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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

第二節 南予の地域区分

 南予の地域区分

 南予の宇喜五郡と三市を含む地域を次の六地域に分けて、その生活文化の個性を述べていくことにする。この六地域は、和銅六年の和名類聚抄にある、喜多郡の矢野・久米・新屋の三郷と、宇和郡の石野・石城・三間・立間の四郷に相当する歴史的背景の地域である。
 一 大洲市とその周辺 二 八幡浜市とその周辺 三 宇和・野村盆地 四 宇和島市とその周辺 五 鬼北地区 六 御荘・城辺地区 (図1―1)
 旧北宇和郡(宇和島を含む)が特に広いので、宇和島市とその周辺と、鬼北地方の二つに分けた。また、流域からいうと、肱川流域は宇和盆地・野村盆地・大洲盆地・内山盆地に分けられるが、上流の東宇和郡と下流の喜多郡(大洲を含む)の二つに区分することにした。

 大洲市とその周辺

 戦国時代からの城下町であった大洲(旧大津)を中心とした旧喜多郡地域はまとまった地域をなす。肱川の中流下流の地域で、坂石より下流が藩政時代の大洲領であった。初代大洲藩主加藤貞泰は、次男直泰に約一万石をさいて分封し、元和九年(一六二三)に許可され、寛永一九年(一六四二)に新谷(にいや)に陣屋町侍屋敷を造成した。新谷藩領は図1―2の如く散在している。なお大洲は万治元年(一六五八)までは大津と記した。大洲盆地床は標高一〇~一五mに対して、内山盆地床は五〇~五五mであり、野村盆地床は一〇〇~一四〇mに対して宇和盆地床は二一五~二三五mである。
 大洲市とその周辺は、次の四地区に区分される。一〇か町村合併による大洲市域の中央区、長浜町域の川下区、肱川町と河辺村の川上区、内子町と五十崎町の内山区である。
 なお藩政時代には今の大洲市域の野田平地と、今の肱川町の予子林(松越)トンネルより西)は宇和島藩領であった。これに対して今は宇和町に合併した鳥坂(とさか)と正信の旧両村は、昭和三〇年までは大洲市の旧南久米村分であった。宇和町内の鳥坂峠の番所址には大洲市の文化財の標柱が立っている。
 大洲藩時代には、城下を中心に村触布達の便宜を基準に、郡内に「筋」という連絡系統を設けて、次の五集団にして、おのおの郷代官に統率させた。(1)田渡筋二二、(2)南筋二二、(3)浜手筋二二、(4)内山筋一九、(5)小田筋二〇か村である。しかしこの区分は交通路的で、内山筋に大洲・高山・中村・若宮・立山・中山・石畳の諸村があり、六日市・廿日市は田渡筋に、古田や平岡は小田筋に入っている(大洲市誌一四一ページ)。

 八幡浜市とその周辺

 この地域は旧西宇和郡の区域で平地に乏しい。宇和島藩の文献『大成郡録』一〇組のうち、矢野組と保内組に該当する。佐田岬半島は長さ四〇㎞の日本一狭長な岩石海岸の半島である。瀬戸内海側は直線的な伊予灘断層海岸で知られ、伊方越には四国で最初の原子力発電所が活動している。宇和海側の伊方・保内・八幡浜・三瓶の海岸は、リヤス海岸の模式的な地域で、湾頭に僅かに平地があるに過ぎない。
 八幡浜市五反田の保安寺の「梅の堂の三尊像」は藤原時代の作で、国指定の重要文化財である。『宇和旧記』によれば、嘉慶二年(一三八八)再興の棟札があり、南予の僻地でも早く文化が開けていた証拠である。また「矢野領主池大納言殿知行所寿永三年(一一八四)云々」とある。この地は頼朝が池ノ禅尼への恩に酬ゆるため、平家の荘園にしたといわれている。
 八幡浜の地名は摂津氏所領の暦応四年(一三四一)が初見である。天文年間には大津(大洲)城主の宇都宮清綱が、次男房綱をつれて八幡浜の萩森城に隠居している。萩森城は山城として雄大なもので、展望がよく地理調査所の五万分の一の地形図にも記されている。藩政時代の村や浦の産業は『大成郡録』に詳しい。西宇和郡のうち喜木津・広早、八幡浜市の川名津・上泊、三瓶町の周木・二及・垣生・朝立の諸浦が吉田藩領であった。
 保内町の川之石は明治期に、櫨、蚕種・紡績、鉱山、海運業などで栄え、本県最初の第二十九国立銀行が、明治一一年(一八七八)に開設された。八幡浜は古来九四連絡の要路で、埋め立てにより街と港を造成した。昔は綿布と繭、今は柑橘と水産物の集散地である。三瓶は昭和四年に近江帆布工場が八幡浜から移って立地し、紡績と漁業と海運業が盛んであったが、近年は豚と真珠の生産で有名である。佐田岬半島の三机・塩成の地峡部は慶長の昔、宇和島藩主富田信濃守により掘削が行なわれたが、失敗に終わっている。
 八幡浜付近は紀伊半島と似て海外移住の盛んな伝統がある。

