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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

三 大山祇神社と大三島町

 大山祇神社

 「国宝の島」と呼ばれ、社の森の零れ日のように輝く古のロマンを秘める大三島。伊予国の一の宮、日本総鎮守を呼称し、旧国幣大社であった大山祇神社は、宮浦港から東へ向かってすぐ参道となり、町並みは鳥居前町の形態をとどめる。正面の鳥居から境域となるが、広大な神域は榊山の丘陵一帯に及んで面積二万八〇〇〇平方m(飛び地を除く)、うっそうと茂るくすのきの樹林の中に三五棟の社殿がある。太い注連縄の下がる神門をくぐると、正面に荘厳な感じの拝殿、その後ろにくすのきの老樹を背にして丹塗りの本殿が建っている(写真5-39)。
 本殿は応永三四年(一四二七)の建築で、三間社流れ造り屋根桧皮葺き、桁行八m、梁間八・七m、四方に一・三八mの縁をつけて高欄をめぐらしている。拝殿は切妻造り屋根桧皮葺き、桁行一二・六m、梁間七・二m、正面中央に向唐破風付向拝がある。共に重要文化財である。上津社・十七神社は県指定文化財で、十七社は諸山積社殿と十六社殿が横に連続し細長い建物となっている。神像一七体は重要文化財である。境内の全域にわたって群生する大小二〇〇余本のくすのき群は国指定の天然記念物(うち指定対象樹三八本)である。幹回一mを超えるものが三〇本余り、その最大のものは拝殿前の広場にあって根回二〇m、目通り幹回一一m、高さ一五・六mである。本殿裏にも樹高四八m、目通り八mの老大樹が樹冠をひろげている。一帯は、くすのき群があらかし・くろがねもち等の巨木と混生し一大社叢を形成している。


 大山祇神社宝物館

 太鼓橋を渡ると大正一五年(一九二六)に設立された国宝館と、昭和三七年開館の紫陽殿の二棟からなる宝物館があって、大山祇神社に奉納された宝物類が収蔵展示されている。
 大山祇神社は、南海・山陽・西海道の海上交通の要衝に当たり、古くから、特に武門の守護神として信仰を集め、各時代の武将たちはおびただしい武具甲冑類を奉納した。源義経・河野通信奉納の鎧など国宝八点、重要文化財四七二点、全国の国宝・重文クラスの武具の八割がここに収められ、その他の有形・無形文化財、重要美術品を含めると総計数千点にのぼる(写真5-40)。
 国宝館は高床式唐破風棟造り、屋根は銅板葺きである。紫陽殿は校倉式鉄筋コンクリート造り、屋根は銅板葺き、国宝・重要文化財収蔵庫として昭和三七年八月三一日に開館したものである。年中無休で、開館時間は八時~一七時、拝観料金は大人八〇〇円、大学・高校生六〇〇円、中学・小学生三〇〇円である。


 海事博物館

 宝物館に隣接して建設された海事博物館は、船の外形をかたどった鉄筋コンクリート建築で昭和四七年三月二三日の開館である。天皇陛下が相模湾で海洋生物の研究に使用された「葉山丸(一Ot)」を中央に置き、陛下の学術論文、葉山丸資料、伊予水軍資料、海生動物標本などのほか、大山祇神社が鉱山の守護神であることから全国各鉱山から奉納された鉱石類を展示している。宝物館と共通の拝観券で入館できる。


 御串山

 御串山は宮浦港の南側で西に向かって長く突出した半島状の小山である。その名称は大山祇神社の年中行事に供するさかき葉を採取することに由来する。海抜六六m、大山祇神社の飛地境内とされており、全山くろまつ・たいみんたちばな・ひめゆずりは・かくれみの・かごのきなどの暖帯性常緑樹におおわれている。よく自然景観を留めており、県の指定名勝になっている。
 半島先端部にほど近い所にある阿奈波神社は、女性を幸福にする神、女性のいろいろな病気に霊験があるといわれ、長寿の神として参拝者が多い。また、周辺は海水浴場ともなっている。山上の台地は千畳敷とよばれる館跡、その下に枡形の遺構や武者走りの遺構がある。


 一人角力(相撲)

