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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

三 岩城村の芋菓子

 芋菓子の元祖益田谷吉翁之碑

 岩城島の厳島神社の境内に、「芋菓子元祖益田谷吉翁之碑」が昭和三〇年に建てられた。赤味の地元産の花崗岩の頌徳碑で、裏面に世話人一四名の氏名と、次のような句が刻まれている。「益谷や初勢の音も千代八千代」 「製造の苦心で津久る万万才い」 「芋かしや益々のびる金の津る」
 碑の一四人の世話人(昭和三〇年現在)は次のごとくである(写真6―1)。
① 菅野通一…大正時代創業
② 黒瀬忠義(寛)…大正時代
③ 吉岡武雄(又一の長男)…大正時代から「又のマーク
④ 高井光夫(助右ヱ門の長男)…大正時代から(高に○)製菓
⑤ 官田数松…大正時代
⑥ 益田菊一郎(喜代松の長男)…大正時代
⑦ 池田繁雄(仁三郎の孫)(教育長)…大正時代から(共に○)
⑧ 堀内平…戦後からラムネ屋
⑨ 石本好一…大正時代
⑩ 亀井幸男(父は数)…岩城興業社長…戦後
⑪ 黒瀬寛…電気機具…昭和初
⑫ 吉岡富士(武雄の弟)
⑬ 山本節美(亀井幸男の姉)…戦後
⑭ 田村繁定…松山出身戦後 尾道に本店 ラムネ店

 現在(昭和六一年)は④と⑫と⑭の三軒が残っているだけである。


 益田谷吉の製法導入

 益田谷吉は岩城村浜に、益田大吉(船乗)の長男として、元治元年(一八六四)一一月一九日に生れた。昭和四年八月二〇日歿である。長男が八郎右ヱ門、その長男(孫)が益田守で、守が死んであとが絶え、妻の一族が浜にいるが、直系はない。
 益田谷吉は早くから船乗で、岸和田・兵庫・尼ケ崎方面にセメント・バラス・木材など物資を運搬していた。大正初にたまたま神戸市内の果物問屋マル金で岐阜産の芋菓子を見た。原料の甘藷が郷里の岩城に多いので、製造法を学ばんとして、岐阜まで赴いたが、秘法として教えてくれなかった。しかし器具などを盗見して会得し、神戸市内で製造を試みたが、不成功であった。彼は熱心に研究し、岩城に帰りその製法を研究の結果、大正初、五十余才にして漸く成功した。当時生産過剰に悩んでいた甘藷栽培に一大光明を与えた。近隣の人びとにその秘法を伝え、谷吉をリーダーに吉岡又一・菅野通一・黒瀬忠義・池田仁三郎(現教育長の祖父)らが始めた。芋菓子は一般大衆の間食物として阪神方面で歓迎された。岐阜産のものより良質で好評を博し、大正末期には三十余軒の製造家ができ、年産六〇万貫の甘藷を加工した。販路も全日本に及んだ。
 芋菓子は『勧農』第一五巻一号(昭和八年)によれば(一〇八頁)、「大正七年九月、岩城村益田谷吉初めて製造に着手し、その後漸次増加し、今日に及ぶ」とある。そして製造戸数六戸、原料甘藷消費高二五万貫、販売金額八万円。販路は大阪と京都の中央卸市場、神戸市笠松通りの藤崎商店、岐阜県今尾町の野村商店、京城竜山の長岡商店、姫路市坂本町の上田商店、岡山県西大寺町の羽納商店などが主な販売先と誌されている。


 戦時中の岩城の芋菓子

 昭和一二年の支那事変頃から、村長であり、県会議員であった稲本早苗の尽力で、岩城の芋菓子は軍需物資に指定された。宇品糧秣廠を通して、軍の慰問品として関東軍などに送られ、満洲・北支で日本軍隊に歓迎された。見返り品として油やドンゴロス入の砂糖が特配された。昭和一一年から稲本村長の指導で昭和三五年頃まで組合が二つできた。『(岩に○)製菓組合』は菅野・黒瀬・吉岡のグループが、『(共に○)製菓組合合名会社』は池田・富田・益田・石本らのグループが組合の幹部であった。
 昭和一八年には敗戦の色が見え、砂糖や油も不自由であった。昭和二七年には甘藷の統制が解除になった。


 芋菓子の現況

 戦時中に一八軒あった芋菓子製造家が、昭和二八年には六軒に減っていた。昭和四三年一一月探訪した時も、黒瀬・吉岡・高井・池田・田村・益田の六軒で、加工原料の甘藷も年間六〇万貫が、三分の一の二〇万貫に減っていた。
 昭和六一年の現在は、芋菓子の原料の甘藷は、越智諸島には生産されていない。甘藷はあっても野菜として生食され、加工に回らない。昭和四〇年頃から、甘藷畑はミカン畑に転換され、原料の芋は一次加工して宮崎・熊本・高知・小豆島などから移入している。一次加工は油で揚げて冷蔵庫に入れ、シーズンになれば砂糖水を通し、もう一度油で揚げる。
 現在は④⑫⑭の三軒が製造しているが、六月と七月は休んでいる。昔は家内工業で年中少しずつ造っていた。今は工場も近代化している。一時は十数人も雇っていたが、今は吉岡家では家族三人と雇い一人に合理化している(写真6―2)。
 販路は京阪神・山陰・山陽・北陸が主で、ふるさと土産品として、岩城島・伯方島・弓削島では盆と正月に需要が多い。シーズンオフに岩城の芋菓子を求めても品切れであった。
 岩城の芋菓子が衰えた理由は、(1)地元に原料が少なくなったこと (2)九州の甘藷は繊維度が低く澱粉質が高く、地元産より優秀なこと (3)消費地販路が阪神や山陰で遠く、毎月集金を兼ねて赴いていた (4)芋菓子よりも旨い菓子、競合品が発達したこと (5)芋菓子製造の後継者が少ないこと 今の残っている三軒のうち、高井家は後継者がない。吉岡家は息子が小倉市で歯科医をしており当主一代の見込みである。田村家は子供があとを継ぐ予定である。
 今後は町の産業課、郵便局とタイアップし、ふるさとみやげとして、昭和五九年一一月以来、吉岡と田村がチラシを印刷して活路を見出し、存続に努めている。