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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

一 上島諸島の除虫菊とゼラニウム(1)

 工芸作物除虫菊の盛衰

 「梅雨晴れの初夏に雪とあざむき静かなるわが村里を飾るもの、これこそ重要産物除虫菊の花である。」『森光繁・教育は生きている』より
 越智郡島しょ部における先駆的な商業的農業は、工芸作物農業である。柑橘の普及する以前においては、普通畑(いも・麦)の転換作物に除虫菊・たばこなどの工芸作物が広い範囲に作付された。昭和二〇年代から除虫菊・たばこなどの工芸作物が漸次衰退してゆき、昭和三五年前後から柑橘栽培が支配的になってゆく。除虫菊の衰退は価格の相対的不利性にもよるが、主として戦後の柑橘類の価格の有利性に基づく。昭和三五年三九八ha、三八年四六九haと三〇年代にはまだかなり多かった(図6―1)。ところが昭和四五年の作付は弓削町二五ha、岩城村九ha、大三島町七ha、魚島村五ha、四四年には県下の全栽培面積が六二haになり、翌四五年からは統計資料から消えた。
 除虫菊はバルカン半島のユーゴスラビア・ダルマチア地方が原産で、花に強い殺虫力のあるピレトリンを含むキク科の多年草である。ピレトリンは人畜無害で強力な殺虫力のため、家庭用・農業用殺虫剤・蚊取線香の原料である。明治一四年(一八八一)大阪の薬問屋桂林堂がイギリスから粉末を輸入したのが、日本人と除虫菊のふれあう最初であった。明治一八年(一八八五)札幌農学校がアメリカ合衆国から種子を取り寄せて栽培し、一方でオーストリア駐日領事が日本政府に普及をすすめた。政府は種子を輸入して試作をすすめ和歌山県で成功した。試作から経営的栽培を始めたのは、和歌山県日高川付近である。全国の先進地として生産の中心と化したのは、和歌山県有田郡の上山英一が、アメリカ合衆国の米国植物会社社員・エッチ・アーモアを通じて導入し、栽培の研究と普及努力の結果であった。昭和一五年頃には日本が世界の除虫菊の九〇%を生産した。
 明治二三年(一八九〇)瀬戸内海沿岸の岡山県に導入され、愛媛県で最初に植えられたのは明治三〇年(一八九七)頃である。広島県因島の試験場から種子を越智郡の島しょ部に導入し、表6―1のように発展していく。道後動物園にある果樹園芸の祖三好保徳の頌功碑の碑文には「三好保徳の果樹園は除虫菊を間作して大いに利することあり(後略)。」と刻まれ、換金作物としての有利性を物語っている。こうして、明治二〇年以降、商品作物への関心が高まり、明治末期には越智郡島しょ部を中心に栽培され、その後、表6―2・6―3のように県下に栽培地域が拡散していった。
 岩城村の除虫菊は明治三〇年(一八九七)頃、小漕および長江部落で果樹の畦畔や間作として栽培がはじまった。急激に発展したのは大正に入ってからで(表6―4)、戦中後にかけて食糧事情と価格関係(麦・甘藷の闇価格)によって栽培面積は激変した。
 本県の消長は、戦前三か年(昭和九―一一年)平均反別一五三八町歩、生産量(乾花)三四万貫をあげたが、昭和二四年には四六町歩になり僅かに余命を保つという減少ぶりであった。その後、食糧事情の好転によって他作物転換への関心が深まり、除虫菊の作付けも逐次増加した。県は優良種苗圃を越智郡鏡村(現大三島町)に設置し、上質の除虫菊栽培を奨励した。
 昭和二八年岩城村に県立農業試験場岩城分場が開設された頃から、再び台頭して表6―5のような生産計画を実施し、東南アジア方面へ蚊取線香にして輸出した。
 除虫菊は温暖な気候を好み、特に開花収穫期に雨量の少ない地帯が適地である。除虫菊の開花収穫期は五―六月である。瀬戸内海沿岸地域は日本の寡雨地域であるが、収穫期が梅雨季にかかるため、刈取乾燥期と梅雨の関係はきわめて重要である。また瀬戸内海島しょ部の除虫菊はみかんの間作にも植えられ、しかもみかんに不適の不良畑にまで栽培された。大三島の大見では、昭和一〇年大見早生という優良品種が発見されて普及した。
 愛媛県産除虫菊の奨励品種「大見早生」の品種改良を行った篤農家、渡部小三郎(大三島町大見)は、明治三六年(一九〇三)横浜市長岡商会尾道出張所森岡仁助より種子の分譲を受け、この地方にはじめて試作を行い、明治四一年(一九〇八)春、除虫菊乾花を収穫したとき一反歩(一〇アール)当たり三三貫余で、販売価格(乾花貫当たり三円)九九円余の粗収入があった。当時この地域の麦価石当たり五円であったので、大体二〇石分約六反歩耕作に相当する収益をあげたという。
 かように、渡部小三郎は多年にわたり除虫菊の選抜陶汰によって、早生種ダルマチア系大見早生の育成に成功した。昭和九年に愛媛県の奨励品種の指定を受け、県内に普及し全国的に多収穫と品質の優秀性を誇った。この品種改良によって、梅雨季に収穫していた中晩生系統の除虫菊が、五月中旬に収穫可能となり生産改良に多大の貢献をした。この功績で渡部小三郎は昭和三〇年に黄綬褒章が授与された。

図6-1 越智郡の旧町村別の除虫菊栽培地域の分布(昭和27年)

図6-1 越智郡の旧町村別の除虫菊栽培地域の分布(昭和27年)


表6-1 愛媛県における除虫菊とゼラニウムの栽培の推移

表6-1 愛媛県における除虫菊とゼラニウムの栽培の推移


表6-2 愛媛県における除虫菊の都市別栽培割合

表6-2 愛媛県における除虫菊の都市別栽培割合


表6-3 愛媛県の除虫菊栽培面積と収量

表6-3 愛媛県の除虫菊栽培面積と収量


表6-4 岩城村の除虫菊栽培

表6-4 岩城村の除虫菊栽培


表6-5 愛媛県の特用工芸作物生産年次計画

表6-5 愛媛県の特用工芸作物生産年次計画