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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 大洲市若宮の野菜栽培


 野菜栽培の地位

 大洲市の野菜栽培面積は、「野菜類の生産販売統計―県園芸農蚕課」によると、昭和五七年現在で七四六ヘクタールに達し、県下の市町村の中で首位を占める。昭和五五年の大洲市の農業粗生産構成をみると、野菜は一六・八%に達する。同年の愛媛県の農業粗生産額に占める野菜の割合が一一・八%であることからみると、大洲市の農業所得に占める野菜の地位が他市町村と比べて極めて高いことがわかる。
 大洲市の野菜栽培の中心地は、市街地北東部の若宮地区である。愛媛県の野菜産地には、都市近郊に発達した歴史の古い野菜産地と、昭和四一年に制定された野菜生産出荷法により指定産地となった新興の野菜産地がある。若宮地区は大洲市街地に接した明治時代からの野菜産地であり、その出荷方法が個人出荷を主体としていた点などからして、前者の類型に属する野菜産地といえる。
 昭和五五年の農林業センサスによると、若宮地区の農家戸数は九二戸で、これは大洲市の二・三%を占めるにすぎないが、同年の野菜栽培面積は四五ヘクタールに及び、大洲市の一七・五%にも達する。若宮地区は県下最大の野菜栽培都市大洲市の中の核心的野菜栽培地区といえる。

 野菜栽培の発展

 若宮地区はその南に接する中村地区と共に、大洲市では最も早く野菜栽培が成立したところで、明治初期すでに野菜栽培が盛んであったという。明治中期には障子紙にエゴ油を塗った冷床育苗によるきゅうり・なす・かぼちゃの半促成栽培が始められ、それらの野菜は川舟で長浜に集散され、松山・呉・尾道方面に出荷された。特に大正年間にはきゅうりの半促成栽培が盛んであり、県内外に「大洲きゅうり」の名声を博した。この地区の野菜には、これらの果菜類以外に、ごぼう・さといも・だいこん・にんじんなどの根菜類の生産も、明治年間以来盛んであった。特にごぼうは「若宮ごぼう」の名声を博し、松山市近郊の五明地区と並ぶ特産地として知られていた。
 明治年間の野菜産地は、大洲市街により接近した中村と、それに接する若宮地区内の堀之内であった。若宮地区でも市街地から離れた東半部は桑畑と普通畑が多かった。桑園は大正・昭和年間になるにつれて増加し、昭和初期の最盛期には畑の六〇%までが桑園となっていた。ただしこの地区の桑園の二〇~三〇%程度には、幅一間程度に条植えされた桑の間に、ごぼう又はさといもが間作されていた。この間作のごぼう・さといもは、一つの桑園内では連作されず、順次他の桑園に栽培されていき、三~四年程度で一輪転することが多かった。
 明治・大正年間の普通畑の主作物は夏作の陸稲・甘藷・とうもろこし・きびなどと、冬作の麦であり、野菜の栽培面積の方が狭かった。昭和になると野菜の栽培面積は次第に増加するが、第二次大戦中には野菜畑は激減し、普通畑の主作物は夏作の甘藷と冬作の麦となる。
 若宮地区の野菜栽培が再興されるのは、昭和二五年以降である。同年青壮年有志によって蔬菜園芸研究会が結成され、野菜栽培の技術研究や先進地への視察が繰り返される。そのような中から昭和三〇年、若宮の堀口徳蔵によって、高知県の野市から、ビニールハウスによるきゅうりの半促成栽培法が導入される。ビニールハウスの導入は県下では最も早く、その面積は以後順調に伸びていく。農林業センサスによって若宮地区の施設園芸農家数をみると、昭和三五年の五戸から、同四五年三二戸となり、この一〇年間の伸びの大きかったことがよくわかる。
 若宮地区の桑園は昭和三八年から四五年にかけて圃場整備事業によって消滅した。昭和四〇年ころから若宮の自然堤防上の畑はすべて野菜畑となった。また、自然堤防背後の後背湿地も、圃場整備事業によって乾田化したので、ここにもビニールハウスによる施設野菜の栽培が盛んになっていった。
 若宮地区で明治・大正年間に栽培されていた主な野菜は、だいこん・かぶ・ごぼう・にんじん・さといもなどの根菜類と、きゅうり・なす・かぼちゃ・すいかなどの果菜類であった。葉菜類のはくさいは明治末年、キャベツは大正年間に導入された新しい栽培作物である(表2―1)。
 第二次大戦後の野菜栽培に大きな変革をもたらしたのは、①昭和三〇年からビニールハウス・ビニールのトンネル栽培が導入されたこと、②灌水方式が同三〇年ころからハネツルベからつき井戸による手押しポンプにかわり、さらに同四二年の干害を契機に動力揚水が普及したこと、③同三四年鹿野川ダムが完成し、水害の被害が減少したこと、④同四五年ころ国道五六号が改良舗装され、野菜の輸送条件がよくなったことなどである。
 ビニールハウスが導入されると、きゅうり・なす・トマトなどがハウスによって促成栽培されるようになり、さらに昭和四〇年代になると、いちごのハウス栽培も導入される。ビニールのトンネル栽培によれば、かぼちゃ・すいか・ピーマンなどの半促成栽培が可能となる。また灌水作業が容易になったことは、きゅうりなどのハウス栽培面積の増加、さらにはかぼちゃ・すいかなどの夏野菜の栽培面積を増加させる。かぼちゃ・すいかなどの夏野菜が増加したことは、鹿野川ダムの完成による洪水の被害が減少したこととも関連する。
 昭和四五年ころになると、じゃがいも・甘藷などの根菜類が減少し、はくさい・キャベツなどの葉菜類が増加するが、これは同四五年ころの国道五六号の改良舗装にともない、軟弱野菜の他地域への輸送が容易になったこととも関連する。なお、はくさいは同五三年大洲市の秋冬はくさいとして国の指定産地となり、また同年かぼちゃも特定野菜の指定産地となり、価格の安定と市場の確保がはかられた。

