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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 大洲和紙の盛衰

 大洲和紙に関する文献と資料

 延喜式や東南院文書や正倉院文書に伊予国の紙、喜多郡の紙の記事がある。大洲藩の文書の『積鹿邦語』や『大洲随筆』にも岡崎紙のことが書いてある。大洲藩主の御用紙を漉いた岡崎治郎左衛門の土佐紙技術導入者の墓は、五十崎町古田の上村(かむら)共同墓地にある。越前和紙の技術を普及した六部さんの宗昌禅定門)の墓は五十崎町平岡の香林寺にある。
 中央の文献の佐藤信渕の『経済要録』や、国東治兵衛の『紙漉重宝記』にも大洲半紙の記事がある。昭和五〇年地元の内子町坂町の旧家曽根一雄宅で、宝暦一二年(一七六二)の紙役所の文書が見つかり、また五十崎の楮役所の明和四年(一七六七)の制札が、楮役所のあった隣の和田金竜宅で発見された。
 昭和五三年には桜井久次郎が、『伊予史談』の二二八・二三〇号に「大洲和紙の流(1)(2)」の論文を発表しており、昭和五九年には村上節太郎が紙の博物館発行の『百万塔』の五六・五七号に、「大洲和紙の発達過程」の研究を載せている。
 正倉院の東南院文書に「天暦四年(九五〇)一一月二〇日 伊予国二百戸、うち温泉郡五十戸、風早郡五十戸、喜多郡百戸、租・庸・調・中男」とあり、伊予の紙は喜多郡二七二〇張、温泉郡と風早郡が共に一三六〇張となっている。
 これをみると喜多郡すなわち大洲地方が盛んなことがわかる。中男とは養老元年(七一七)以後、大宝令の少丁すなわち一七歳から二〇歳までに課した税目である。
 要するに大洲和紙は一〇〇〇年以上昔から漉かれていた。大洲半紙とは書道半紙のような紙で原料は楮である。楮を原料とする紙を地半紙といい、三椏を原料とするのを改良半紙と称する。大洲地方は半紙のほか障子紙・奉書・傘紙・提燈紙・製本紙・美術紙を漉くので、まとめて大洲和紙と称する。

 第二代藩主加藤泰興と岡崎治郎左衛門

 大洲藩の文書『積塵邦語』によれば、大洲藩主泰興(一六一〇~一六七七)は、隣の宇和島藩では、土佐の浪人の市川平七なる者が、色々の紙を漉いて、宇和島城主に召し抱えられているとの情報を得た。大洲藩では寛永一〇年(一六三三)のころには、大洲領内に紙類が衰えたのを残念に思われ「平七の一類の者これあらば抱えたく」と御役筋より平七に仰せ遣わされた。そこで平七は一族の治郎左衛門(一五六八~一六六五)が大洲藩の古田村(現五十崎町)に住んでいることを報告した。しかし治郎左衛門は「当時家職に御座なき故、不案内で一、ニヶ月油取(猶予)申侯」とあり、その後技術を習得した。
 また同書に「泰興御鷹狩の節、十夜ヶ橋付近で、馬から下りて平伏しているのを泰興が見て、彼は何者ぞと近くの侍に尋ねられた。則も土州浪人岡崎治郎左衛門とお答申上侯。人品骨格も宜しく御覧遊され侯や。御譜代侍同様の小姓に召抱られた云々」とある。
 紙の漉き方については、宇和島の市川平七より巧者な老人を差越させ伝授した。紙漉手伝の人夫は必要次第、藩の作事方から出働させた。入用の諸道具類も藩の支給で、特別扱いであった。治郎左衛門が自力で御用紙を漉くようになると、泰興は古田村の作業所に赴いた。漉場で手伝いの者がすべて平伏したので、泰興は自ら漉舟に歩みより、簀を取って無理な漉き方を始めた。これを見兼ねて治郎左衛門が、手をとって直接に口伝し指導した。それで泰興は機嫌よく帰城したという。
 あるとき泰興は大洲から肱川を舟で遡り、内山地区へ鷹狩りに来られた。一人で治郎左衛門の紙漉場を訪ねられ、声をかけられたので、治郎左衛門は藩主とは知らず粗略な返事をした。主君と判って今更仕方なく恐縮していたという。その晩、内ノ子のお茶屋(須崎本家、今は森文の醸造所の前で、戦後藤本善造の宅)にお泊りになった。そして呼出され、叱られるかと恐る恐る出向くと、「寒中、御用紙を漉いてさぞ難儀であろう」とねぎらわれた。御羽織を拝領したとある。
 岡崎紙は藩主の専用紙で、庶民には普及されなかった。