 宇和・野村盆地

 本地域は東宇和郡の区域である。宇和盆地と野村盆地の間には野村ダムが築かれ、盆地間の道路も整備された。東宇和郡の名は明治一一年(一八七八)に、宇和郡を東西南北の四つの宇和郡に分けたのに始まる。宇和盆地は南予の穀倉地帯で、耕地整理された水田と裏作のれんげが特色である。戦国末期に宇和島に南予の政治文化の中心が移るまでは、松葉城のある宇和盆地がその中心であった。
 東宇和郡は戦後玉津村が北宇和郡吉田町に郡境を越えて合併した。明浜町(俵津・狩江・高山)だけは東宇和郡の臨海地域で、内陸の宇和盆地や野村盆地と趣きを異にし、柑橘栽培や真珠養殖が盛んである。戦後大野ヶ原が野村町の区域になった。上浮穴郡浮穴村が分割され、小屋分が野村町に、北平分が喜多郡の河辺村に統合された。藩政時代には玉津(法華津・深浦・白浦)、俵津、狩江(狩浜・渡江)が吉田領であったのに対して、高山は宇和島領であった。
 東宇和郡の東部の野村盆地は、今は衰えたが泉貨紙の発祥地で、江戸時代に楮と和紙、明治大正時代は養蚕と製糸、戦後は酪農と椎茸栽培が盛んで、西部の宇和盆地とは、地形も物産も異なり特色がある。

 宇和島市とその周辺

 宇和島の城下町は藤堂高虎が文禄四年(一五九五)宇和郡の七万石の領主となり、丸串城を本城と定め、翌慶長元年から築城と城下町建設に着手した。慶長二年(一五九七)には秀吉の命で朝鮮に遠征し、同五年の関ヶ原の戦では家康方の東軍に味方し、その功により高虎は伊予の半分の二〇万石の大守となった。同一三年高虎は今治城に移り、さらに同年伊勢の安濃津に転封された。同年富田信濃守信高が宇和郡の領主となり、同一八年に改易されるまで丸串城にいた。彼は三机塩成の掘切工事の失敗で有名である。その後一年間幕府領となり、同一九年伊達政宗の長男秀宗が、大坂冬の陣の戦功により大名に取り立てられた。秀宗は元和元年(一六一五)三月丸串城に入り、板島を宇和島と改称し、宇和島藩一〇万石が成立し、明治維新まで続いた。
 明暦三年(一六五七)秀宗の五男宗純が、八五か村(二万九九〇八石余)を分知され、吉田に陣屋を造った。寛文二年(一六六二)に目黒村(松野町)で両藩の境界争いが起こり、寛文四年(一六六四)江戸表で、老中社寺奉行立合いで、両村主張の中間に藩境を決めて落着した。そのとき江戸まで長持に入れて運んだ、目黒山の立体模型(約千分の一)が建徳寺に今も保存されている。なお寛文二年には吉田藩領の中之川・延野々(のべのの)・永野市・近永・影平の五か村と、宇和島藩領の北灘・こも淵・下波(したば)・南君(なぎみ)・上泊・川名津・喜木津・広早の八か浦とを替地している。
 秀宗は大名家創立にあたり、父政宗から六万両を借りていたので、これが返済のため緊縮政策を要した。家老の山家(やんべ)清兵衛は、家臣の俸禄を半減し対策を立てたが、政敵桜田玄蕃との政争で敗れ、元和六年(一六二〇)に暗殺された。その後追幕されるようになり今は和霊(われい)神社として、七月二三、四日の大祭には宇和海沿岸はもちろん、瀬戸内海や土佐からも数百人の漁師が船を宿にして参拝し、恒例の闘牛が行なわれる。
 宇和島の鶴島城は海抜七〇mの分離丘陵の上にあり、市街地は海に臨み五角形の放射状である。街は標高ニ―三mの低平地で、市街の大部分四〇万坪は元禄以後の埋め立てである。宇和島は今は日本一の養殖真珠の集散地であり、宇和海ははまち養殖も日本一である。宇和島は隣接の村を合併し、昭和四九年には日振島、戸島など宇和海村をも編入した。
 津島町の区域は江戸期には一五か村あり、うち北西部の北灘村だけが吉田藩で、他は宇和島藩である。こも淵半島も由良半島も村の境界は細長い背筋を通っているのは、佐田岬のぶつ切型と趣を異にする。
 津島町の海岸はリヤス海岸で、昔は甘藷と麦、今は養殖のはまちと真珠が特色である。