 野菜栽培の立地条件

 若宮地区に明治年間以降野菜栽培が盛んになった要因には、①野菜栽培に好適な自然堤防の地形の存在、②大洲市街地への近接性、③地元農民の野菜栽培振興への意欲などがあげられる。
 大洲盆地を流れる肱川は古来水害が多く、鹿野川ダムが完成するまでは、水害の常習地帯であった。肱川は氾濫のたびに泥砂を川ぞいに堆積し、自然堤防を形成した。その最大のものが大洲市街地北部の常盤町から若宮にかけてのものであり、全長三八〇〇m、最大幅八〇〇mに達し、愛媛県下最大の自然堤防である。この自然堤防上に中村・若宮の野菜畑が展開している。自然堤防はその微高地性ゆえに、用水路による灌漑が困難であり、水田には利用されにくいが、野菜畑としてはいくつかの好適な条件を具備している。それは自然堤防の土壌が砂質ロームで砕土能率がよかったこと、多孔質の土壌が固型有機物の溶脱を容易にし、野菜の連作障害の防止に役だったこと、さらに氾濫ごとに堆積した「タル土」といわれる粘土質の沃土が土壌更新をうながし、連作障害を防止しつつ野菜栽培を永続させたことなどである。
 大洲市街地への近接性が野菜栽培に有利であったことは、市場への近接性と下肥の取得に便利であったことである。中村・若宮の野菜産地は、元来地元の大洲市場と結合して成立したものである。若宮の野菜栽培農家の経営する市場は、古老の言によると、すでに明治二〇年ころに現在の新町一丁目の緒方薬局付近に存在していたという。その後、現大洲若宮郵便局付近などに移動したのち、明治三〇年ころからは、現在の堀之内二区の県道ぞいに設定され、第二次大戦後は大洲喜多農協組合の市場として引き継がれた。
 市場での野菜の販売方法は相対売り(勝手売り)であり、野菜を出荷した農家が地元の商人や大洲市街地の住民を相手に商った。明治・大正年間の野菜の大部分は朝どりで、四時ころには市場に出荷した。市場には各農家の固定した販売場所はなかったので、よい位置を確保するために、このように早朝に野菜を出荷したのである。出荷方法は明治年間にはもっぱら竹で編んだザル籠で担って出荷していたが、大正年間になると大八車、さらに昭和になるとリヤカーが普及し、これらの車で出荷するものが多くなってくる。野菜は市場で販売される以外に、商人が農家の庭先まで来て買い取るものもあった。
 明治・大正年間に野菜の一部は肱川を川船で下って、長浜に運搬され、そこから尾道・呉や松山方面にも出荷されたが、交通不便な第二次大戦前には、野菜の大部分は大洲市街地で消費されたものであり、その大洲市街地に近接していたことが、若宮地区の野菜栽培を成立させた大きな要因であった。
 大洲市街地への近接性は下肥の取得の点でも有利であった。明治・大正年間に野菜畑に投入される肥料には魚肥や油かすなどの金肥もあったが、最も重要なものは下肥で、下肥はいくばくかの金を支払って大洲の市街地で取得するものが多かった。若宮地区には小組として、堀之内・上組・中組・下組の四つの地縁組織があったが、それぞれの組には肥とり船が各一隻あった。この肥とり船には一か月に二人ずつ船番が出ることになっており、大洲市街地に下肥を購入に行く者は、番札をもらって三人一組で乗り合って行くのが通例であった。一隻の船には一荷二五貫ほどの肥桶が三〇荷ほど積み込まれた。若宮の河岸には一番なげから九番なげまでの船着き場があり、ここに肥とり船を繋留した。船着き場の堤防の中には道の両側に「野溜」が並び、ここで腐敗されたものが各自の畑に投入された。
 地元農民の野菜栽培振興への努力としては、野菜栽培グループの結成や新しい野菜栽培技術の導入、野菜市場の開設や新市場の開拓などがあげられる。野菜栽培グループの結成やそれによる技術導入については既に述べたが、利治中期に確立された冷床育苗によるきゅうりなどの半促成栽培は、大正年間には県内外から多数の視察者を迎えるほどになった。また昭和三〇年に導入されたビニールハウスは愛媛県の施設園芸の嚆矢(こうし)をなすものであるが、この導入に際しては、気候条件の制約からして大洲盆地では無理だと、普及事務所の技師から反対されながら、農民の努力によって導入された。明治中期の市場の開設も、県内では最も早いものと思われるが、これも若宮の野菜栽培農家が自らの利益をはかるために開設したものである。このように大洲盆地の野菜栽培は常に農民が主体的に取り組む形で推進された点に大きな特色がある。