 越前出身の紙漉師宗昌禅定門の墓碑

 五十崎町平岡の曹洞宗の香林寺に、「宗昌禅定門」「大洲領紙漉師越前国人」「元禄一五壬午年五月一八日」と刻まれた棹の高さ五四・五mの墓碑がある。香林寺には元禄時代の墓はほかに見当たらないのに、六部さんで来て、このような立派な花崗岩の墓が建てられたのは、地元の紙漉百姓が感謝を示したものと思う。この墓碑については寿岳文章博士の『紙漉村旅日記』(昭和一四年)や成田潔英著の『紙碑』(昭和三七年)にも紹介され、岡崎治郎左衛門の墓とともに町の文化財に指定されている。
 この墓は昭和の初までは沼井淳弘家の墓地の隣にあった。大野象三郎(一八九四~一九八一)・松島市次(一八七七~一九五四)・宮田頼衛(一八九七~)らが世話人で有田大宗(一八九三~)住職(香林寺六世)指導のもとに、謝恩講をつくり、追善供養を行なった。そして墓を塀の内に移した。宗昌禅定門の俗名は香林寺の過去帖には善之進とあるが、西園寺源透の『洲城要輯25』には、「元禄一五年壬申伝兵衛の墓」とある。元禄一五年は壬午であるのに誤って壬申と源透が書いたので、香林寺の過去帖も位碑もこれを真似て誤っている。浅井伯源著の『伊予の山水と人物と事業』上巻(昭和五年)の「伝兵衛の墓」の項も実地を充分調査しないで執筆している。

 大洲藩の梶役所と紙役所

 大洲藩では二代藩主泰興が、岡崎治郎左衛門に御用紙を漉(す)かせたのは寛永中期(一六二八~一六三三)であり、五十崎町の平岡で宗昌禅定門善之進により越前紙の技術が普及したのは元禄年間(一六八八~一七〇三)と推定されている。
 その後大洲藩内の製紙は隆盛となり、延享三年(一七四六)には一八名の紙方仲買連中が結成されている。その氏名は桜井久次郎が『伊予史談』二二八号に紹介している。内山筋・小田筋の庄屋・豪農・奸商が生産者を圧迫して、巨利を博した。それに反発したのが、寛延三年(一七五〇)一月の内山区の百姓一揆である。それで商人の「座制度」が撤廃され、藩が宝暦七年(一七五七)から、原料製品の生産販売を統制するようになった。
 宝暦一〇年に大洲藩は精紙関係の役所・役係を整備した。紙役所を大洲・内子・中山に、楮役所を五十崎と北平(河辺村)と寺村(小田町)に置いた。
 五十崎の楮役所と内子の紙役所の位置は明確であり、五十崎の楮役所は、町の教育委員会で標柱を建てている。
 楮役所や紙役所の設立の年代は、従来二説あったが、証拠物件が出たので宝暦説が正しい。誤解のもとは喜多郡の郷土史家横田伝之松が、その著『喜多郡誌』(大正八年)に、次のように記していることによる。

延喜式に郡紙を産することを見れば大洲半紙の起源は極めて古く、其年代は詳ならざるも、明和八年大洲藩において財源を求むるため、楮の栽培と製紙の奨励を行ない、五十崎村北平村へ楮役所を、内子町中山村小田の寺村へ紙役所を設け、農家の副業として紙を漉かしめ云々。

とある。これを引用したと思われるのが、菅菊太郎の『愛媛県農業史』中巻であり、田中歳雄の『愛媛県の歴史』(山川出版社)である。これに対して宝暦年間とされたのは、景浦稚桃著『伊予史精義』(七四二頁)である。明暦八年より古いことは、曽根一雄家の文書や、五十崎の制札の発見で明らかになった。

 藩政時代の大洲和紙

 表2―12は宝暦一二年(一七六二)の大洲藩の町村別の半紙漉者・小間紙漉者・楮の仲買者数の貴重な資料である。この文書は昭和五〇年に「内子町の町並」の調査の際、曽根一雄家で初めて公開されたものである。
 これをみると、大洲半紙を漉く者は大瀬・中山・出渕・立山・五百木・村前・城廻・川中・河ノ内・論田・下田渡・上田渡・古田・寺村・喜多山・宿間・北表・田所・上石畳・平岡の順で、平岡は二二人である。これに対して小間紙は宇和川・藤川・四分市大谷・寺村・山鳥坂・大瀬・平岡・柳沢・田所の順である。
 楮仲買人は、紙役所のある内子の八日市・六日市、楮役所のある古田(現五十崎)と紙役所のある中山に多いことがわかる。河辺村の土佐に近い北平に二軒あるのは、土佐から楮を買入れた証拠である。

