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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

七 関前村岡村の弓祈禱

 岡村島の自然

 今治市より海上二〇kmを隔てた越智郡の西北県境に位置する関前村は、岡村島・大下島・小大下島で構成されている。今治港と広島県竹原港を結ぶフェリー(一日五便)と広島県仁方港を結ぶ高速艇(一日六便)が全便岡村港に寄港し、村営フェリー「せきぜん」が同村三島と今治市の間に一日三便通っている。フェリーで一時間~一時間二五分、高速艇だと三〇分で今治と結ばれている。島はおおむね花崗岩からなり、ところどころ石灰岩が露出する。島全体が段々畑のみかん園で、五月のみかんの花のかおりと秋の黄金色の美しさが楽しめる。夏は磯釣り客と海水浴客でにぎわい、民宿を利用する家族連れの姿が見かけられる。
 「観音崎」 岡村島の南端に関前灘に向かって突き出した岬がある。牛が臥した形に突き出しているのでむかしは牛が崎と呼ばれていた。観音崎とその背後の山地は、瀬戸内海国立公園に指定され、瀬戸内海特有の海景美を満喫できる景勝の地である。岬の高さ三〇m、長さ三〇〇m、その全面に黒松の老木が繁茂し、遊歩道が造られ、閑静な散策を楽しむことができる。船上からの眺めは石灰岩が所々に白く露出し、白石山の海辺は絶好の釣り場でもある。 岬の高台には内海の海景美を満喫できる展望台と立派な休憩所がある。ほかに弘法大師の自作との伝説がある観音菩薩の木像を安置する観音堂、航海の安全のため一七四〇年代に地主の井村八左衛門によって寄進されたとの由来をもつ常夜灯がある。また昔は狼煙台もあった。
 「正月岬」 北端のこの岬には、「かつて壇ノ浦で敗れた平家の落人たちはあちこちの島に隠れ住んだが、毎年正月になるとそれらの島からこの岬に集まり、昔をしのぶ鎧冑のいでたちで酒をくみかわした。」との伝説がある。


 弓祈祷

 岡村の姫子﨩神社では、二月一一日に、鎌倉時代から伝わっている弓祈祷が古式ゆかしく行われ、境内は村民と今治などからの里帰りの人々でにぎわう(写真5-47)。
 この弓祈祷の由来ははっきりしないが、伝説によると鎌倉時代に伊予の豪族河野氏が年頭に武運長久、悪魔退散、五穀成就を祈願して射芸を奉納したのに始まると伝えられている。一説には今から一三○○年前、村に大ジシが現れて農作物を荒らすのを退治したのに始まるとも、また古く(中世)瀬戸内海交通の要衝として栄えた同村をねらった海賊たちを村の男たちが弓矢で追い払ったのが始まりとも伝えられており、いまだお島民の無病息災と豊作・豊漁を祈る祭りとなっている。旧暦の一月一一日に行われるのが慣例だったが、祭りを盛り上げるため昭和四八年から建国記念の日の祭日を祭りにあてるようになった。
 祭日当日は神社の境内に幅約七m、長さ約二〇mの射場に祭壇が設けられ屋台もたつ。午前九時頃大勢の参詣者の見守るなか、伝統の行事が開始される。射手衆がはかま姿で威儀を正し、射場に着座すると神事があって、まず神主によって天地東西南北に向けて弓を射る(矢は放たない)。行事のあと、黒の羽織はかま姿の一二人の射手は六人ずつ大関組と伊太郎組にわかれ、小笠原流弓術にのっとって、交互に「鬼」と大書したオニマットウ(直径約二m)めがけて三度弓、二十五度弓を放つ。ここで的番二人に太鼓打ちが一人ついて伊勢音頭をうたいながら四斗樽が射場にかつぎ込まれる。その後は各種の的(ツナホリ、ネズミマットウ、カヶマットウ、金的)が掛けられて的番がつく。的に命中すると「当たり-」と手にしているダイガミ(ぼんでん風のもの)を振り上げ、射手は当人の老人たちから胴上げで祝福される。
 関前村内では大下島にも弓祈祷があって、ここでは今も旧暦の一月一一日に行っている。
 瀬戸内海交通の東西ルートと南北ルートが交差する芸予諸島は、互いに共通した独自の文化を伝承して、おのずと一つの文化圏を形成しているかの観があるという。芸予諸島の民俗で最も特色ある民俗といえば頭屋制、弓祈祷、コトスボ、祭礼の奴、擢伝馬、厳島信仰、八幡信仰などが挙げられる。
 弓祭りは芸予諸島のほぼ全域と高縄半島周辺部に分布するほか、川之江市と新宮村それに南予にもある。南予では宇和町を中心とする地域に点在していて、芸予諸島とは異なる祭礼行事として行った流鏑馬である。これに対し、東予地方に分布する弓祈祷はすべて歩射で、実施期日によって越智郡およびその周辺は年頭に行う正月モモテであり、川之江市は二月モモテ、新宮村は三月モモテである。
 正月モモテは芸予諸島における弓行事である。現在この行事の伝統を伝えている所は少なくなったが、関前では弓祈祷、伯方では弓放ちと呼ばれ、毎年古式ゆかしく行事が行われている。