 野菜栽培の特色

 若宮地区の野菜栽培の第一の特色は、栽培作物がきわめて多種にわたっていることである。昭和五七年の「野菜類の生産販売統計(県園芸農蚕課)」によると、大洲市で一〇ヘクタール以上の栽培面積をもつ野菜は、根菜類のだいこん・かぶ・ごぼう・さといも・たけのこ・じゃがいも・甘藷、果菜類のきゅうり・かぼちゃ・すいか・メロン・なす・トマト・ピーマン、葉菜類のはくさい・キャベツ・ほうれんそう・たまねぎ、それに枝まめ・スイトコーンの二〇作物にものぼる。栽培面積五ヘクタール以上のものをあげると、にんじん・しろうり・いちご・ねぎ・えんどう・いんげんまめの六作物が加えられる。愛媛県下で一〇ヘクタール以上の栽培面積をもつ野菜作物数は、松山市一六、宇和島市一一、西条市一〇、伊予市八、北条市七などで、大洲市の二〇作物というのはきわだって多いといえる。
 若宮地区は、その栽培作物の多い大洲市の縮図であり、多種類の野菜が栽培されている。多品目の野菜を少量生産することは、市場の値うごきに応じて、随時有利な作物を個人出荷する都市近郊の野菜栽培の特色であるが、加えて、若宮地区では水害への対応が栽培作物の種類を多くしたといえる。この地区の農家は、「百姓は百品作れば何かで助かる」と言い習わし、多種類の野菜を栽培してきた。その栽培作物については、昭和五六年の四月と一〇月の土地利用図を示すが(図2―1・2)、一枚の畑を二~三区画に区分して多種類の野菜を栽培している。それは水害の常習地であるので、水害に強い作物と弱い作物を組み合わせて栽培し、危険分散をはかったのである。
 多種類の栽培野菜のなかで、若宮地区を特徴づけるのは、ごぼう・だいこん・さといも・にんじんなどの根菜類であった。昭和四〇年の大洲市の野菜栽培面積が県内に占める比率をみると、ごぼうは一六・一%、さといもは一七・三%であり、共に県下一の産地となっている。このうち、ごぼうは湛水に弱く、さといもは湛水に強いというように、水害に対する対応を異にするが、共に葉菜に比べると洪水に強く、また洪水のもたらした「タル土」といわれる粘土質の沃土が厚く堆積していることが有利な栽培条件を提供していた。現在これらの根菜類の生産が停滞的であるのに対して、はくさい・かぼちゃの栽培面積が増加している。
 昭和五六年四月六日現在の若宮地区のカワラサキの栽培作物をみると(図2―1)、約六ヘクタールの畑に一八種類もの野菜が栽培されている。また、同年一〇月二五日の栽培作物を示すと(図2―2)、これまた一六種類もの多種類の野菜が栽培されている。
 この地区の春から夏にかけて栽培される主な野菜は、ごぼう・にんじん・さといもなどの根菜類、かぼちゃ・すいか・きゅうり・トマト・なす・いちごなどの果菜類などである。一方、秋季から初冬にかけての主な栽培野菜は、はくさい・きゃべつなどの葉菜類、かぶ・だいこんなどの根菜類である。かぼちゃ・すいかは初春にはビニールのトンネルで被覆した半促成栽培であり、いちご・きゅうり・トマト・なすなどはハウス栽培で、厳冬期から晩春にかけて出荷されるものが多い。
 この地区の野菜栽培の輪作体系は、野菜価格の動向、年間の労力配分、水害に対する危険分散、連作障害の防止などを考慮して確立されたものであるが、栽培作物の種類があまりにも多岐にわたるため、この地域としての普遍的な輪作体系は確立されていない。若宮在住の井上包の輪作体系(図2―3)と耕地の所在地(図2―4)を示すと、畑の立地条件によって輪作体系が異なっていることがわかる。
 図2―3の⑧・⑨・⑩の圃場はビニールハウスによる野菜の栽培を示すが、ここで注目されることは、一年二作で周年的に利用されているハウスが多いことである。この農家ではいちごとトマト、又はいちごとさといもを組み合わせた周年作であるが、きゅうりを栽培する農家では、二月から七月にわたって栽培する冬春きゅうりと九月から一二月にわたって栽培する秋きゅうりの周年作をしている者が多い。愛媛県内の主な施設園芸地帯である周桑平野のきゅうりやいちご、重信町のいちご、久万盆地の抑制トマトなどが、いずれも一年一作であるのと比べると、その土地利用がきわめて集約的であるといえる。       
