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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

二 関前村の石灰石

 小大下島の石灰石
          
 高縄半島の北方にある大三島・小大下島・大下島・弓削島の四国内帯の石灰石の埋蔵鉱量は約六〇〇万トン(可採鉱量約四〇〇万トン)で、石灰岩層は花崗岩地帯にある古生層の千枚岩質粘板岩またはホルンフェルス化した粘板岩にはさまれ、熱変成作用をこうむって結晶質となっているところもある(図5-24)。
 小大下島はもと岡村、大下両村の入会山で、島のほぼ中央を境に分割されていた。石灰岩の採掘・加工がはじまったのは寛政年間(一七八九~一八〇〇)とも、文政九年(一八二六)頃からともいわれるが、この頃から移住が始まり石灰採掘で開発された島である。最初は他藩の商人資本や大庄屋クラスの上層村落支配者層の手に握られていたが、その後次第に村民自営が始まった。明治初期には肥料石灰三五~四〇万貫、工事用石灰五~一五万貫を産し、明治二三年(一八九〇)当時の経営者は肥料石灰五名、セメント原料石灰四名を数え、同二七年には石灰焼窯総数は一二○に達していた。当時の石灰生産は、農閑期の余剰労働力を利用して四か月間だけ操業されるにすぎなかった。大正元年(一九一二)の製造戸数は七で、窯数四五、職工二三〇人、生産量九六〇万貫に達し、帆船による輸送とともに村経済の中で重要な役目を果たした。
 第一次大戦中より住友の四阪島製錬所で小大下島の石灰岩が使用され始めたが、大阪窯業セメントや日本セメント大阪工場(大正一五年操業開始)も、この島の石灰岩を原料とした。瀬戸内海のほぼ中央に位置し、当時の輸送帆船の能力に最適の規模であったため、これら産業資本の需要が増大した。こうした状況下、昭和七年には井村石灰鉱業所、小大下石灰が、また一一年には村上石灰が相次いで島民によって設立され、機械力使用による大規模な採掘が行われ始めた。その後の経緯は表5-49に示したが、写真5-22にみられるように島の形が変えられるほどに乱開発がなされた。昭和五〇年頃までに可採鉱量の約七〇%を採りつくした上に、より大規模で効率の良い鉱山に開発が移って、相次いで閉山した。なお、最大の鉱山であった小大下鉱山の採掘跡には水面約一haの湧水池が生まれ、五二年から小大下島・岡村島の上水道用水源地として活用されている。その東の大下島には大正六年(一九一七)に大下石灰鉱山が開かれた。


 大三島・弓削島の石灰石

 大三島には宮浦の大三島鉱山と、明日の上杉・毛利原石の両鉱山が開発されてきた。また、弓削島では大正六年以来、本格的な開発がなされ、主に四阪島へ送られた(表5-49)。

図5-24 愛媛県小大下島地質図(井上秀雄・土井啓司、1961)

図5-24 愛媛県小大下島地質図(井上秀雄・土井啓司、1961)


表5-49 越智諸島の石灰石鉱山

表5-49 越智諸島の石灰石鉱山