 大三島には年間を通して数多くの祭事がある。そのうち春の例大祭は旧暦四月二二日に行われる。これは養老三年(七一九)に大三島宮浦の地に大廟が竣工し遷座祭が執り行われた日に当たるとされ、当日は境内から宮浦海岸まで大市がたち多数の参詣者でにぎわう。県下の祭は大三島大山祇神社の大祭に始まるとされる大山祇神社秋祭りは、氏子祭、産須奈大祭として旧暦八月二二日全島の旧一三か村が参加して盛大に繰り広げられる。御田植え祭(旧暦五月五日)抜穂祭(旧暦九月九日)には本殿から境内の斎田祭場にある御桟敷殿まで神輿三基の渡御があり、大三島内の一三集落から選ばれた一六人の早乙女などによって御田植えが行われ、秋には御田植え祭に奉仕した乙女らにより初穂が刈り取られ、神輿に供えて豊作を感謝する祭典が行われる。なおこの春秋の祭典に一人角力がおこなわれる。これは、人間が目に見えない稲の精霊と相撲をとって神をお慰めし、豊作を祈るもので、県の無形民俗文化財に指定されている(昭和六〇年には、力士と行司が高齢のため引退して実施されなかった)。

 お田植え祭りは、毎年旧暦五月五日の端午の節句に催される。拝殿において荘厳な式典が終わると、三体の神輿を奉持した長い行列は、広い青葉の境内を南へ南へと進む。やがて斎田まえの斎場に神輿が着御する。早乙女は島内氏子の地区内から選出された一六名の女生徒である。白い上衣に緋の袴、まっ赤な手甲、脚絆、頭の髪に熨斗を付けたかわいい姿で斎田のまえに勢ぞろいする。
 神事がおわると、斎場の土俵で奉納するのが一人角力(県指定無形文化財)である。行司の藤原百千さんに呼び 出された「一力山」こと藤原荒市さんが、土俵の上で稲の精霊と三番勝負をするのである。行司の指す軍配と掛け 声につれて一力山は目にみえぬ神と取り組むのであるが、その所作がいかにもこっけいであり真剣である。一回めは押し出されて精霊の勝ち、二回めは一力山が奮起してやっとのことで押し出して勝ち、これで一勝一敗。勝敗は最後の一番にかかっている。三回めは双方とも秘術をつくして善戦したが、ついに精霊の勝ちとなって一力山はころりと転がされ、これで今年も豊作という結果が出た。
 土俵を取り巻いた見物人は、目にみえない精霊を相手としてユーモアたっぷりの妙技を演じる一力山、一人の力士を二人にみたてて巧みに裁く行司の軍配の動きとその掛け声に盛大な拍手を送る。
 一人角力が終わると、早乙女たちの田植えが始まる。神社の神田にお田植えをする前に、何かのこっけいな所作事の演じられるのが全国的に共通な様式である。大山祇神社の場合は、一人角力がそれである。(黒河健一『生きている民俗探訪』)


 宮浦新地

 大山祇神社の大祭は、古くから二・四・一一月の三回であったが、四月の大祭日を大市日として三島市が開設された。三島市は従来神社の横を流れる大川の河床を市場として行われたが、不便であるうえ長期の市立中には降雨の時など大いに混雑した。松山藩では藩財政打開の目的もあって、松山の商人薬屋五兵衛の意見により、安永六年(一七七七)に大川筋の付け替え、旧河床の市街化、常設町家の建設等を行った(本通りの入口に薬屋五兵衛の頌徳碑が建っている)。これによって、鳥居前町としての宮浦新地は周辺島しょ部の遊興・商取引の中心として繁栄した。
 現在新地の町並みは大きく変わりつつある。井口から延びる道路は、大山祇神社北側から神社と商店街の間を通り商店街の南をう回して宮浦港に至るコースで整備され、また鳥居前町を横切る天井川(大川)の付け替え工事とそれに伴う商店・民家の移転によって、新しく港湾地域と神社北側に商店の移転が見られる。
 町並みの東、宝物館から西へ下ったところに、ロッジ「水軍」がある。食事とみやげ物の店であるが、「すてきな旅瀬戸内海」と名うったSTSルートの一環として、QANTAS TOUR、SANRISEなどの外国人団体客や修学旅行団体などの立ち寄りが見られる。

大三島祭事暦抄

大三島祭事暦抄