 『愛媛県誌稿』下巻には次のごとく記してある。「藩は保護奨励し、資金の欠乏する時は楮貸付の便宜を与え、製品は藩の御用船で大阪に送り、利益の幾分を営業者に分配した。それで藩の財源が潤沢となり、その差額は一万丸(一丸は半紙六締)藩の収入は知行高の八割に達したという。それで菅田村の平地では大豆の代りに楮を作ったことがある。それでも原料の楮が不足するので、年間土佐から五千丸(楮一丸は三貫百匁)も移入した年がある」と。

 当時の楮の搬入路は梼原街道で、『大洲手鑑』をみると、大洲中村―古田村―北表村―横山村(河辺)―小屋村(野村)―四万川村(梼原)の里程・駄賃・人足が誌されている。
 藩政時代の大洲半紙が良質で、有名であったことは、佐藤信渕が『経済要録』(一八二七)巻一〇に、「今の世に当て、伊予の大洲半紙は厚く且つ其の幅も優也。故に大洲半紙の勢ひ天下に独歩せり」云々と誌している。

 明治期の地半紙と改良半紙

 藩政時代日本一良質で知られた大洲半紙は、明治初期に、統制が解けたので粗製品をつくり声価を失うに至った。その不評を挽回するため、内子町の紙商の吉岡平衛は、三椏を原料とする改良半紙に着目した。明治一八年(一八八五)に自ら内子に製紙工場をつくり、土佐から紙漉の職人を招いている。また同一九年には天神村の栗田邦住、宮脇辰次郎とはかり、天神村で十数名に、二か月余り技術指導をしている(伊予紙見本帳)。天神村柿原の山田佐藤(一八八一~一九六一)(善重郎)は吉岡平衛の助言で、明治二九年(一八九六)に改良半紙に着手し、同四一年(一九〇八)年ころに村上茂平をして先進地の川之江を視察させ蒸気釜を据えた。
 明治中斯までは大洲半紙は楮を原料としていた。明治二二年(一八八九)に、楮栽培を奨励し、調査した文書が、内子町に残っている。喜多郡の楮栽培者が六、四四三人であり、当時の郡長は下井小太郎である。同四一年には内子町長佐伯敬次郎の指導で、大洲産紙改良同業組合を設立した。区域は喜多郡、上浮穴郡の小田郷、伊予郡の中山町を含み、組合員は四三〇であった(伊予紙見本帳)。

 明治大正初期の工場化

 明治中期までの大洲和紙は個人企業か農家の副業で、一槽か二槽であった。横田伝之松著『喜多郡誌』中巻(大正六年)によれば、柿原の山田組製紙は明治四二年八月創立で工員八五名、隣の山田鹿太郎(山田佐藤の叔父)製紙は大正三年(一九一四)一月創立で六九名、五十崎の藤本製紙場が同三年一二月創立で工員八九名、山田佐藤は同五年五月山田組を改組拡張し大洲紙製造合資会社とし工員七二名であった。井口製紙は同六年に井口重衛が二五槽の工場を天地の田地を潰して設けた。大正七~八年の好況期に五〇槽に規模を拡張した。職工は地元はもちろん宇摩郡や高知県からも招き、一時は従業員二〇〇名に達し活気を呈した。その後不況となり数年にして五十崎の藤本製紙も倒産し、柿原の大洲製紙は戦後、機械漉のチリ紙に転換した。
 井口製紙は昭和初の不況に、近在の栗田敬次郎・村上孫告・大野象三郎らが出資して再興を図ったが、昭和五年倒産して予州銀行の所有となった。そして七か月間工場を休んだ。従業員は困ったので、銀行支店長の大野象三郎は、天神産紙(井口製紙を改称)を昭和六・七・八年の三年間経営し、天神信用組合にいた沼井福治郎を招いて専務にし、昭和九年には株式会社に改組し、辛うじて存続した。
 昭和一四年に寿岳文章博士が天神産紙工場を視察された当時のことは、『紙漉村旅日記』に詳しい。このとき三椏にパルプを混ぜて、改良半紙を漉いていた。工場長で技術指導者の篠原荒吉は川之江出身で、「紙聖篠原朔太郎」の実弟である。篠原が天神村に住みついたのは次のような因縁である。大正の初、大洲の中村の製紙家中川健太郎(鉄砲商)は、大洲警察署長から三島警察署長に転任する警官に、和紙の技術者の招へいを依頼した。それに篠原が選ばれ、大洲の平地の二宮製紙場へ赴任した。次いで天神村に招かれ、山田・藤本・井口の各製紙工場に関係した。
 表2―13は明治末と大正末の製紙家と生産額の表である。天神村だけが製造戸数が一〇分の一以下に減っているのに、産額が六倍以上増えているのは、工場化のためである。