 鬼北地区

 鬼北とは鬼ヶ城山の北という意味で、四万十川の上流の広見川・三間川・目黒川の流域である。三間町・広見町・松野町・日吉村の地域で、米作と落葉果樹と林業が主である。昔は日吉村の武左衛門一揆で有名な楮や和紙が特産物であった。明治後期から昭和戦前までは養蚕が盛んである。大正三年(一九一四)開通の私鉄宇和島鉄道の区域で、松丸は宇和島藩、吉野は吉田藩の土佐との交易の街村であった。これに対して近永は交通の要路で大正昭和になって発達した街で、北宇和高校がある。西部の三間町には三間高校があり、四国八十八ヶ所の札所は、三間町の戸雁(四一番稲荷山竜光寺)と則(四二番仏木寺)に近接してある。
 日吉村は戦後の町村合併に関係なく、昔のままの村域で別天地である。国道一九七号と三二〇号の接点の下鍵山は、国道の改修で集落も面目一新した。土佐の檮原との間の県境の高研トンネルも完成し、予土の交易の躍進が期待される。

 御荘・城辺地区
 
 南宇和郡の地区を指す。現在の行政区の町村でいえば、御荘町・城辺町・一本松町・西海町と内海村の四町一村である。御荘は平安期から戦国期にかけて延暦寺の門跡領荘園である観自在寺荘が設定されていた。当荘が史料に初めて見えるのは寛喜元年(一二二九)である。御荘は荘園の意味であるが、南宇和郡全体を指すこともある。城辺には戦国期の御荘領主勧修寺氏の常盤城跡のある諏訪山がある。
 篠山(一〇六五m)は予土の国境で、足摺宇和海国立公園に含まれている。明暦二年(一六五六)土佐領下山村庄屋新之丞が篠山に登り、土佐領であると宣言し番人を置いた。これに対し宇和島藩郡奉行伊藤与左衛ら六〇人は翌三年六月上旬、直接土佐藩に抗議し、高知城下に赴いた事件がある。同年七月中旬予土両藩の農民が、篠山観世音寺境内で乱斗事件を起こし、宇和島藩領の正木(まさき)村庄屋助之丞は、江戸に越訴している。土佐藩は沖之島帰属問題とからませ争っていた。万治二年(一六五九)に幕府は覚書を双方に下し、篠山権現の神主は土佐側、観世音寺の別当は伊予側で補任されることで仲裁している。また頂上より八町四方を間隔地とし、両藩を以て管轄せしめ、籤を以て社殿を修繕することに判決した。明治六年(一八七三)に、愛媛高知両県相議して、山頂より北方を土佐分とし、山頂より東南三方を伊予分とし、沖之島と鵜来島を土佐分に決定したのである。
 沖之島の北の集落の母島と鵜来島とは藩政時代には宇和島領であった。これに対して沖之島の南の集落の弘瀬は土佐領であったので、今でも盆行事など風俗習慣が違う。宿毛湾の竜ヶ迫の漁村は高知県でありながら、伊予の北宇和郡下灘村(現津島町)の漁民が移住し開拓したもので、記念碑が建っている。従って今でも宿毛湾への伊予側の入漁問題が毎年論議されている。       






図1-1 南予の地域区分と市町村名(1984年現在)

図1-1 南予の地域区分と市町村名(1984年現在)


図1-2 南予地方の大洲・新谷・宇和島・吉田藩領

図1-2 南予地方の大洲・新谷・宇和島・吉田藩領