 若宮地区の野菜栽培の第二の特色は、境木や灌水施設に特異な耕作景観を見せていることである。境木は畑の境界に植えられたボケやマサキの立木である。これらの立木は洪水ごとに「タル土」が堆積し、畑の境が没するところから、その境界を明示するために植えられたものである。その植栽場所については図2―1に示すが、畑の境界の要所に植えられている。鹿野川ダムの完成後は、この境木はその存在意義をほとんど失ったが、今日もかつての洪水の激しかった畑作地の象徴として残象を見せている。
 若宮地区には地形の関係上、灌漑水路は皆無であったので、昭和三〇年ころまでは畑作物への灌漑はハネツルベに頼った。当時若宮地区には二〇余のハネツルベがあった。ハネツルベは若宮の共有であり、近くの畑を耕作する利用者によって管理され、年一回程度の井戸ざらえがなされた。ハネツルベで汲み上げられた水は「ボラシ」とよばれる水桶に入れ、天秤棒で担って畑まで運搬し、竹の棒で止めた水桶の底にある栓を両手を使って抜きながら散水していった。砂質土壌の自然堤防上の野菜畑では、夏の水汲みは不可欠であったが、農民には最も苛酷な仕事であった。
 昭和三〇年ころになると、鉄管を地下水層まで打ち抜いたつき井戸が普及し、各農家が各自の畑に井戸を掘り、手押しポンプで揚水するようになった。若宮地区のつき井戸の数はまたたく間に二〇〇にも達した。数年後には発動機やモーターを使っての動力揚水が始まるが、それが本格化したのは昭和四二年の大干魅以降である。現在ハネツルベは姿を消したが、つき井戸については、自然堤防上の畑で散見される。
 若宮地区の野菜栽培の第三の特色は、野菜の出荷系統がきわめて多岐にわたっていることである(図2―5)。農協の共同出荷は本格的には昭和五一年に始まり、歴史も浅く、その出荷量は大洲市の野菜出荷量の一〇%程度にすぎない。他は個人出荷であるが、それは農家が直接松山市・宇和島市・八幡浜市などの卸売市場に出荷するものと、昭和四二年開設された大洲市農協の卸売市場に出荷するものがある。大洲市農協の卸売市場のセリに参加するものは、地元の仲買人に限られるが、これまた二つのタイプに分けられる。その一つは、地元の小売店に卸したり、自ら経営する小売店で販売したり、大洲市・喜多郡一帯に行商で販売するものである。他は、松山市・宇和島市・八幡浜市などの県内の卸売市場や京阪神などの県外の卸売市場に再出荷する転送業者である。このうち主体をなすものは後者である。
 現在大洲市で生産されている野菜のうち、約四〇%が大洲市と喜多郡で消費され、六〇%は種々のルートを通じて、県内外の卸売市場に出荷されているといわれている。元来、地元市場と結合して成立した大洲市の野菜栽培は、現在では交通機関の発達にともない域外の市場と結合して発展しているといえる。
 大洲市の野菜出荷体制の特色は、地元の仲買人の勢力が強く、共販体制が充分に確立していないこと、農家自体が商業活動を展開し、直接県内市場に野菜を出荷していることなどである。このような出荷体制の特異性のなかに、古くからの野菜産地の特色がよくあらわれている。

















表2-1 大洲市の野菜栽培面積の推移

表2-1 大洲市の野菜栽培面積の推移


図2-1 大洲市若宮の土地利用図(昭和56年4月6日現在)

図2-1 大洲市若宮の土地利用図(昭和56年4月6日現在)


図2-2 大洲市若宮の土地利用図(昭和56年10月25日現在)

図2-2 大洲市若宮の土地利用図(昭和56年10月25日現在)


図2-3 大洲市若宮在住の井上包の輪作体系

図2-3 大洲市若宮在住の井上包の輪作体系


図2-5 大洲市の野菜の出荷系統

図2-5 大洲市の野菜の出荷系統