 戦時・戦後の大洲和紙

 戦時中に、天神産紙工場と近くの字都宮豊宗工場は、気球用の強靭な和紙を漉いた。宇都宮工場へは勤労動員の女子学徒も二〇名来村し、コンニャクを塗って加工した。戦後は凧のように貼ってガラス代用にし、県立北予中学校の窓ガラスにも使用した。気球爆弾については、古谷綱博が『季刊えひめ』(坂本忠士篇)第七号に詳しく書いている。
 戦時中は紙の原料が少ないので、旧家の古文書類などを供出した。松島市次経営の大洲製紙工場はパルプを入れて原料不足を補い、機械漉に切替えた。名称も昭和二六年から同三〇年まで、大洋製紙と称し、藤岡基茂が社長、石川千代二が専務であった。同三一年四月から大登製紙株式会社となり所有者は池田光雄であるが、五九年一月から八幡浜紙業社長の山泉真也が代って経営することになった。製品もティッシュペーパー六〇%、トイレットペーパーと、京花紙で四〇%である。従業員は三四名である。
 天神産紙は専務の沼井福治郎が戦後、過労のため病死したので、学徒出陣から帰還した長男の沼井淳弘が親のあとを継ぎ、昭和四一年から社長になった。前社長の大野象三郎の相続人の大野明が専務となった。その後昭和五六年に大野明が教育長となったので、沼井淳弘の長男の光博がUターンして専務となった。
 昭和三八年当時は、五十崎町に次の一三軒の製紙家があった。①天神産紙 ②長野製紙 ③宮田頼衛(俊雄)④宮部恒久(喜久隆) ⑤西岡勝美(芳則) ⑥田中健蔵 ⑦宮岡清春 ⑧橋本義光 ⑨高倉熊雄 ⑩大森卯平 ⑪田中栄助 ⑫松原忠衛(三喜男) ⑬小田栄(五十崎古田の上村)。現在の①~⑤が存続しており、⑥~⑬は昭和三九年ころに廃業している。大洲市平地の二宮製紙が昭和二七年まで、野田の越智崇(越智三平明治一二年創業)も昭和四五年まで半紙や傘紙を漉いていた。紙漉業者が漸減したのは、重労働の割に収入が少なく、若い人は楽な仕事を選び、後継者が少ないためもある。

 大洲和紙の現況

 大洲和紙は昭和五二年九月に、「大洲和紙の里」として、五十崎町から町の文化財に指定され、また同年一〇月に通産大臣指定の伝統工芸品に指定された。翌五三年五月には、天神産紙工場は店舗を改造し、展示室と即売店を設けた。また製造工程の実演を無料で公開している。同年一〇月愛媛県観光協会推せんの、内子の町並と合して「ふるさと観光バス」のコースになった。
 昭和五九年現在の大洲和紙の業者は、喜多郡五十崎町の旧天神村に、僅かに五軒と、泉貨紙を漉いている東宇和郡野村町高瀬の菊池定重の一軒、計六軒にすぎない。①天神産紙は最盛期には五〇槽もあったが、今では合理化して一〇槽にした。それでも日本一大規模のマニュファクチャー手漉和紙工場である。従業員二五名、うち女性二〇名である。製品は書道半紙が四〇%で販路は因州・尾張・甲州の問屋を経て東京へ。障子紙が四〇%で美濃・東海地方へ。二〇%が美術工芸紙で全国に出すという。原料の三椏も楮も七〇%は土佐から、雁皮の一五%は防長と県内。タイ楮を一〇%ほど輸入している。②長野製紙は当主幸博が二代目で、四槽あり、従業者五名、家族労働を入れると七名。初代長野告五郎は川之江出身。おもに障子紙と書道半紙を漉いており、島根県の津和野半紙にも化けている。③宮田俊雄も二代目で、提燈紙を夫婦で漉いており、専ら岐阜に送っている。原料は楮である。④宮部喜久隆も第三代父子で、書道半紙を漉いており、農業が主で、紙漉は副業である。⑤旧天神村上重松の西岡芳則はUターンして父祖の業を継いだのに、残念父勝美は急逝した。母が乾燥を受持って本人(昭和二七年生)が楮を原料に、障子紙四〇%とヨーロッパへ輸出する製本用紙を六〇%漉いている。障子紙は岐阜へ、製本紙(障子紙に類する紙で大さ二尺一寸と三尺三寸)は横浜の貿易商に出している。生産額は筆者の推定で、天神産紙が一億、長野と菊池が二〇〇〇万、富田が五〇〇、西岡が四〇〇、宮部が三〇〇万円で、景気は横這いか目下不況と思う。


表2-12 宝暦12年(1762)当時の旧町村別の半紙漉・小間紙漉・楮仲買者の人数

表2-12 宝暦12年(1762)当時の旧町村別の半紙漉・小間紙漉・楮仲買者の人数


表2-13 明治44年(1911)・大正15年(1926)の大洲和紙の製造戸数と生産額

表2-13 明治44年(1911)・大正15年(1926)の大洲和紙の製造戸数と生産額