度はまだ低いが、前記五社などではNC付加工機械等設備投資を積極的に推進しており、加工産地としての生産力は増強の一途にある(写真5-21)。さらに、これら五社は加工に止どまらず、自ら四九・五〇年と県内各地に販売店を設け、採掘から加工・販売までの一貫体制をとっている。販売分野への進出の動機は、一貫メーカーのメリットを最大限に得ようとするものだが、松山市およびその周辺で霊園開発が相次ぎ、まとまった需要が見込まれたこと、県内に問屋がなく、県内で大量生産・大量販売を行うためには自ら販路を開拓する必要があったこと、採掘業者として成功し、資金力があったこと、経営者の先見の明などの要因も大きく作用している。なお、県産品愛用運動が推進されるなかで、県庁第一別館、県議会議事堂、県民文化会館などにも多数の大島石が使用されている。今後は、墓石以外にこうした建築用材や、石彫素材などへの用途の拡大が期待されている。この他、余所国の埋め立て地やその周辺で、約二〇の個人業者が割石や簡単な墓地関連品の加工を営んでいる。

図5-22 大島の地質図

図5-22 大島の地質図


表5-46 大島石の種類別生産高

表5-46 大島石の種類別生産高


表5-47 大島石の製品別生産量の推移

表5-47 大島石の製品別生産量の推移


表5-48 大島石の採石業者一覧(昭和60年)

表5-48 大島石の採石業者一覧(昭和60年)